- ナノ -
黒色の洪水で溺死する藁
02 過去とは何か?

 私には一人の弟がいる。弟と言っても歳が離れているわけではなく双子の弟だ。
 子供はもとより大の大人にさえ怖がられそうな風貌で、常に厳しい口調と規律に忠実な性格で周囲を恐れさせていることだろう。そんな彼の名前は于禁という。片親が中国人の為に名前も中国名だ。私は于生江と微妙な日本名で、苗字とは合っていないが名前は気に入っている。

 カランカランと低いながらも軽い鐘の音が店内に響き、扉からお客様が現れる。磨いていたカップを机に置いて、笑顔を向ける。

「いらっしゃいませ。ようこそ『フラーテル』へ」

 入店したお客様は若い女性だった。テーブルかカウンターかどちらがいいか聞いて、カウンターとの答えを聞いてそちらへ誘導する。初めてのお客様で、話を聞いてみると仕事のお昼休みに時間が空いたから折角なのでと前から気になっていたから入ってみたのだそうだ。

「あ。美味しい……」
「本当ですか。良かった」

 私が営業している店はこじんまりとしていて、面積的にはコンビニとそう変わらない。それゆえにカウンター席が全席の半分を占めており、机二つがガラスの向こうの景色を楽しめるように置いてあるだけだ。
 店内は仄かに明るく、クラシックなイメージだ。
 実はこの店を開業する為に弟から出資してもらったのは懐かしい思い出だ。私が運搬会社の社員をしていた時にふとカフェをやりたいと口に出した時に応援してくれたのは弟だった。ちょっとした思い付きでポツリとつぶやいただけだった当初は、後ろ盾を買ってでる于禁に苦笑いを返していた。だが熱烈な応援と運搬会社という体力のなくなった時に仕事がなくなりそうな肉体労働に将来を心配し始め、私もいい歳だしとカフェの営業に向けて本腰を入れ始めたのだ。

 にしても最初は紆余曲折で苦労の連続だった。高卒で就職した身としては何をどうすれば経営などできるのかさっぱりだったからだ。最終的には経営系の大学を卒業した友人や事務作業が得意だった弟に指導願う形になった。
 私が思っていたよりも大変な道のりにめげそうになるのを励ましたのもまた弟だった。どうやら私がやりたいことを最後まで遂行させたかったらしく、時には慰め時には説教を交えさせながら私を尻を叩いてくれた。
 どうしてそこまでしてくれるのかと聞いたら、これまでの借りを返す為だと言っていたが、どこまで返す気なのか。

 出店する場所の土地代や建設代も半分以上出してくれ、こちらとしては頭が下がるばかりだ。

「まぁ、そんなことがあって、こうしてここに店を構えられてるんです」
「なんというか……弟さんと仲がいいんですね」
「ふふ。そういう風にも取れますね」

 お客様である彼女が注文したケーキセットの紅茶も半刻経過し全てなくなった。
 それにサービスで新しく紅茶を注ぐと驚いた後に恐縮そうに身を縮めた。礼儀正しい子だ。
 
「でも、意外な感じです」
「何がですか?」
「なんか、えっとオーナーさんってなんでも出来ちゃうような雰囲気っていうか」
「それは、ずいぶんと過大評価ですね」

 その評価は私というよりは弟にピッタリと当てはまる気がする。于禁は基本的になんでもできる。そういう風に指導したからだが、苦手なものを作らないようにさせていた。その私が苦手なもの三昧というのも指導側として頭が痛いことだが、人には向き不向きがある。弟が大人数で騒ぐような行事が苦手なように。
 于禁は特に大変な事務仕事や部下に指導するような憎まれ仕事が得意なように思える。それを以前口に出してみたら自分の指導者の影響だとか何とか言っていたが恐らく気のせいだろう。

「ケーキとか紅茶とか、全部オーナーさんが作ってるんですよね?」
「はい。夜の内に用意して朝に焼いて、それでお客様に提供しています」
「そういうのもカフェを始めるときに勉強したんですか?」
「お恥ずかしながら……そういうものは趣味でしたから。少しはできました。コーヒーなどは素人だというのに拘ってましたね」
「へぇ! やっぱり得意だったんですね」
「得意というほどでは」

 感心したように頷くお客様に苦笑いする。
 本当に趣味が高じて周囲の助力のお蔭で開店できた様な店だ。高校の時から両親のいない暮らしだったから、そこからずっと料理は毎日続けていた。時折暇を見つけては菓子などを作って甘いものが苦手な弟を苦しめていた。そういえば、甘いものを試食してほしいからという理由でコーヒーを工夫し始めた気がする。苦いものと一緒なら弟も食べてくれるだろうと。どうしたことかそのコーヒー自体が弟の好物になってしまったが。

 お客様がチラチラとこちらの手を気にしていた。そのどうやら左手に視線がいくようで。

「あの、オーナーさんには良い人、いないんですか」
「ああ、この歳だと結婚していてもおかしくないですしね。縁がなかったといいましょうか」
「そ、そうなんですか」
「お客様は、彼氏さんはいらっしゃらないんですか?」
「わっ私ですか!?」

 慌てだす女性に、浮かべていた笑みが深くなった。視線の先の意味が分かった。どうやら結婚指輪がないことがおかしいと思っていたらしい。確かにこの年齢だと妻がいてもいい歳だ。双子の弟にも言えることだが、早く相手を見つけろとはなかなか言えない。もちろん私が人のことを言えないからだ。
 これまで付き合ってきた女性がいないわけではない。だが、いざ結婚となると身が引ける。幸せに出来る自信がないのだ。どうしても過去のことが頭に浮かぶ。

「私はその、これからというか……それより!」
「はい」
「なんで『フラーテル』って名前なんですか? 英語じゃないし……イタリア語?」
「『frater』。ラテン語ですね」
「ラテン語なんですか! それで意味は」

 誤魔化すためにか急に話題を変えた彼女に、今度はこちらが慌てる番だった。ラテン語ということを説明するのはいいが、意味まで説明してしまうと少々恥ずかしい。
 しかし、戸惑っていても目の前の好奇心あふれる瞳を逸らしてはくれないので、笑みを繕って答えた。

「『兄弟』という意味ですよ」

 繕っても恥ずかしさはぬぐえずに、眼鏡を掛けなおすふりをして目線を逸らした。女性は合点がいったように目を見開く。

「あっ、それってやっぱり弟さんのことですよね」
「ええ。彼の協力があってこその今ですから。お礼の意味も込めて」
「やっぱり、仲いいんですね」
「私は、とても大切に思っていますよ。弟のこと」

 何よりも、誰よりも大切なのだ。自分の命に代えたって構わない。それぐらいには大切に思っている。寧ろそんな重い気持ちを悟られないようにするのも一苦労なぐらいだ。
 弟には長生きしてほしい。幸せになって、妻をもらって、子供を授かって、孫の顔も見る。そんな普通の幸せを噛みしめてほしい。本人が望まないならそれは幸福とは程遠いからとやかくは言えないが、それでも愛する人と一緒になるのは嬉しいし、自分の子供は可愛いはずだ。
 今まで必死に、弟が幸せになるにはどうすればいいのかと考えてきた。
 幼い頃から仕事に忙しい親の代わりに、私が弟を世話してきた。日常的なことだったり、時には厳しく叱りつけた。いいや、叱咤している記憶の方がはっきりしている。私は常に焦っていて、弟が間違った思考を持たないようにとあれこれと怒鳴ってきた。よくもまぁ嫌われなかったものだ。
 まるで、部下たち将兵を罰するように躾けてきた。

 彼女が紅茶の最後の一口を呑み込む。花が咲くように笑った。

「きっと、弟さんもそう思ってますよ」

 
 会計を済ませて店から出ようとする彼女を呼び止めて、ケーキを一つ箱に入れてサービスした。
 遠慮していた彼女に、常連さんを作る為ですよ。というと顔を赤くしながらもらってくれた。その場で少し話をしてみれば、どうやら昼休みは既に終わっていてこの店でさぼっていたようだった。
 その行動力に驚きつつ、注意を促し、彼女は仕事に戻っていった。また来てくれるそうだった。


「于禁」

 その名前は、私の弟の名前でもあって、中国の三国時代を記述した三国志や三国志演義にも出てくる名だ。三国時代の方は魏の将軍として名を馳せ、しかし敵に降伏した男として。
 昔を思い出すと、今でも複雑な気持ちになる。充実していたかと言われればしていたし、苦痛だったかと聞かれればそうであったし、幸福であったかと思い出すと――あの方へ執心していた頃はそうだったかもしれない。
 あの方の為に生きて、あの方の為に死ねる。それは幸福なことだったはずだ。過去の私にとっては。

 生まれる前の記憶というのを持ち越す人間がいるらしい。前世というものだろう。それがあるのが私だった。しかも、ただ記憶としてあるのではなく、生々しく自分が経験した記録として残っている。感情も伴い、瞼を閉じればまざまざとその頃の光景が思い出される。その前世の前の人生も、僅かながらに覚えている。もしかしたらそういう魂の構造でもしているのかもしれない。

 前世での私の人生は、恐らく散々たるものという印象なのだろう。晩節を汚し、以前の功績が全て無に帰し汚名が現在まで残されている。
 現在の人生は、前世の延長線上なのではないかと思われた。今の己の姿は前世の『于禁』であった姿のそのままであるからだ。体格も顔も全て一緒だ。歳をとるほどにあの方の下で武器を振るっていた頃を思い出す。
 
 そして、一番の問題はもう一人の『于禁』だった。
 于禁は一人だけではなかった。私だけではなかったのだ。私たちは双子として生まれた。私は生江として、そして弟は『于禁』として。その姿は確かに于禁そのものであったし、紛い物でもなんでもなかった。
 そこで、思い至ってしまったことがある。
 
 私の前世の人生は、本来の『于禁』を殺して手に入れたものではないかと。
 一つの器に二つは入らない。その『于禁』という器に私が入ってしまったために本来入るべき者が入れなかったのではないか。私は常々自分がどうしてあの時代、あの国で生きているのか疑問だった。その疑問に生じる不安や絶望をある一つの者へ尽くすということで平常を保っていた。だが、やはり私はあそこでむざむざと息をしていることは可笑しかったのではないか。

 本当は『于禁』として生を全うする者が私以外に居たのではないか。
 そうして、それが私の弟だったのではないか。

 夢物語だと決めつければそれでお終いだ。それぐらい根拠に乏しい憶測である。
 それでも、私のような前世が存在することを考えると、様々な人物が所謂転生というものをしていることになる。魂は巡るというものだ。
 転生論を採用して考えるならば、私と弟は、三国時代で一つの身体に対する競争で私が勝ち、弟が負け、そうして現代で一つの身体ではなく双子として生まれた。
 そう考えるならば。

 私は、前世において一度弟を殺しているのではないか?
 突拍子もないことだとは分かり切っている。理解している。それでも、確かに前世では弟の存在はなかった。あのように瓜二つの存在はいなかったはずだ。そして私は前世を持つ異端の存在として生まれ、自分の存在に苦悩しながら人生を歩んでいた。
 ならば弟を、于禁を殺していないと、彼の存在を消さなかったと誰が断言できようか!

 だから、弟が私に対して恩と感じていることは私の罪悪感から発せられたものだ。自分が一度殺した存在かもしれないから、大事に育て、危うく思い、大切にする。これが親愛かと聞かれると、答えられない。

「(きっと、違うのだろうな)」

 于禁という存在から離れる為に性格を変えた。謹厳実直だった姿は隠し、常に機嫌がいいような雰囲気を作った。人を叱ることもなくなった。ルールを守らない者にも甘くなった。融通も、少しは効くようになった。
 しかし、弟にはそれが出来なかった。弟には色んな意味で熱くなってしまって、仮面を被ることができなかったからだ。
 今となってはその仮面が本性のようになってきて、楽になった。

 カランカランと低いながらも店内に通る鐘の音がする。ドアに備え付けられたチャイムのようなものだ。
 それに思案に耽っていた顔を上げる。何人か纏まってきたお客様に、笑みを向ける。

「いらっしゃいませ。ようこそ『フラーテル』へ」