- ナノ -
黒色の洪水で溺死する藁
002 生き死にに揺れる感情は石を打つか



 
 私の知識、現代の日本の知識が活用されることは滅多になかった。何しろ私にその知識を活用できる頭がなかったことがあげられる。ただ、怪我をした兵がいれば出血時などは緊急手当の方法が役に立ったし、人が嘘をついている時にとる行動などは軍の規律を整えるのに時折だが役にたった。
 だが、言ってしまえばそれだけだ。特筆するほどにあってよかったと安堵した覚えはないし、寧ろその記憶の為に魘される日さえある。昔の大切な者の顔など、思い出したくもない。ただ、その思い出すほどの顔も、声も、覚えていないのが現状なのだが。そう、その事実が更に私を苦しめる。思い出したくないと言う想いと裏腹に、薄れる記憶を恐れ悲しんでいる。その事実が許せない。

「于禁か。もう兵たちの訓練は終わったのか?」
「夏侯惇殿。はい。既に兵隊たちへの鍛錬は終了しております」
「そうか」

 気を紛らわせようと訓練場で一人武器を振っているところに見知った顔が訪れた。
 といっても私ごときが気安く声をかけていいような方ではない。曹操殿の親族に当たられる夏侯惇殿であった。左目は呂布との戦いにおいて射られ、今は眼帯をしておられる。しかし、その左目のない姿も武将たる堂々としたお姿であり、私は好きだ。当人がどう思っているかはともかく。

 夏侯惇殿に述べたように、既に自分の隊員たちへの指導は終わっていた。自分でも自覚しているほどに苛烈な鍛錬をしている。それに根を上げて逃げた者もいるが、そういう者たちは捕まえて見せしめに処罰した。と言っても自らの隊員に命に関わるような処罰はできない。地獄のような訓練を更に苛烈にしてやっただけだ。それからは逃げ出す者も出なくなり、諦めを持って鍛錬に挑む者たちが増えた。ただ、そうすると指揮に影響が出るのできっちりと成果を出したものには法通りに褒美を与え、やる気を出させなければならない。本来、自分は人の上に立つ人間ではないためにこのような飴と鞭は苦手だ。
 
 時折、なぜそのようなやり方しかできないのかと問われる。そんなのは決まっている。そういうやり方しか知らないからだ。何をすれば正解なのか分からないのだから、規律どおりにやるしかないだろう。他の人間がそうでないのなら、規律を守る意味でも私のような人間がいてもいいはずだ。
 
 今回もそのような要件だろうか、と礼をもって夏侯惇殿に対面する。私よりも少し背の低い夏侯惇殿は私を見上げ、口を開いた。

「お前、碁はやるか」
「は……碁、ですか」

 碁とは、囲碁のことだろうか。
 初め、碁の意味が分からず対峙している呉のことかと至りかけたが、言葉の使いからして可笑しい。きっと遊戯である碁の方であっているのだろう。
 しかし、碁とは。やるか、と言われると。正直やらない。そんな遊戯がこの時代にあったことさえ初耳ぐらいの勢いだ。実際に遊ぶかといわれると一度も触ったことはない。
 だが、確か、遠い昔、于禁ではなかった頃に、何度か冗談半分で打ってみたことはあった。

 私が思考を巡らせていると、ことを察したのか、なら。と言葉を畳みかける。

「やり方はしっているか?」
「それぐらいならば……」

 答えると、夏侯惇殿は、そうか。と相槌を打ち。そのまま歩き出してしまった。
 それに、何がしたかったのかと眉間にしわを寄せていると、夏侯惇殿が振り返り、その視線と交わった。

「何をしている。いくぞ」
「……申し訳ありません。どこへでしょうか」
「碁を打ちに、だ」