- ナノ -
黒色の洪水で溺死する藁
001 死した人間は生を選ぶか

 普通の日本に住む一般の女子生徒として死んだ。
 幸か不幸か、二度目の人生を授かった。
 しかし、厄難だったのは、私がそれを望まなかった点だろう。

 私はただの平凡な人間だった。学生という立場だった私は、きっとそれから色々と選択肢もあったろう。しかしまだ大人となり切れていなかった私は色んな覚悟が足りなかったのだろう。

 だから、生まれ変わって、自分の居場所に思い悩んだ。家族も失って、自分という確かな生きた証も失った。ただ記憶だけで受け継がれる「私」という存在を信じることが出来なかった。
 しかも、私が生まれ落ちた場所は知識であるうちの中国という場所で、しかも時代は車もなく銃もない、槍と剣で争いあっているような大昔。自分の知識とはおおよそ合致せず、人の命はその日の食料よりも軽い。
 争いもなく、身近に死というものを感じたことがなかった私にとっては、悪夢のような世界だった。

 それに、私は男として生まれた。性別の違いが私を更に窮地に押しやった。
 女と男の違いは単純なものでありながら、決定的だ。そしてその時代として男が優遇される時代だったから、女性が貶められるさまを何度も見た。それが自分が受け入れるべき境遇であり、しかし男として当然として受け入れる状況である。その意識の隔絶が幾度となく私を板挟みにした。

 何を持って、己を己と肯定していいのかが分からなかった。
 戦の絶えない時代に生まれた自分から、男として生きる自分からずっと逃げ出したかった。

 ずっとずっと、そう思っていた。
 いつの間にか私は周囲に何も口にしなくなり、ただ憎々しげに視界に収まる景色を見つめていた。


 それが変わったのは、あのお方と出会った時からだった。
 黄巾の乱という内乱が起こった。
 漢が治めていた現状に異を唱えた者たちの必死の戦いだった。
 それを、私はいつの世も戦というものは絶え間ないものなのだな。と思っていた気がする。
 そして、漢の国の終焉も感じ取っていた。それは私が世間の流れを読む力があるからではなく、日本で学んだ知識としてなんとなく中国の歴史として覚えていただけだった。

 そんなときだった。鮑信という人物が黄巾の乱を鎮圧するために兵を集めているとのことだった。
 私はこれに参加した。私の家は家族が食べていくのが精一杯であったし、私以外にも男手がいたので一人ぐらい出て行ってもなにも困りはしないからだ。寧ろ食料を消費する人間が一人減って有難いぐらいだったろう。
 それに私は家族にも気を許さずにいたから、そういう意味でも厄介ばらいを出来たと思っていたはずだろう。家を出ていくときの、家族の笑顔がいつになっても脳裏にこびり付いている。

 鮑信殿に付いてから、黄巾の乱も静まり、遂に漢は崩壊した。
 そうして、私はあのお方に出会った。

「お主が王朗が大将軍の器だと称した于禁か」
「……過ぎたお言葉なれば。私は、己の任務を全うしたまで」

 他の人物と比べると小柄ながら、堂々とした佇まいに確かな威厳を持った人物だった。
 立派な髭を蓄え、自分よりも歳を重ねているその人物は曹操と言った。

 それは、私が歴史上耳に掠めたことがあるぐらいの人物だった。
 知識の中では埋もれていて、思い出すことないと思った人物。
 だが、ああ。確かに、思い出した言葉にしっくりといった。

 『乱世の奸雄』
 そう、後の歴史でもあだ名されていた。
 ああ。その通り。
 奸雄とは悪知恵を働かせて英雄になる人物のことだが、誠にその通りだった。
 鋭い瞳に己を信じさせる力強さ、頭の良さそうな顔つきにしかし決してめげぬ根付く野心。
 ここまであっけらかんとした人物を見たことがあるだろうか。今まで、生きているように死んでいた私の胸に、訴えかけてきた人がいるだろうか。

「曹操殿。一つ宜しいでしょうか」
「なんだ。申してみよ」

 言葉を発する許しをもらい、私はその人を仰ぎみる。
 臣下の例をとり、膝を屈している私は、彼が、生きている神にさえ見えた。

「私を、貴方様の覇道の捨て駒としてお使いください」

 貴方様と共になどとは言わない。貴方様を支えられるほど豪胆でもない。だから、好きなように扱ってもらって構わない。ただ貴方の為になりたい。生きている中で、ようやくそう思えるほどの人物に出会えた。己が自ら意欲をもった、そのことを貫きたいと思った。

「……面白い」

 そう言って、笑う曹操殿に私の口角も僅かながらに上がった。この人生で、初めて口元が笑みを形作った瞬間だった。