『■■□■■』
- ナノ -



? アザトホース”



「なえ、どこだい」

少女が一連の生物兵器を大勢の人々の正気と引き換えに全て破壊した後。
彼女は簡単な自己紹介をした後、身の振り方に困ることとなった。
姿かたちを変え、ヘルサレムズ・ロットに訪れた彼女の目的はスカーフェイスを見つけることだけだった。
その目的を終えてしまった彼女は、その後どうするかなど決めているはずもなく暫し悩んだ。
だが、そんなことは彼女にとって些細なことだった。目的がなくなったのならば、新たな目標を立てればいい。
折角だし、ヘルサレムズ・ロットを観光しつくそう。仲の良い人間をもっと増やそう。この世界がどんな世界なのかを知っていこう。
そしてできればヘルサレムズ・ロットを出て、普通の世界を見て回ってみたい――そこまで今後を問われたなえと名乗った幼女が口に出したところで、ぎりぎり正気を保っていたスカーフェイスことスティーブンが口を出した。

――この街で一人で生きていくなんて危ない。僕の家へ来ないか。

ある意味、苦渋の決断だったといえよう。
彼女は人間ではない――それどころか、中身は人々ならず異界生物でさえも正気を保っていられないほどに悍ましく、混沌の塊のようなものだ。そんな彼女が自由に動き回れば、あとはどうなるかは大体予想がつく。そして少女はヘルサレムズ・ロットの外にまで行きたいなどとニコニコ笑みを浮かべて宣言しているのだ。
彼女ならそれが出来る。どれほど頑強な門があったとして、どれほど厚い霧があったとして、彼女はそれを全て破壊していく。彼女という悍ましい生物を留めておける空間などありはしない。彼女が無明の房室からこうして姿を現したように。

スティーブンからの提案に、ライブラメンバーは驚きに顔を染めた。
しかし、同時に納得する。彼女は、彼女は“どうにかして手綱を握っておかなければならない存在”だと。
それが無意味だとしても、そう思っていなければ真実を欠片でも知る者たちが片時も安堵などできないのだと。
なえはスティーブンからの提案を聞いて、ライブラメンバーと同じく驚いた表情を浮かべた。
それから、少し悩んだ後に

――でも、めいわく、ちがう?

と気遣うようにしてみせた。
幼女は、正しく無垢であるようだった。自分がいることについての煩わしさなどを考えて、遠慮していたのだ。
それだけを見ればただの少女だ。だというのに、その中身はどこまでも闇が広がっている。
そのギャップに、ライブラのメンバーたちは眩暈と吐き気を催すようだった。
スティーブンは遠慮するなえを、必死で口説いた。大丈夫、何も心配いらない、君のような子が一人でいる方が心配だ。
それに対しての返答が“でも、ひとりでも、だいじょうぶだよ?”だったのにはスティーブンも心が折れそうになったが(そうであることをよくわかっている)それでも説得し続けた。

最後には、彼女は嬉しそうに笑って“たのしみ!”とスティーブンとの新生活を承諾することとなった。
その笑みを見て、ただ外見を誤魔化している怖ろしい存在であることを一瞬でも忘れそうになったスティーブンは、本格的に自分の正気は彼女に喰われているのではないかと邪推した。




「なえー?」

スティーブンの住居は、一人暮らしとは思えないほどに大きい。
家政婦のヴェデッドを雇っているので、清掃は怠ったりされることはないが、それでも一人で暮らしている分にはかなり広く感じられる。そんな家に、新しい住民が住むようになった。
その住民を家政婦であるヴェデッドが見たとき、驚きに目を丸くしていた。家政婦としてプライバシーに踏み込むことを良しとあまり考えていなかったヴェデッドは深くは聞かなかったが、雇い主と似ている幼い少女を見て、何も思うなという方が難しいだろう。

ちょうど時計の針が8時に回ろうか、という時間。窓の外は暗く、夕食も食べ終わっている。
そんな時間に新たにやってきた住人が言ったのは、かくれんぼをしよう! とのことだった。
ここ最近、チェインの存在希釈を目の前で見て大興奮していたその住人は、人から隠れるということに拘っているようだった。それに付き合わされるのは昼間はレオナルドだったり、ザップだったりするが、夜はもっぱらスティーブンだ。
家に帰ってきて構ってくれるのがスティーブンしかいないこともさることながら、なえは特別スティーブンに懐いていた。

「いったいどこに隠れたんだ? 見つからないにもほどがないか?」

スティーブンは頭を掻いてため息をついた。
自分の家という事もあり、至ることろまで探しつくしたはずだ。それなのに、一向に小さな住人の姿が見当たらない。
ここでヴェデッドがいれば話を聞くこともできるが、生憎ともう勤務時間は終わってしまっている。
どこに隠れているか、皆目見当もつかないスティーブンは両手を上げて少し大きな声を上げた。

「降参だ。もう出てきてくれないか?」

そう声を上げて、一秒も経たない内だろうか。
ふと、スティーブンの背に悪寒が走った。思わず戦闘態勢に入りそうになる体を無理やりに諌め、後ろを振り向く。
それは、なえと同居するようになって、よく感じるものだった。今すぐにでも逃げ出したくなるような、圧倒的な絶望感を与えられるような。それは、ある意味幻想であり、ある意味真実だ。
後ろを振り向いて、首を下へと下げる。
そこには幼女が一人、スティーブンの足に手をまわしてニコニコと楽しそうに笑っていた。
先ほどまで、いる気配さえなかった少女が、足をつかんでそこにいる。
ぞっとする内心を抑えながら、笑みを浮かべた。

「そんなとこにいたのか。どうやったんだい?」
「ちぇいんの!」

思考が止まりかけるが、どうにか動かす。
そうか。この少女は、人狼の特性である存在希釈をやってのけたのか。
スティーブンは深く考えることをやめた。

「すごいなぁ。でも、それだと僕が見つけられないじゃないか」
「む。たしかに……」

むむむ。と考え込むなえに、随分と親しく話すようになったものだとスティーブンは思った。
最初は――あの“声”だけを聞いていたときは、あんなにも警戒していたというのに。
その実態が、こんなにも無垢だとは、誰も思うまい。

「じゃぁ、つぎからは、みえるようにするね」
「ああ。そうしてくれ」

ふんす。と鼻息荒く宣言するなえは、どうやらかくれんぼには飽きてはいないらしい。
まるで保父のような現状に、しかし悪くないと思う自分がいることにスティーブンは気付いていた。
彼女が、どんな存在かいやというほど知っているというのに。
意気込む少女の両脇に手を差し込んで、一気に持ち上げる。それに、楽しそうな声を上げたなえは、そのままスティーブンに抱えられた。

「じゃあ、そろそろお風呂入ろうか」
「む。みず、きらい」
「そんなこと言わないで。前みたいに湯船を全部飲み込んだりしないでくれよ?」
「むぅぅ……」

不機嫌そうな表情を見せるものの、抵抗はせずにおとなしく連れていかれるなえに、小さく笑みをこぼす。
こうしてみれば、ただの人間の少女にしか見えない。
だが、スティーブンは知っている。彼女がどれほどに怪物なのか、化け物なのか、真実の姿を見ただけで、頭を可笑しくする生物なのか。そんな生物を、外見は人間だとしても、こうして抱きかかえ、共に過ごしている。その事実が、どうしようもなく滑稽で、恐ろしく思える。
それでも。

「(暗愚と呼ばれる生物も、実態はただの少女、か)」


世界を創造し、破壊する。
全ての根源である暗愚、その名をアザトホース。
その実態を見たいならその少女を見ればいい。そうして知るのだ。無垢であるがゆえに、この世界は存続し、正気を保っていられるのだと。

それを知る男は、少女と同じ目を持って、少女の行く末を覗く。