- ナノ -


06


「……おき、た?」

いい加減慣れた真っ暗な視界と、しかし覚醒する意識に目を覚ましたことを自覚する。
どうやらいつの間にか意識を失っていたようだ。精神的な疲労がピークに達していたのだろう。だが、睡眠を取ったおかげか意識が多少クリーンだ。昨日受けた精神的苦痛も、過去の出来事としてどうにか処理できている。
何か、行動を起こさなければならない。でなければ、あれと同じようなことがまた起こり、それよりさらに恐ろしいことが起こるかも知れない。
それに、私がいなくなってから暫く経過しているだろう。両親も不安に感じているに違いない。
目元に手を這わせる。目を覆っているそれは、柔らかな感触だ。シーツとは別の肌触りの良さがある。すぐに剥がれそうに思えて、全くそんなことはない。
畳みかけられるばかりだったが、怯えてばかりはいられない。精神年齢何歳だ。しっかりしろ、私。
絶対に逃げてみせる。好き勝手させてたまるものか。

「おはようございます。朝食持ってきましたよ、火花さん」

扉が開き、犯罪者の『ホークス』がやってくる。おはよう、ということは今は朝で、一夜開けたのか。
昨夜は随分とやりたい放題してくれた男だが、平然とした口調で近づいてくる。
その場から動かずにじっと待っていれば、ベッドに腰掛けた音とベッドの沈み具合を感知した。

「ご飯がいいかなと思って、おかゆにしてみました。あ、でもちゃんと味はついてるので安心してくださいよ」

食器の音を聞きながら、しっかりしろと言い聞かせて口を開く。

「あの」
「卵入れたんですよ。ちゃんと火は通ってますよ」
「すみません」
「あ。でも俺の味覚的に、薄いかなー? ってぐらいにはしてありますから。きっと貴方の好みですよ」
「ちょっといいですか」

声をかければかけるほど、やばい奴だと実感して話しかけたくなくなった。だが、そうは言っていられない。
まだ友好的に見えている内に、情報を集めなければ。
声をかけ続けていれば、ようやく言葉が止まった。

「どうかしましたか?」
「……貴方の、本当の名前はなんですか?」
「本当の名前?」
「はい。ホークスって、本名じゃないですよね」

ホークスは、ヒーローホークスから取った偽名だというのが私の予想だ。
相手は本当に、気味が悪いほどに、親しく接してくる。まるで古くからの友人……いや、家族かのように。
なら、懐柔されたように見せかけて、情報を得るのが一番効率がいいだろう。だが、加減を間違えれば自分の墓穴を掘ることになる。慎重にいかなければならなかった。
男は僅かな間、黙った後に言葉を返す。

「教えたら、呼んでくれるんですか」
「え?」
「俺の本名、教えてあげたら、それで呼んでくれるんですか?」

……どういう意味だ。こいつの言うことは意味不明なことばかりだが、これも意味が分からない。
呼びづらい名前なのか? だが、ならわざわざこんな物言いするだろうか?
少し思考を巡らせて、呼びづらさよりも名前を知ることが重要だと切り替えた。

「はい。本名で、呼びます」

端的に告げれば、僅かな間の後、そっか。という吐息のような、感嘆にも聞こえる声が漏れ聞こえた。
そして、察した。……喜んでいる。しかも――心から。
私は、前世を覚えているという特殊な環境から、人の感情には敏感な方だ。いや、敏感になったというのが正解か。おかしく思われないように、変だと感づかれないように。相手がどう思っているか、できるだけ探るようになった。変なところで冷静だった私は、そういうことだけはしっかりしていた。
だから、こいつが本当に嬉しいのだと分かってしまった。……分かりたくはなかった。
男はこちらをむいて、ゆっくりと名前を口にした。

「俺の名前は、けいご。啓示の『啓』に、悟るの『悟』で、啓悟」
「けいご、啓悟、さん」
「ふふ、啓悟でいいよ。火花さん」

明らかに上機嫌な声色で、詳しく教えられる。そして、顔を顰めそうになるのを必死で抑えていた。
何せ『啓悟』というのは――僕のヒーローアカデミアの作中で、ヒーローホークスの本名として語られていたものだったから。
……この男は、ヒーローホークスの本名を知っているのか。伏せられていて、世間には知られていないようすだった彼の名前。それを、こいつは知っている。
だが、それを指摘することはできない。何せ私は一般市民で、ヒーローホークスの本名を知っているはずもない。痛みだした頭を考えないようにして、再度問いかける。

「どうして俺のこと、さん付けするんですか?」
「どうしてって、当然でしょ」

当然? どういうことだろうか。また意味の分からないことを言う。
けれど上機嫌なことは変わっていないらしい。男はそのまま語った。

「貴方のこと、呼び捨てなんてできるわけないでしょ」

……誘拐し、監禁して、無理矢理下の世話までした相手を?
自分の価値基準と比べても意味はない。だが、あまりにも常識が欠落している思考回路に更に頭痛が強まった。
頭痛に耐えていれば、唇にスプーンを当てられて食事の時間が始まってしまう。確かに、昨日のスープより味が薄い。塩加減が好みの量だった、が、状況が状況だ。おいしさなど感じられない。早く家の料理が食べたくて、焦る気持ちが募るようだ。
全て食べ終えて、口元をタオルで軽く拭かれる。良かった、前回のようにとち狂った行動はしてこないようだ。

「いっぱい食べて偉いですねぇ」

褒めるように頭を撫でられて、思わずたたき落としそうになるのを必死で耐える。気安く触るな気持ちが悪い。けれど、嫌って言うほどに、優しく、割れ物に触るように撫でているのが分かった。反吐が出そうだ。

「……啓悟さんって、どんな個性を持っているんですか?」
「俺の個性?」
「はい」

直接的なことを聞きたいが、あえてそれを避けて質問をする。
食器がこすれる音が聞こえなくなり、男の注意がこちらを向いたのが分かった。
なぜ私をここに監禁しているのか、目的は何なのか。問いただしたいが、その前に男の能力の把握をしておいたほうがいい。感情的になられたときにも、情報が一切ないよりはましだろう。そして、もしかしたらこの目隠しをどうにかする手段が出てくるかも知れない。

「俺の個性は『剛翼』背中に生えた羽を自由に動かせる個性だよ」
「……それは、すごいですね」
「そーお? 火花さんにそう言ってもらえると嬉しいです」

小さな笑い声に、こちらはため息をつきそうだ。どうやら相手は私に本当の個性を伝える気はないらしい。
初めからホークスと名乗り、本名も啓悟と名乗ったこいつは、その個性もヒーローホークスと同じものを名乗った。自分がヒーローホークスであるという設定はぶれさせる気はないようだ。別人だとこちらは分かっているのに、よくやるものだ。

「火花さんの個性はやっぱり――」

続いた会話に、首を傾げかける。『やっぱり』? どういうことだ?
しかし、相手の言葉も重要な情報だ。黙って相手の言葉の続きを待つ。

「――ああ、ごめんなさい。そうか、今は……個性は、なんです?」
「(今は?)……俺に個性はありません。無個性です」
「無、個性?」

謎の文脈で尋ねられ、しかし正直に答える。残念ながら嘘をつくような個性もない。
だが、相手にはそれなりの衝撃だったらしい。言葉が止まっていた。
このご時世に無個性というのも珍しいと言えば珍しい。しかし全くいないわけじゃない。明確に言うのならば『無個性もどき』であるが、もどき部分を詳しく説明する気も起きない。
おかしな文脈。何かを思い当たり、言い直したのはどういった意味なのか。それに『今は』というのは……。まるで『昔』があるような物言いだ。顔を見ていないから断言はできないが、私はこの犯罪者とは初対面のはずだし、個性は生まれてこの方発現したことはない。この男は何と私を比べたのか……。もしかして、私以外にもこうして誘拐してきた子供たちと比べたのか? それだったら理解できる。すでに個性を知っているかのような言葉を発したのも、以前の子供と混同したのかもしれない。

「それは、苦労しましたね。すみません、不躾なことを聞いてしまって」
「え? いや、別に……」

思考を巡らせていれば、なんだか嫌に沈んだ声が聞こえて動揺する。なんだ? 哀れんでいるのか?
そういった反応には慣れっこだったが、今回は私から個性を聞いたのだ。大人であればあるほど、自分に非がないことは分かるだろう。
情緒が不安定なのか? それとも、人に対する感情が一般とは異なるのか。自分の犯罪に罪悪感は持たないが、虐げられている人を見ると悲しむような、自分のことを棚に上げる己の行動への責任が取れないタイプの人間か。
犯罪者らしいな、と嫌悪が滲んでくるのを感じながら相手の出方を伺っていれば、膝に置いていた手に触れる感覚。くそ、相手の手だ。触られた。

「大丈夫ですよ。俺が守りますから、貴方に嫌な思いは、一つもさせません」
「……」
「俺がずっとそばにいますから」

何がずっとそばにいる、だ。私はショタコン犯罪者に側にいてほしくなんかない。いて欲しいのは父と母だ、家族だ。それだけだ。
守って欲しいのはヒーローに、嫌な思いはこいつから何度もさせられている。
今すぐに叫び喚きたいのを押さえ込んで、握られる手に必死で耐える。落ち着け、ここで暴れてはいけない。まだ時期じゃない。
そう思うのに、形を確かめられるように指でなぞられ、気色悪さに噛みしめた奥歯が軋んだ。

「もう貴方を一人にしません。絶対に」

真摯に誓われるようなそれに、害意はなかった。ただ、正気がないだけで。
こいつは、この男は、何かを守りたいらしかった。だが、それは守られなかったのだろう。
悔いが混じる言の葉は、だからこそ強い意志を感じる。それを向ける相手を決定的に間違えているようだが。
僅かに浮かんだ『哀れ』という感情を殴りつけて黙らせる。犯罪者に同情するな、それはまがい物だ。この状況下で起こる一過性のものにすぎない。
両親のことを考えれば、こいつに同情するのが決定的に間違いであるというのが分かる。子を奪われて、何かの代わりにされて監禁されている。両親を想え、自分の身の保身を最優先にしろ。

「朝食、ありがとうございました」
「気にしないで。食べたいものがあったら何でも言ってくださいね」

優しく告げる男はそのまま食器類を持って部屋を出て行った。
深く息をついて、そのまま背後へと倒れ込む。嫌な人だ。食べたいものと言っても、それは自分で食べられることが前提だ。決して人から手ずから食べさせられてというものじゃない。それに、一番食べたいのは家の味だ。あいつには一生かかっても無理だろう。
ホークス、啓悟、剛翼……こうも話を聞くと、どうしたってヒーローホークスが脳裏に過る。最速の男と漫画で謳われ、実際に世間でもそう称えられている彼が、今すぐにでも助けに来てくれないだろうかと願ってしまう。しかしじっとしていても耳鳴りがするほどの静寂だけがあって、期待した分の虚しさが襲ってくる。
男の個性も今だはっきりしない状況。ただ、目的は薄らとだが分かった。自分が持っていた『大事な物』になぞらえて、それの代わりにしようとしているのだ。全ての世話を自分で行い、外に出さないことで守っていると錯覚している。もしかしたらもっと別の目的があるかもしれないが、今のところの仮想はこれだった。
だが、そろそろその『おままごと』から抜けさせてもらわなければならない。下の世話をされようと、こちらはプライドも人権も持った人間なのだ。無理矢理遊びに付き合わせる犯罪者のいいお人形になってはいられない。

暫く時間を起き、音が聞こえないことを確認して動き出す。
部屋の様子を把握しようと手足を動かす。ベッドはやはり天蓋ベッドのようだった。確認が終われば次はベッドの外だ。
ベッドの縁へ行き、ゆっくりと足を伸ばす。ゆっくりゆっくり動かして、指先が床に触れる。どうやら、普通のフローリングのようだった。特に何か仕掛けられている様子もない。そのまま両足をつけて立ち上がる。

「……立った」

フローリングに立っただけだ。なのに、こうも感動するものか。
湧き上がる歓喜に、一旦深呼吸をする。ずっと柔らかいベッドの上にいて自由とは無縁の生活だった。それが、自分で歩ける、動けると分かって想像以上に喜びがわき上がってしまった。落ち着いたところで、足を上げずにすり足でゆっくりと動き出す。まずは壁を見つけるところからだ。
ベッドを手すりにしながら壁を探す。ベッドの縁の一つが壁と密着しており、直ぐに部屋の一面を見つけられた。
すり足で、手のひらは壁につけたままで歩き出す。部屋の広さを把握しよう。
どころどころ、棚のような障害物に足が触れつつ、それを回避しながら部屋の全体図を脳内に描く。
距離の感覚が間違っていなければ部屋は八畳ほどの広さだった。一人暮らしのワンルームぐらいか。といっても、この部屋にはキッチンなどはなかった。壁をつたって見つけたのは棚と大きめの窓ぐらいだ。寒さも熱さも感じないため、おそらくは空調が効いているというのも分かった。

「他にも部屋がある、防音もしっかりしてるし、金持ちなのかな」

思考を整理するために囁くように口に出す。この音量なら他には聞こえないだろう。
軽く壁を叩いてみると、硬質な音がして壁の厚さがなんとなく想像がついた。窓は私の胸より上あたりにあり、こちらも確認してみたがガタつき等は一切なく、しっかりと密閉されている熱いガラスのような音がした。外の音も聞こえないとなると、一般家庭で使用されているようなものではないのかもしれない。
間違いでも守るなどと口に出していたとおり、防犯はしっかりしているようだ。犯罪者はあの男本人なのだが。
そして重要なのは――他の部屋に繋がる一つの扉。
ドアノブを発見して、激しい鼓動を抑えるのに苦労した。なにせ、脱出のための一番の近道だ。だが、安易にドアノブをひねることはできない。外が廊下などではなく、リビングなどに続いていた場合、あの男に目撃されてしまう可能性がある。だから、今やれるのはそのドアノブに鍵がついているかの確認だった。
ドアノブを引かないようにして、周囲を詳しく触る。すると、鍵穴のようなものはないことが分かった。鍵は、かかっていなかった。
ふざけているのか、それとも逃げ出しても直ぐに捕まえる自信があるのか。理由は分からないが、扉が開いている可能性が高いことは知れた。

できれば、ヒーローや警察を待ちたい。だが、私もそろそろ我慢の限界だった。
精神的な部分もあるが、それより何より身体的なところが大きい。下の世話もいろいろある。今回は尿意だったが、それ以外も当然存在する。正直に言えば、便意は解消されていないのだ。今はまだ、特に問題ない。だが明日もずっとこのままだったらおそらく明後日からは我慢比べが始まる。
絶対に、絶対に絶対に、そうならない内に逃げ出したい。利口な考えでないのは分かっているが、これでも元成人女性だ、これ以上トラウマを刻まれたら今後の生活に支障をきたす。折られる心はできるだけ少ない方がいいに決まっている。
逃げ出すにしても、失敗したときが怖いが……。僅かでも外にSOSを残せれば、救助の手が早くなるかもしれない。
そもそも、ここにずっと閉じ込められてしまっていてはSOSの発信さえもできない。この部屋でできることがあれば良かったが、そうもいかなそうなのが分かってしまった。

胸元で拳を握る。決行は、夜だ。

本当は人の多い昼が良かった。だが、男が昼間も家にいると仮定すると見つかる時間が短くなってしまう。
夜ならば目が見えないハンデはなくなる。といっても、目隠しは外す予定だが。
何度か考えた、これが最善かと。しかし自身の体調・精神状態、プライドを測りにかけて勝負にでることにした。全くの従順になるのは、本当に自分ができることが全くないと悟ってからで良い。これでも普通の五歳児ではないのだ。やれることはやらなければ死にきれない。
……この超人世界では、人の命は少し軽い。警察も、ヒーローも死傷することが前の世界よりも多い。そうはいってもよく聞くような話ではない。けれど、僅かであれど死が前の世界の日本より近いのは確かだろう。別に、死ぬつもりはない。しかし考えなければならない、逆上した犯人に殺される可能性も。
黙って死を待つよりも、自分から挑んだ方がまだましだ。死に急ぐわけではない、死から離れるために。死ぬのは一番の親不孝だ。だから、私はしっかり親に謝らなければならない。こんな状況になったこと、そしてトラックに飛び込んでしまったこと。

しっかりとベッドに戻って、静かにしていれば啓悟と名乗る犯罪者は二度部屋にやってきた。
昼食と夕食を食べさせるためにだ。相手の気に障らないような会話だけをして、大人しく食事を取らせられる。

「良い子ですね」

我が子を褒めるように蕩ける口調で喋る男は、一体何と私を勘違いしているのか。きっと、それも男が捕まれば分かることだろう。
男はトイレの心配をしてきたが、大丈夫だと丁重に断った。それらを行われないためにできるだけ男が勧めてくる水分は取らなかった。だが、我慢できるのは朝までだろう。知ってか知らずか直ぐに引いた男はまた来ますと告げて出て行った。
真っ暗な闇の中で実行の時を待つ。急く気持ちを落ち着かせて、あいつが寝たであろう時間に動き出さなければならない。
失敗するか、成功するか分からない。実行することだけを決めていた。


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