? 果てしなき魔王 ずるんっ、と。 “それ”は少女の背中へと戻っていった。 そして少女は、ニッコリと笑って、両手を上にして、喜びを体で表すように言った。 「うん、みんなぶじ。おーけー!」 正直、無事なのはクラウスだけだった。 ザップは泡を吹きながら白目のまま意識を失っているし、チェインは顔を真っ青にして“スティーブンさんが触手攻め、うう……み、みたいかも……”などとブツブツ言いながらも目を覚まさないし、スティーブンは“あはは、あは、目が、目が見えるなー”とか“触手が、たくさんある……たくさん”とか一人で呟いて目が坐っているし、レオナルドは限界を超えたのか意識を手放していた。 一人立ち上がったクラウスは、周囲の光景を見やる。 ヘルサレムズ・ロットにある広場に着地したらしいが、その場所は見るも無残なことになっていた。まるで爆弾でも落ちたのでは、と思われるほどの衝撃に見舞われ、元の光景とは全く違うものになっている。 少女の背から現れていたらしいものをクッションにして、ライブラのメンバーたちは無事に今生きている。そうして少女もピンピンしていた。 「……一つ、聞いてもいいだろうか」 「んん? いいよ! あ。けが、ない?」 少女の灰色に赤を少し足したような瞳がクラウスを見る。 身長差の激しい二人が並ぶと、幼女はまるでビルを見上げるようにクラウスを見なければならなく、クラウスは地面に咲く花をみるように首を真下に下げなくてはならない。 しかし二人は全く気にした様子を見せずに見つめ合う。 クラウスからの申し出を了承した少女は、次いでクラウスに怪我がないかを聞いた。 「ああ。君のおかげで怪我はない」 怪我はなかった。が、あの光景は――忘れられそうにないともクラウスは思った。 スティーブンがいたので、直接少女の背はクラウスは見ていなかった。だが、あの背から現れていた物体と、自身に絡みついていた事実に、深く考えようとすれば精神を可笑しくすると確認はできた。その証拠に、クラウス以外の者たちは正気を保つことができなかった。 クラウスは、少女が“何か”をなんとなく――理解していた。 その“理解”のために、正気を持っていかれそうになったが、それでもクラウスはそれをすべてのみ込んだ。 なぜならそれは事実なのだ。目の前に在る現実。 クラウスは“彼女”を見たことがあった。それは彼女――つまり女性だったのか、クラウスにはわからなかった。寧ろ性別などあるのかどうかも。 スティーブンが、一か月間行方が分からなくなった。つい数日前のことで、スティーブンを連れて帰ってこれたのも数日前だ。 とある宗教団体の神性存在召喚事件という、ヘルサレムズ・ロットの消滅――ひいては世界の消滅に関わる事件を解決した折に、魔法陣を破壊することに成功したものの、それを行ったスティーブンが半ば発動していた魔法陣の光に巻き込まれてしまったのだ。召喚は失敗となり、宗教団体はそのまま全員が逮捕されるという形で終了した。関わっていたほぼ全員が正気を失っているとのことで、殆どが檻付きの精神病棟兼収容所へ送られることとなったのは衝撃的ではあった。だが、それよりもスティーブンの所在が重要だった。魔法陣に巻き込まれたスティーブンはその場から消え去ってしまった。説明ができる者の証言では生贄として連れ去られたとのことだった。 それから、ライブラメンバーが一丸となってスティーブン救出のために情報を集めた。 神性存在召喚に巻き込まれた人間の救出――それだけでも、匙を投げる情報屋が殆どだった。だが、それでも皆は諦めなかった。 そして、漸く見つけ出す。過去に神性存在と関わったことのある人物から借り受けたローブと異界の手も付けられぬ深層部へと続く魔法陣。 スティーブンは神々の生贄となった。生きているかは不明だ。死んでいると考えたほうがいい。もし行って、神々の怒りに触れたのならば、クラウスの命はない。 だが、それでも、生きているかもしれないのならば、助けないという選択肢はクラウスにはなかった。 そうして見つけた――暗黒の房室にいる存在を。 “なべての無限の中核で冒涜の言辞を吐きちらして沸きかえる、最下の混沌の最後の無定形の暗影にほかならぬ―すなわち時を超越した想像もおよばぬ無明の房室で、下劣な太鼓のくぐもった狂おしき連打と、呪われたフルートのかぼそき単調な音色の只中、餓えて齧りつづけるは、あえてその名を口にした者とておらぬ、果しなき魔王” そう伝えられる、暗愚―― 「君は――アザトホース、なのか」 見ることはかなわなかった。見た瞬間に、理解してはならぬことを理解するのだと聞いた。 世界の実態を、平穏に溺れている人類が知らなかった本当の世界を、異界という場所を受け入れるのとは異なる、受け入れた瞬間に脳内が焼き切れる真実を、人類が理解しきれない本来の姿を。 気が狂う、世界を創造せしめたとされる、存在を。 クラウスの声は震えていた。そうであってはならない。だが、そうでなくてはなんなのか。 スティーブンを知っていた。クラウスを知っていた。クラウスが真っ二つにしたのは、その存在だったはずだ。 少女は、大きな丸い目でクラウスを見つめていた。 その姿は、スティーブンに似ている。そして、その意味も分かった。 人間の姿になる――その上で、意識することは、もっとも身近にいた人間を真似ることだ。 少女は首をころんと傾げた。そして、不思議そうに言った。 「そぅなの?」 それは、それは本当に知らないという顔だった。 初めて言われた。とでも言うような、そんな表情と声。 クラウスは押し黙った。そうであると言えなかった。 “そうでなければいい”とただそう思った。 少女は暫し首を傾げていたが、思い出したようにその場から駆けだした。 そして、意識を彼方へと放り投げていたレオナルドやスティーブン、ザップやチェインを揺り起した。 それぞれ意識は彼方へと逃亡はしていたものの、目の前の少女を認識できるぐらいには回復させられる。 少女は皆の視界のなかに入ると、こほん、と咳を一つしてお辞儀をした。 「なえ、いぃます。さみしい、ぃや。なので、きました。よろしく!」 その顔は、やはり無邪気に笑っていた。 前 次 |