- ナノ -
黒色の洪水で溺死する藁
01 三猿は叡智か?

 一人の男がパソコンの画面を食い入るように凝視していた。
 Wikipediaと明記されたそのホームページはとある人物のことについて記している。


『建安24年(219年)、曹操が長安にいるときに、劉備配下の関羽が北上し曹仁の守備する樊城を包囲した(樊城の戦い)。
 于禁は援軍の将として七軍を率いて出陣した。この時、漢水を遡るつもりで船を用意していた関羽に対し、陸路を伝ってきた于禁らは船を持っていなかった。そこに漢水の氾濫が発生したため、于禁ら七軍は水没し、于禁はホウ徳と共に、なす術もなく捕らえられ、于禁が率いていた3万の兵も捕虜となった。
 ホウ徳は曹操への忠義を貫いて打ち首となったが、于禁は関羽に降服して助命された。曹操は悲しみと嘆息を込めて「わしが于禁を知ってから30年になる。危機を前にし困難に遭って、(忠義を貫いて死を選んだ)ホウ徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と言ったという。

 孫権が荊州を奪うと、江陵で捕虜となっていた于禁は、今度は孫権によって捕らえられ賓客として持て成されたが、虞翻にはその態度を罵倒され、さらに忠義を貫けなかった者への見せしめに于禁を殺すよう主張されたが、孫権は取り合わなかった。于禁は帰国した後、虞翻を大いに称賛したという(呉志「虞翻伝」が引く『呉書』)。

 曹操が亡くなり、曹丕(文帝)が禅譲を受けて皇帝となると、孫権は魏に藩国としての礼を取った。221年、于禁は他の捕虜とともに魏に送還されることとなった。

 曹丕が于禁を引見したとき、于禁は鬚も髪も真っ白で、顔はげっそりと窶れていた。曹丕は于禁を表向き慰め、安遠将軍に任命。呉への使者に任命するとして、高陵(曹操の墓)を参拝させた。曹丕は予め関羽が戦いに勝ち、ホウ徳が憤怒して降服を拒み、于禁が降服した有様を絵に描かせておいた。于禁はこれを見ると、面目無さと腹立ちのため病に倒れ、死去した。子が跡を継いだ。

 諡には「無辜の者を殺戮した」『災い』・『厳しい』などの意味がある。于禁は死後までも嘲られたのだった。于禁と同じく汚名を残したまま死去したトウ艾や呉質が、後に汚名を返上する機会があったのに対し、于禁は最後まで機会が与えられなかった。

 曹操の廟庭には建国の功臣が祀られたが、于禁と官位がほぼ同格の張遼・楽進・徐晃ら、格下の李典・ホウ徳・典韋らが祀られているにも関わらず、于禁は祀られていない。』


 男は眉間に深い皺を寄せながら、真剣にその記事を読み込んでいる。元々は中国の千八百年ほど前の出来事であるので小難しい文字や言葉も多いが教養があるらしいその男は大体内容を把握することが出来た。
 簡素な木のデスクの上に黒いデスクトップパソコンを置き、会社などにあるようなシンプルな百八十度回転する椅子に腰を落ち着かせながら鋭いとさえ思える背筋の正しさで男はパソコンを操作していた。
 髪形はきっちりと整えられており、短く切り揃えられている。ただ前髪が特徴的で左斜めにはねるように寄せられている。
 顔つきは強面で顎と鼻下にある髭は整えられている。体格も大層大きく二メートルほどなので事務作業よりも肉体労働の方が似合いそうな風貌である。しかも下働きではなく上で叱りつける役である。
 きっちりとした服装をしているかと思えばそうでもなく、私服らしい長袖とジーパンを履きスリッパを足に嵌めて黙々と記事を読み進めていた。

「どうしたんだ。于禁。そんなに真剣に何を読んでるんだ? 小説とか?」
「む……生江。大したことではない」

 男が目で追う文章を後ろから覗き込むもう一人の男がいた。眼鏡をかけ柔和な顔をして何やら楽しげに于禁と呼んだ男に話しかけている。それに対して日常的なことなのか別段驚いた風もなく于禁と呼ばれた男は細長く鋭い目で見やる。
 その男は于禁と似通った風体をしていた。高い背丈にがっしりとした体つき、しかし圧倒的に違うのはその表情だろう。髪形も同じ黒髪だが男の方は後ろで縛っており長髪だ。于禁はきっちりと揃えているのに比べるとかなり印象が違う。縁の丸い眼鏡をかけたその奥の瞳は垂れているとまでは行かずとも元々細い目元が緩やかに弧を描いているように見えるので優しげで、唇も笑みを浮かべている。髭も顎に少し生えている程度だ。
 似ているが正反対という言葉がぴったりと当てはまる両者だが、確かな血縁を思わせる。

「もしかして……三国志の話か」
「ああ。上司から同じ名の武将が存在していて、機会があるなら見ておけと」

 生江と呼ばれた男はそうか。と声を返すとパタパタとスリッパの底をフローリングに叩く音をさせながらキッチンの方へ向かった。二人がいる場所はキッチンと机、テレビなどがある一般的な部屋でキッチンへ引っ込んだ名前は直ぐに于禁の元へ顔をだし、パソコンが置かれた机の上にコーヒーの入ったコップを置いた。

「仕事から帰ってきたのにまだ仕事に関することなんて、大変だな」
「そんなことはない。これは私用だ。その上司からもあまり面白い物ではないから観覧はどちらでも良いと伝えられた」
「でも、于禁が実際見てるってことは見てほしそうにしてたのか」
「ああ、感想を欲していたように思える」
「そうか……あんまり性格の良い人じゃなさそうだな」
「だが優秀だ」
「へぇ」

 自分の手にもコップを持ち、それを一口すする。于禁のコーヒーはブラックだが、生江のものはミルクと砂糖が入った甘口だ。
 于禁も右手で操作していたマウスをいったん放置し、椅子を回し生江の方へ身体を向かせてコップを手に取った。どうやら『三国志の于禁』については置いておいて、生江との話に意識を向かせたようだった。
 それに気づいた生江はニコリと嬉しそうに笑い、言葉を続ける。

「于禁が自分から『優秀』なんていうの、珍しいな」
「む、そうか?」
「そうだよ。最低でも自分より能力が上じゃなきゃ認めない上に規律を守らない人はいくら優秀でも睨み効かせて怖がらせるようなお前が、優秀って断言できるんだから」
「確かに、そのような傾向はあるかもしれないな。だが私はそれを悪しきことだとは思っていないし、そう教育したのは生江だろう」
「うーん、それもそうだ」

 ははは。とわざとらしい笑い声を上げ、生江はそのままくるりと踵を返すとテレビの前にあるソファに腰を落ち着かせた。反発力のある触感が生江を包み、何も映さないテレビの画面を見つめる。
 于禁はその様子を眺めながら、コーヒーには口を付けずにいる。

「……生江は詳しいのか」
「三国志について? いいや、分からないな。それで、お前は三国志についてはちょっとは詳しくなったか?」
「いや、まだ于禁という人物の欄しか見ていない」
「どうだった?」
「順調な活躍を見せていたが、晩年が不運だった。という印象だな」
「へぇ」

 そこまで言ってまたコーヒーを一口飲む。炒った豆の香りが口に広がり、ミルクの円やかさと砂糖の甘みが合わさったコーヒーの味が伝わる。最後には渋みのある豆本来の風味が残った。
 それに生江が軽く首を傾げる。砂糖とあまり合っていないかもしれない。口を閉じてカップをゆらゆらと揺らす。
 コーヒーを見つめる生江の代わりに于禁が問いかける。

「生江は、三国志は嫌いか?」
「うん? 私は読んだことがないからなぁ。好きとも嫌いとも言えないけど、物語としては昔の話より未来の話の方が好きだな」
「未来……サイエンスフィクションなどのことか」
「そうだな。SFも好きだし、ああ、でも戦争系はあんまりだな。あってもハッピーエンドが好きだ」
「ふむ」

 于禁の記憶の中の生江は、あまり本を読まないイメージだった。本よりもパソコンなどの電子機器、それよりも于禁と共に何かしていることが多かった印象だった。それは生江が一番最初の記憶がある時からずっと于禁の世話を焼いていたからだろう。

 于禁と生江は双子の兄弟だった。日本人と中国人の親から生まれた子供で、歳は今年で三十になる。いい年をした男二人が一緒に住んでいるのかという話だが、二人の実家がそこだった。両親は父方の仕事の都合で中国へ渡りそこで生活をしている。そうなったのが二人が高校生の時であり、それからずっと二人で暮らしていた。
 勿論親の転勤で他の国へという話だった為に、子供たちと共に中国へ往くという話も出たが、生江が反対した。それに于禁も同意し、言い出した生江が双子の兄として于禁の面倒を見ることで結論がついたのだ。
 それ故互いに支えあってきた兄弟は一人暮らしをすることもなく、なぁなぁに自宅暮らしをしていた。
 一番の原因は互いに良い人が見つかっていないという点に尽きるだろうが。

 手に持った黒一色のコーヒーを飲む前に、左手でパソコンの電源を切る。
 そのまま椅子から立ち上がり、きっちりと椅子を元の位置に戻して名前の隣のソファへ座った。その後にようやくコーヒーを一口飲んだ。

「三国志の、もう良いのか?」
「ああ、概要は理解した」
「そうか」
「このコーヒー」
「あ、どうだ?」
「旨い。豆の風味がよく出ているし、今までで一番好みかもしれん。流石だ」
「そうか! よかった。でもお前に資金提供してもらってるんだし、手は抜けないよな」

 なんだかんだと言いつつ機嫌のよくなった生江を見て、于禁はまたコーヒーを飲む。
 生江は既に飲み終わったようでテレビのリモコンを手に取りテレビを付ける。映し出されたのは夜に放映しているドラマで、ちょうどクライマックスのところだった。ポチポチとチャンネルを変えながら、コーヒーについて語る。

「その豆、店に出してるやつとちょっと変えてみたんだよ。粒が小さくて味が濃厚なんだ。ブラックにはちょうどよかったんだけど、うちで使ってる砂糖とは合わなかったみたいだから、ブラック専用にしようかと思ってな」
「合う砂糖を探せばいいだろう。種類も増えていいではないか」
「今回は経営が順調で金が余ったから片手間に豆を探してみただけで今の種類で十分だよ。別にコーヒーだけを売りにしてるわけじゃないし」
「だが折角だろう。勿体がない」
「あのなぁ。それでどれも気に入らなくて無駄に資金が消費されるだけだったら嫌だろう?」
「私が出せば済む。生江は好きに店に置きたい物を見つければいい。貯金ならある」
「……あのな、弟のお金を頼りにする兄にはなりたくないんだよ。これでもカフェは経営うまくいってるんだから」
「それぐらいで気に病むことはない。これまで世話になったことを考えれば全く足りん。そもそも店も小型過ぎるだろう。もっと大きくはしないのか? 資金なら貯蓄分からなら幾らでも出せる。家のローンは母と父が払うことを考えると生活に困るほどの出費は殆ど無いと言っていい。生江が建て直しの際に仕事が出来なくなったとしてもこちらの給料が支払われる。その金額で贅沢さえしなければ工事終了までは持つ」
「……お前、クソ真面目だよなぁ」
「クソとはなんだ、クソとは。こちらは真面目に話している」
「ああ、うん。真面目だよね于禁って」

 そのまま話を有耶無耶にし、今日のケーキの出来を語り始める生江に于禁は目を細め、しかし何も言わずにコーヒーを呑み込んだ。