- ナノ -
黒色の洪水で溺死する藁
002-2 思い出せぬ記憶を石で埋めるか

「くそ、負けた!」
「手を抜くなど、それこそ無礼かと……」

 碁の台を挟み、夏侯惇殿と二人で相対していた。
 夏侯惇殿の部屋へ案内され、角に鎮座していた台を引っ張り出し、石を探し出し打ち始めた。
 結果は見ての通りだった。碁のルールは簡単で、盤上により多くの石が残っていたほうの勝ちだ。しかしこれが日本と少し違っていて、日本の囲碁は確か盤上により多くの地があった方の勝利だったはずだ。夏侯惇殿との会話の中で気づくことが出来たが、やはり過去の知識を頼るのは良くない。活用も出来ていない知識を使用するのは墓穴を掘ることになる。

 盤上には黒が少しに白が多い。夏侯惇殿が黒石で、私が白石だった。

「やはり強いな。こういうのが得意そうだと前から思っていたんだ」
「そうなのですか」

 初耳だった。そもそも夏侯惇殿とはあまり話したことがなかったから当然かもしれない。といっても、他に誰と話すのかと問われれば、特に誰とも話はしないが。
 台に置かれた石を眺め、その加工技術が発達していないあまり丸みを持たない石に、過去の記憶を辿る。過去だと言うのにその技術は凄まじく、盤上の石は光りを照り返すほどに磨きこまれており、美しかった。

「お前にやろう」
「何をですか?」

 意味を理解できずに問い返すと、夏侯惇殿は目の前の囲碁を指さした。
 それに、理解が及んで口を開く。

「恐縮でありますが、いただけませぬ。成果も何もあらず褒美を取るなど」
「褒美など固いことを言うな。ただ俺からのお前へのちょっとした贈り物だ」

 それが褒美とどう違うのか。そもそも夏侯惇殿の意図が読めずに顔が渋くなる。
 私の表情を見た夏侯惇殿が、一つ嘆息した。

「深く考えるなよ。何も言わずに受け取れ」
「しかし」
「于禁、お前が孟徳の為に日々精進しているのは知っている。お前の部隊は優秀でこちらとしても助かっているし、お前が日々鍛錬を欠かさないことも知っている。お前、趣味はあるか?」
「いえ、そのようなものは」

 突然逸れた話に、更に夏侯惇殿の真意が分からなくなる。いったい、何のことが話したいのか。今は褒美を取らせる取らせないの議論ではなかったか。

「なんでもいい。趣味を作れ。お前も息を抜ける時間があったほうがいいだろう。お前がいつまでも気を張っていれば、他の者が休めん」
「……周囲に注意を置いていないことを見せ、周りの者にも息抜きをさせろということでしょうか」
「まぁ、そういうことだ」

 頭を掻きながら何処か視線を泳がせいう夏侯惇殿に最初からそう言えばいいと一人で思う。
 要件とその理由を述べてもらえれば、自分は直ぐにでも頷く。しかし、今回は随分と回りくどい手を打ったものだ。この私と対局など、面白くもないだろうに。それに、打ってみて分かったが、夏侯惇殿は囲碁が苦手のようだ。初めはあちらが優勢だったが、どんどんと追い返されていくうちに余裕がなくなっていったのが手を見る前に表情で分かった。きっとこのような卓上での勝負は性に合わないのだろう。

「なれば、有難く」
「ああ。そうしてくれ」

 一息ついたような夏侯惇殿だが、最後に一つ釘をさしておく。

「しかし、此度のような曖昧な贈与は今後お控えいただきたい。周囲の為とはいえ夏侯惇殿のような方が行われる行為にはそれ相応の理由というものが付きまといます」
「……す、すまん」

 謝罪を欲しているわけではないのです。ただお気をつけいただきたく。
 そう付け加えると、コクコクと首を上下に揺らしていた。恐らくお分かりいただけたのだろう。
 その後は囲碁の台と石をもらい、自らの屋敷へ帰った。それから、私の唯一の趣味が出来た。その時もらった囲碁だった。それを後に話かけてきた夏侯惇殿に報告すれば、少し呆れたような声でそうか。とだけ返ってきた。
 恐らく、他の趣味などを見つけることを望まれたのだろうが、私には無理というものだった。
 ただ、曹操殿の覇道の為だけに。
 それが生きる意味である私に、趣味など端から要らぬもの。それを周囲を気遣う意味で作ると言うならば、提示されたもの以外を選ぶことも出来まい。
 しかし、夏侯惇殿が直々に注意をくださったことでもある。気を抜かず、精進しなくてはなるまい。

 ただ、良かったと思えることは、鍛錬に逃げずとも囲碁をする時だけは過去の記憶の悪夢から遠ざかることが出来ることだろうか。