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004 溺れて意思は消えるか
雨が降っていた。
洪水のような雨だった。
そういえば、死んだあの時もこんな雨模様だった気がする。
「降伏するか、ホウ徳、于禁よ」
目の前にいるのは軍神とさえ呼ばれる関羽。
そう、負けたのだ。我々は蜀軍との戦いに敗れた。この樊城での戦いで、水に飲まれて敗れた。
ホウ徳と共に捕えられた私は、無様に腕を縛られ首を差し出している。
曇天の空模様だった。真っ黒な空に覆われて、光源も少なく地獄の最中にいるようだった。
いつかの、空と似ていた。
事の成り行きは簡単だった。蜀の進軍に合い劣勢に陥っていた曹仁殿とホウ徳率いる魏軍の元へ援軍へ駆けつけたのだ。そうして蜀軍の水計に合い敗れた。
様々なものが雨に打たれ、勢いを殺がれている。傷を負う者は水のせいでいつまでも傷口が閉じずに血液を流れさせている。
水に溺れた兵は何十人だ。水に足を取られ抵抗も出来ぬまま討ち取られた部隊は幾つだ。敗北した将につき、この後の結末を待つ人間は何万人だ。
帝にさえ褒められたことのある髭に雨をしたたらせ、その体躯をして見下げる関羽の顔を三尖刀で潰してやりたい衝動に駆られた。しかし同じように捕えられているホウ徳はそうではないようで、静かに事の成り行きを見守っている。
ただ、成されることは一つだろうが。
「それがしは、曹操殿に忠誠を誓うのみ」
「ホウ徳」
「関羽。それがしは勝利は逃したが、士として本分を全うした。さぁ殺すがよい」
ホウ徳は、通常と変わらなかった。私に曹操殿への忠義を見せると言った時と何も変わりはしなかった。
関羽はホウ徳のその言葉を聞くと、鎮痛そうに頷いた。関羽が青龍偃月刀をゆっくりと掲げる。
雫が滴る刃に、そいつは怯えることさえしなかった。耳にその声が入ってきた。
「于禁殿。先に」
「ああ、逝け」
数瞬後に、降り注ぐ幾多の雫が断ち斬られる。
刃が振り下ろされ、肉を断つ鈍い音がした。
赤が舞う。赤が、鮮血が飛び散る。ごろりとぬかるんだ地面に落ちる何か。
死んだのだ。数瞬前まではそこで私に声をかけてきたあの巨体が死んだのだ。
頭が、面白いように目の前にあった。その顔は、何も言わない。ただ悔いもなさそうに目を瞑り、どこも見ていなかった。ああ、悔いはないのか。そのように死んで、本当に曹操殿の、魏の為に命尽きて悔いはないのか。
ああ。死んだ。
私は、人が死ぬのが嫌いだ。まだ過去の想いが抜けきらないのか、人の死を忌諱するところがある。そんな甘い考えがこの時代に通用するわけがないのに、その思考がいつまで経っても嫌になる。
「于禁。お主はどうする」
未だ答えを述べない私に、関羽が問うてきた。
ホウ徳は死んだ。この私さえも心から称賛するほどに、曹操殿に忠義を示し死んでいった。これぞ武士の鏡。忠臣であろう。ホウ徳が選ぶ最良の結果。当然の結末。
なら、私の最良の結果、結末は、なんだ。
死ぬことを望んできた人生だったかもしれない。
死ぬために、曹操殿の覇道を切り開いてきた。その捨て駒となるべく精進してきた。
その人生は、ここで終わりなのか? 私はもう、何もできずに関羽に首を取られ、死ぬしか道はないのか?
ここまで来たのに? 将軍という立場を任され、何万という部下を連れてまでいるのに?
一度の失敗で、曹操殿へ貢献できる道は既に尽きたのか。既に死ぬしか道は残されていないのか。
どこまでも節義を守ってきた人生だった。ただ曹操殿の為にと慣れない険しい道を必死で歯を食いしばってへばり付いてきた年月だった。幾多の人々を斬って、幾多の部下を死地へ放り込んできた。何人も殺したし、何十人も一生に残る怪我をさせてきたし、何百人、何千人、指揮によって何万人もの人を死なせてきた。
その結果がこれか。
その結末がこれか。
いいのか、これで。これが私のできる精一杯の成果だったのか。最後の最後にこの軍神に敗れ、過去の勝利を胸に抱きながら曹操殿の覇道を彼方で指を加えて見ているというのか。曹操殿の覇道の為ならば私は喜んで捨て駒となれる。だが誤算だったのはその考えに他の部下たちを知らずのうちに巻き込んでいた事だった。私が一人で前線へ往くのはいい。しかしそれに部下たちが付いてくる。私の特攻は部下たちを突撃させることであり、私の無謀は部下たちを槍の中に飛び込ませることだった。
此度の戦も、曹仁殿は未だ樊城を守っているだろうがホウ徳と私は捕まった。ホウ徳は一介の士として死んだ。だが、私には部下がいる。何万にも及ぶ部下が、死ぬ恐怖に怯え、身体を冷やし死を待っている。
ホウ徳は私さえも認める曹操殿への忠義を見せ付けた。そうして私が直ぐに同じ場所へ往くことを信じて疑わなかったろう。ああ、そうだろう。そうだろうとも。ああ、そうだ。そうだとも。
そうすることが、最良ならば直ぐにでも。
「私は」
ホウ徳、お前は自ら死を選んだ。それが忠義の士として最もな道だったからだ。
そうして私はそれを肯定した。死ねと頷いた。
なら、ならこの答えをお前は肯定するだろうか。
「降伏する」
関羽が驚きに目を見開くのが見える。
雨が更に強くなる。身体を打つ雫は強さを増す。
あの時は、こんな天気の中で私は死んだ。
この時は、部下の首を眺めつつ、私は首を垂れる。
――今より我が隊はそちらへつく。代償は我が首とする。将兵の無事を保障せよ。
思ったよりも滑らかに声が出た。地面を打ち様々な音を掻き消すが、私の声は周囲に響き渡った。目の前の物言わぬ頭は何も反応を示さぬが、辺りは分かりやすいほどにざわついた。泣き出す者、膝を折る者、怒声を上げる者、誰かの名前を呼ぶ者。生きる喜びを甘受する者、悔いる者。一瞬にして兵がただの人に戻る。
兵は斬れても、ただの人は斬れまい。義というものを振り翳すのだから、その刃はただの感情を露わにする者どもを斬ることはないだろう。
関羽は短い沈黙の後、降伏を承諾した。もちろん、将兵たちの無事もだ。
――将兵たちの為とはいえ、不義だとは思わぬのか。
捕縛され、連行される際の関羽の言葉は恐らくホウ徳や曹操殿、この戦で既に死んだ者たちへの不義だろう。
ああ。なんと情や義と煩い輩だろうか。
何が不義だ。何が将兵たちの為だ。
私は、ただ曹操殿の為にこの選択を選んだのだ。
将兵たちの生死などは関係がなかった。曹操殿の捨て石に成る為の犠牲ならば、既にそれは仕方がないと諦めていた。だから此度の選択とて同様だ。私は兵士たちの命の為に降ったのではない。ましてや自らの命の為に降ったのではない。
兵士たちとて人間だ。人が飢えずに生きるには、食料がいる。この世は一日の食糧よりも命が軽いが、義を抱く関羽にとってはそうではないだろう。既に樊城への突入の中で蜀軍の糧は尽きているように見える。さて、それからこの量の人間を抱えて、関羽はどう進攻するのだろうか。
――誰も、肯定などしてくれずともいい。
私は、あの方の捨て駒となれればそれでいい。皆に裏切り者と指を指されても、もし、あの方にさえ理解されなくとも。
さぁ、何万もの降兵を持ち、苦しむがいい蜀軍よ。卑屈に生き残る者どものを、見捨てられる国ではあるまい。敵よ私を貶めるがいい。仲間よ私の国さえも貶める汚点を嘆くがいい。
私は、生きながらに死のう。死に為に生きるのではなく。生きるために死ぬのだ。
敵に降り、惨めに、不義に生きるために、今この時、私は死ぬ。心だけは、そちらへ往こう、ホウ徳。