『■■□■■』
- ナノ -



? つまり誰もこれない闇に覆われたこの空間で


リーダーと副官は言い合いをしているし、やってきたチェインは倒れ伏してぶつぶつとうわ言――スティーブンさんが子持ち、スティーブンさんが子持ち――を言っているし、事態は収束する様子が一向にない。
クラウスとスティーブンに挟まれている子供は、事態の異様さに気づき、二人を見上げながら哀れなほどに不安そうな顔をしている。ともすれば泣いてしまうのではないかと思われるほどの表情に、流石にと巻き込まれていなかった三人が動き出そうとした。しかし、その時、幼女の黒髪がざわりと揺れた。

「けんか、めっ!!」

ザッ、と応接間にいる者たち全員の視線が一か所へと集まる。
舌足らずな声で、僅かに震えながらに発せられたその高い声に、全員――自室茫然だったチェインを含め――が振り向いた。言い合っていた二人も声を潜め、クラウスとスティーブンを必死で睨みつけるようにしている少女を見ている。
そして、僅かに潤んだその瞳を見て、焦ったのはクラウスだった。

「す、すまない。泣かないでくれ……」
「あやまる、わたし、ちがう!」
「そ、そうだな」

自身の身長の半分も無い少女に対し動揺しながら謝罪するのはライブラのリーダーだ。
そんな姿を見て、スティーブンが目を丸くして二人を視界に収めていた。クラウスは少女を見るために俯いていた首を正すと、スティーブンを見た。かち合った二人の瞳には、先ほどまでの剣呑な色はない。

「すまない。君の話をきちんと聞かずに疑ってかかってしまった。許してくれ」
「あ、ああ……いや、僕こそ、動揺しすぎた。ごめん」

互いに謝りあって、僅かな沈黙が下りる。
思わず、と言った風に謝ったスティーブンだったが、とりあえず唐突に始まったリーダーと副官の珍しい言い合いは唐突に終わりを告げた。そうして、二人の視線がその原因を作った元凶へと向く。
そこには謝罪しあい、しかしどこか釈然としない雰囲気を漂わせている二人を見て、無邪気に「よかた」と言って満面の笑みを浮かべる少女がいた。クラウスが頬を緩ませ、スティーブンはどこか納得いかなげに片眉を下げる。

「……それで」
「ぅん」
「……君は一体誰なんだ」

その質問を聞いて、蚊帳の外だったレオはふと思った。
レオやクラウス、ザップは少女にどうして一人で外にいるのかやら、両親はどうしたのやらは聞いてはいたものの、もっと身近な、彼女自身の事は聞いていなかった。例えば年齢とか、名前とか。それどころではなかったという理由や、両親の話題で場の雰囲気が変わってしまったことも理由ではあったが、スティーブンの問いはある意味で最もであった。
そんな当然の問いを受けた少女は、満面の笑みはどこへやら、目を綺麗に丸くした。それから、徐々に徐々に、眉を八の形へと変えていき、口元をきゅっと閉じていく。それはスティーブンが“分からない”ことに対する切なさや苦しみがない交ぜになったものだった。

「おぼぇて、ない」

これまでの少女の態度や言葉から察することが出来た。その表情と呟かれた言葉は、スティーブンが少女を知らないと存外に告げたことにショックを受けてのことなのだろう、と。
スティーブンの言葉一つで、途端に悲しげな顔をした少女にスティーブンはぎょっとして、取り繕う様に笑みを浮かべる。

「い、いや。確認だよ」

先ほどのような態度をされてまた勘違いされては溜まってものではない。という副音声がレオには聞こえた。
しかし、そんな大人の誤魔化しもどうやら少女には通用しないらしい。悲しげな表情のまま少女が尋ねる。

「おぼぇてないの」
「…………そうだね。教えてくれないかい?」

長く思案した後に素直に教えを乞うたスティーブンは、下手に嘘をつくよりもはっきりと言ってしまった方が良いと判断したらしい。尋ねられ、そして覚えていないと断言された少女は、大きな目をショックを受けたように見開いて、それから俯いてしまった。泣きだすのでは、と身構えたレオは咄嗟に一歩足を踏み出してしまう。

「あんなに、いっしょにぃたのに……」

ぽつり、と呟かれた言葉はか細く、しかし誰の耳にも聞こえた。
余りにも寂しげに発せられた言葉は、泣きだすでもなく、しかし文句を言わずにはいられない幼い悲しさが宿っていた。チラリ、と悪気なくレオはスティーブンの方を見てしまう。覚えがないと言っても、自分が関わっている為か、スティーブンはばつの悪そうな顔をしていた。
沈んだ少女は俯いて、ゴスロリの衣服をきゅっと握る。ここにK・Kがいれば放ってはいられない状況だろう。そんなK・Kの次に子供に弱いレオとクラウスが手を差し伸べようとした瞬間、少女が勢いよく顔を上げる。

「じゃぁ、あなたはわたしのこと、おぼぇてる」

舌足らずな声は尋ねる音が分かり辛い。しかし、それはきっと覚えているという方に期待して、敢えて断定の言葉で言ったのだろう。強い少女の瞳が“あなた”を射抜く――クラウスだった。
丁度声をかけようと屈みかけていた所での問いに、クラウスは驚き、次いで盛大に焦り始める。
その反応を見て、ライブラのメンバーの全員が分かった。覚えてないな、これ。
しかし、そもそもクラウスとも知り合いだったのか、とレオは驚いた。スティーブンと知り合いというのは、その髪や目の色から血縁関係を思わせ納得できるものだったが、クラウスととなると出会いが限られる。
それに、レオとクラウス、ザップと居た時に少女はクラウスと元々知り合いであるような様子は見せなかった。今の様子も断定している割には意固地な顔をしていて、もしかしたら覚えていないと分かっていても、縋らずにはいられないだけなのかもとレオは考えてみた。
しかし、それは大きく外れることとなる。

「申し訳ないが、私も君の事は――」
「どして、おなか、ぱーんってやったのに!」
「……ぱーん?」

少女が握り拳を作って、クラウスに向かってぐっと引き絞ってからぴーんと伸ばす。勿論、クラウスには届いていない。
不格好ではあったが、少女が何を表したいのかは分かる。クラウスの攻撃手段、拳の事だろう。
だが、皆分からなかった。ぱーんとはなんだろう。
必死で説明しようとしていて、不謹慎だけど可愛いな。なんてレオが思って眺めていた時だった。

「わたしの、おなか、ぐーでっ、まっぷたつ!」

爆弾発言が投下されたのは。

えっ。
何処からか発せられた短い言葉が応接間へと落ちる。
クラウスに突き刺さるのは嘘だろ? とか、理解不能とか、と、ととと、とりあえず説明をください。というような縋るような、早く弁解をしてくれというような異様な視線だ。皆、誰もクラウスが少女の“言葉通り”等はもちろん信じてはいない。しかし、しかし少女の主張は、全くもって嘘を言っているようではなかった。だからこその、無言の視線。

だが、少女は待っていてはくれない。

「はなし、きかない! こぶし、どーん、まんなか、ぱーん!」
「! !? !!??」

怒りと勢いに任せて、というのがピッタリな少女の追撃にクラウスは目を白黒させて冷や汗を流すばかりである。寧ろ、理解が追いついておらず!と?が散乱している。
そんな様子の二人にますます皆の視線が食い込んでいく。
我がライブラのリーダーがそんなことをするはずがない。何故ならば彼は無類の紳士のはずである。しかし性格として短気である部分があるし、意外と直ぐに手が出る理不尽な所もある。そして少女は嘘偽りない瞳でクラウスに主張する――レオは何が本当なのかが分からくなってきた。
レオが頭を悩ませ、ギルベルトもザップも、そしてチェインも困惑する中、レオは一人だけ神妙な顔をするスティーブンを視界に捉えた。ライブラの中でも頭の回転が速く冷静である彼は、一人考え込むように二人を見て、少しだけ足を動かした。それから口を開く。

「君は――本当に、幼い女の子なのか?」

どういう意味なのか。他の面々が理解せぬ内に、灰色に少し赤を足したような大きな瞳の少女が、謎の問いを発したスティーブンを見つめる。純粋無垢なその瞳は、スティーブンをじっと見つめ――そして、漸く親が自分を見つけてくれたとでも言う様に、笑った。