003 互いの異質さは互いに伝達するか
「お前がホウ徳か」
「その通り。申し訳ないが貴公の名をお聞かせ願えるか」
「我が名は于禁。この戦の指揮をする。覚えておけ」
対面したその男は二メートルを超えんばかりの身長に、クマのような図体をした大男だった。
西涼から降ってきたその男――ホウ徳という名の男とあいまみえるのは此度の戦場が初だった。実力は十分らしいが、反曹操の色が強い西涼出身の者だという点から信頼できぬ部分もある。
だがこうしてみてみれば、武士というものを絵にかいたような男だった。
「降ってきたらしいが、お前の曹操殿への忠義は絶対か」
「それがしは曹操殿に命を救われた身。ならばその命は曹操殿に捧げたも同じ」
「ふん。口だけならなんとでも言える」
尤もらしい台詞に冷淡な言葉で返す。
確かに忠義と気迫は十分のようだが、それが実際の戦で発揮されるかどうか。本当に命の危機に瀕した場合でもその勢いをそのまま保てる者は少ないし、ほぼいないと言っていい。
「いつ何時も、証明いたしましょう」
正面を切って私を見据えるホウ徳に、そんなものは久しく見ていないことを思い出した。
軍規を厳しく守り、敵にも味方にも同じ判断を下す私を恐れない者は既にいなくなっていた。同じ将という立場の者でさえも私を恐れ、正面に立ち物を言う者が少なくなっていた。
それを、この新参者は何も恐れず物を申す。
「その志が、最後まで続くことを願おう」
曹操殿もこの男の持つ才を欲したと言う。
ならば、この男も使えるのだろう。あの方は間違いを犯さない。
「御意に」
融通が利かなそうなところが、なんとなく自分と似ている気がした。
「于禁殿」
この戦は魏軍の勝利に終わった。つまり、我らの勝利だ。
降ったばかりのそれがしに、周囲の風当たりは強い。信用はなかなか勝ち取れそうになかった。血塗れになった自分の身体を見て、気にすることもなしと陣営に戻る。
その途中に于禁殿を見た。彼は戦が終わったばかりだというのに兵士たち相手に声を上げ、迅速に移動をただしていた。彼の武器は血に塗れ、鎧にも所々に血が付着していた。そこに于禁殿の厳格な顔が重なり、兵たちは見るからに怯えている。
話は噂として聞いていた。厳格なる将軍であり、幾多の戦を勝利に導く峻厳なる将。その厳正なる性格から同じ将にさえ恐れられている。そこまで厳しいものかと思っていたが、この戦に加わりその噂が真実だったのだと分かった。
名乗りを兼ねた会話で、曹操殿への忠義が本物かと問われた。それは今まで何度も問われたことであり、慣れたものでさえあった。しかし于禁殿が口にした忠義は、重みが違った。真実、戦場での忠義であった。
曹操殿の為に、死ねるか。ただそれだけを試していた。
「ホウ徳か。どうした。早く帰還しろ」
「了解した。同行してもよろしいか」
「行き先は同じだ。問うまでもあるまい」
そう言い、歩き出した于禁殿の後ろについてゆく。
「戦でのお前の活躍、見事だったぞ」
「……はっ」
不意打ちのような于禁殿の称賛に、言葉が詰まった。
働きについて不満を言われることはあれど、褒められることはないと思っていた。于禁殿の口から人を褒める言葉さえ出ないと思っていた身としては、ただ驚くばかりだった。
「しかし、調子に乗るな。お前は降将として当然の任を果たしたまでだ。忠臣としての任を果たすためには遠く足りぬ」
「は、しかと」
称賛の後に出た忠告に、なぜか安堵する。この方はこうでなければならないという可笑しな使命感めいたものがあった。
血に濡れる背を見る。その背に、于禁殿の噂が蘇った。冀州で于禁殿の旧知である者が叛乱を起こした。その旧知が于禁殿を頼り降伏した際に、節義を守るためと泣きながら斬ったという噂だ。それは于禁殿の節義を守る姿勢が強調されるとともにその慈悲の無さが広まる一端だった。
「于禁殿。貴殿は旧知を斬ったことがおありだとか」
「昌キのことか。それがどうした」
話を振ればすぐに返答が返ってきた。噂としてささやかれるほどだから、何度もこの手の話を聞かれたのかもしれない。気を悪くさせてしまったかと思いながらも、言葉をつづける。
「于禁殿は、泣きながらにその者を斬ったと聞きお呼びもうした。なぜ、そこまでして斬ったのか」
于禁殿は数歩、歩みを遅くし、そうしてその場に立ち止った。
こちらには振り返らなかった。ただ前の進む兵士たちの軍団を眺めていた。
「涙を流したのは、旧知を殺さなければならなかったからではない」
「では、なぜ」
追及する言葉に、于禁殿は少し間を置いたが直ぐに答えた。
「己が、そこまでできることを恐れたからだ」
「……于禁殿、それは」
あまりにも言葉が少なかった。だが、そこには旧知への友愛は含まれていないようには見えなかった。確かに、口調からは惜しんでいる音がした。
しかしそれがしの言葉に、此度は返さなかった。そのまま歩みを再開させ、その後はいっさい口を利かなかった。
いつまでたっても、于禁殿の言葉の真意が読み取れることはない。
彼は、確かに謹厳実直な武士ではある。だが、それだけではないような気がしてならない。
言葉少なく、真意を読み取らせない。それは、見取られれば何か不愉快なことがあるからではないか。
なぜか、その真意が気になって仕方がなかった。旧知を泣きながら斬る理由とは、恐れるとは何を恐れるのか。
それがしとは、あまりにも違う武人であると思った。