『■■□■■』
- ナノ -



? 意思のない生物が吹く笛を聞きながら


レオナルドが見たのは、ヘルサレムズ・ロットだった。
ただのヘルサレムズ・ロットではない。上空からのパノラマだ。人界と異界が混ざり込んだヘルサレムズ・ロット、色々なものが蔓延り至近距離では危険極まりなく見ていられないものもあるかもしれない。だがこんな風に見れば、なんて綺麗なんだろう――! ここでレオナルドの意識は一瞬途切れそうになる。

「れお」

しかし、そんなレオナルドの意識を繋ぎ止めた声があった。幼く、愛らしい声。それは先ほどまで聞いていた声だ。
一気にライブラをカオスな空間とした子供。名前は確か――まだ聞いてはいない。
レオナルドは強風の中で、その声の方角を見た。それは一番最初に彼女に出会った、そのシチュエーションととても似通っていた。

「――そ、れは」

レオナルドが目を向けた先。そこには、少女がいた。確かにいた。少女もレオを見ていた。ゴスロリ調の服を強風に煽られながら、黒髪をたなびかせながら、灰色に少し赤を足した色合いの瞳をしながら、無垢な顔で――その背中から、大量の“何か”を飛び出させながら。

「う、」
「おちついて、だいじょぅぶ」

思わず叫びそうになった声が、愛らしい声によって遮られる。しかし反射のように飛び出すはずだった悲鳴は、まるで最初からなかったように喉から消え去った。
落ち着いて、大丈夫。大丈夫、そう、大丈夫。レオナルドはあり得ない光景を見ながら、それでも“大丈夫”になった。いや、ならなければいけない。という使命感が背筋を貫いた。

「みんな、わたし、たすける」

だから、大丈夫。
その言葉に周囲を必死で確かめた。強風に晒されながら、見た先にあったのはある意味で地獄絵図だ。
そこにはライブラのメンバーたちがいた。ライブラの事務所は、あの蝶によって爆発させられた。それは確かだ。蝶からの光で視界が不自由になり、ザップに首根っこを掴まれたところまではわかった。しかし、その後に爆発音を聞きながら、レオナルドはおかしな感覚を腰に覚えていた。まるで、何かに絡みつかれるような感覚。いうなれば、巨大な蛇やタコに巻き付かれたような――そんな感覚だった。
そうして、視界に収めた先にあったのは、ある意味で自分と同じ状況となったメンバーたちだった。
クラウスは“何か”に巻き付かれ、身動きが取れずに宙を落下している。“何か”に巻き付かれながら、ザップは泡を吹き白目をむいて、チェインは真っ青になって気を失っていた。己は腰あたりに“何か”を巻き付けられ、その“何か”の主である少女の目の前にいる。
そうして、爆発寸前に少女の一番近くにいた人物は――。

「す、スティーブンさ」
「今話しかけるな、頭が可笑しくなりそうなんだ……!」

真っ青――を通り越し人として危ない顔色になっているスティーブンが、吐き気を止めようとしてか、必死で口元を抑えて、目の焦点はずれている。
そんなスティーブンは、丁度幼女の背が見える位置。幼女の背後で“何か”にぐるぐる巻きにされていた。
その“何か”それは、人間の形をした少女の背から大量に飛び出ている。何十本も、下手をしたら何百本も。少女の“中”に入り切れるはずもない容量が、その背から宙へと漂っているのだ。そしてその先はライブラメンバーに繋がれている。
ヘルサレムズ・ロットはあり得ないなんてことはあり得ない。しかし、これは――“有り得るのだと理解してしまってはならないもの”ではないのか。レオナルドはその“何か”を目に入れるたびに湧き起こる恐怖とも吐き気とも畏怖とも取れぬ感情に慄いていた。
“何か”は、まるでタコのようだった。いや、タコならばどれ程良かっただろう。蠢き、絡めとり、幾多にも分裂していた。肌色というのだろうか、まるで内臓のような色合いをしたそれらが意思を持って動いている。レオナルドが見る、異界生物などとは比べ物にならない気持ちの悪さ――見てはならない、あってはならない、理解してはならない。
あれは、あれは――一体なんだ?
生物兵器か、異界生物か、それとも人類が作り出したものか? 何でもよかった、そこに存在さえしていなければ。
一生、見ることなく過ごせていれば、どれ程に良かっただろうか。
それは、そういう“人類がどれほど無知であり、そしてその無知が幸せであったか”を知らせるに足る、悍ましい“何か”だった。

少女の形をしている。愛らしい形をしている。
――彼女は“何”なんだ?

「れお」
「!」
「ちょうちょ、みつけて」

蝶々。それは、黒い羽根に目玉のような模様をつけた、蝶々のことなのだろうか。
レオナルドは混乱した。すでに少女の姿によって混乱の極地に導かれていたが、それにプラスしてだ。蝶々を、今回の騒動の現況を見つけてどうするというのだろうか。
それよりも、もっとずっと重大なことが目の前にいるというのに。
その“何か”は、しかし花が咲くようにニッコリと微笑む。無垢であるかのように、純粋であるかのように。

「そろそろ、うか、ぜんぶする」
「……」
「みつけるする、わたしみる、だいじょぅぶ」

ごくりと、唾をのみ込む。
少女は言っている。大丈夫だと。私がどうにかする、と。
レオナルドは思った。あの時、初めて出会ったときに、幼女が言った「けが」という言葉は、自分の状態を言っていたのではなくて、レオナルドを気遣ったのではないかと。“幼女が助けたレオナルド”の怪我がないかと聞いたのでは、と。
どうするべきなのだろうか。今回の事件を、この少女の手によって解決するべきなのだろうか。少女はきっと、やってくれる。絶対に、ミスなどなく、完全に今回の事件を終わらせる。
でも、彼女が“何か”わからない。

「レオナルド」
「っはい」
「いい。教えてやれ」

酷い顔色は変わらぬまま、しかしスティーブンがそう告げた。その目は先ほどより正気の色を取り戻している。
スティーブンの声に気づいた少女が、嬉しそうに笑った。

「……わかり、ました」
「あっ!」

ライブラのメンバーはやはり上空から急降下していく。
あと十数秒すれば、地上へぶつかるだろう。しかし、少女はゆっくりとレオナルドへ忠告を送る。

「わたし、みちゃだめ」

無垢な瞳でそう忠告する。その奥に、何があるのか、レオナルドは吐きそうになった。
一つ頷き、レオナルドは爆発の起こるヘルサレムズ・ロットのパノラマをその神々の義眼で目視した。