- ナノ -
黒色の洪水で溺死する藁
005 誓いは死後も続くか

 関羽に降伏した後、その軍神とまで呼ばれていた男が呉に討たれ、私の身は呉に渡った。他の将兵らの身柄は分からない。私は将としての身を考慮されたのか賓客として呉では扱われた。どうしたことかその当主である孫権に気に入られたのか悪い扱いも受けなかった。
 一部の呉の忠臣は私を忠義を貫かなかった者への見せしめとして殺せという声もあったそうだが、実現は終ぞされなかった。そうであったらどれほどよかったことか。
 魏の当主。曹操殿が死したという報が伝わってきた。最期は病で亡くなったそうだった。


「于禁よ。よくぞ戻ってきた」
「はい。生きて帝にお目通り叶うなど、想像もしておりませんでした」

 魏では曹操殿の息子の曹丕殿が帝から禅譲を受け皇帝となっていた。呉は魏国の属国となる為にその際の礼を取り私を魏へ送還したのだ。
 私のような身分の者が、一度魏を裏切った者が皇帝である曹丕殿と顔合わせするなど、有り得てはならぬことだが帝のご厚意でそれが成されている。

「お前には将軍の位を用意してある」
「な、私のような者が承っていいものでは」
「良い。樊城での降伏よりも以前の功績を考えれば当然だ」

 皇帝となった曹丕殿は威厳に溢れていた。その姿は私が士官したばかりの曹操殿を思い出させた。血筋なのだから当然だが、その姿に曹操殿の姿を重ねていた。
 曹丕殿は私を安遠将軍に就任させた。名誉なことであり身に余る光栄であるが、同時に考えられぬ程の優遇処置だ。通常ならば帰国した時点で死罪であってもいいはずだ。それか降伏したことに対してのそれ相応の処罰を下さなければならないはず。以前の私の立場ならば、迷わず殺すほどの立場であるのが今の自分だ。

 それを曹丕殿は将軍に襲名させ、そうして呉への使者を申付けた。これといった罰がなく、暗澹とする心の内でもそこまでは良かった。

「お前の主はこの私だ。今後は私の為、魏の為に奔走せよ」

 それに、私は軟弱としか言い難い声ではいと応えるしか出来なかった。
 私は曹操殿へ全てを捧げてきた。曹丕殿の為、魏の為、それは遠からず曹操殿の為となるのだろう。だが、その曹操殿はもうこの世にはいない。

 曹操殿の墓へ参拝するようにと言い付けられる。魏へ帰国したことや新たに将軍になることへの報告の意味もある。ああ、だがそこで見たものは。


「我が主君よ」

 そこに在ったのは見事な墓だった。曹操殿は自分の墓が墓荒らしに暴かれぬようにと多くの偽墓を作らせたそうだ。しかしその中でも真作であるそれは、正しく魏王であり死後武帝となった曹操殿に相応しいものだった。
 そこには部下である者たちを称賛する絵画が飾られていた。魏の将軍である張遼、楽進、張コウ、徐晃のそれぞれを褒め称える絵画がある中で、一つだけ、異質なものがあった。
 それほど製作されてから時は経っていない物であった。そこには見知った姿があった。私よりも背丈があり、忠義の士として死んでいったあのホウ徳だった。そして関羽、もう一人。

 見たことのある光景だった。確かに、あの光景を傍から描けばこのような光景になるのだろう。
 そこには樊城の戦いで降伏を赦さず死したホウ徳と、自ら降伏する私の有様があった。

「曹操殿」

 全身の力が抜け、立ってもいられずにその場に膝をついた。
 眼前には、壮大なる墓がある。あの方の功績を称えるに値する素晴らしい墓が。そうしてそこにあの方は眠っている。もう起きることはない。私に向けて帰ってきたのかと声をかけることもない。労りや侮蔑の目線をくれることもない。あの堂々たる面持ちで私を映すことはもうないのだ。
 
 その代わりだろうか。この絵があの方の私への遺言代わりだろうか。
 私は不忠の士として、貴方様の記憶に刻まれたのですね。
 ホウ徳はあの場で潔く死に、私はみすぼらしくも生き残った。そうして生きて帰ってきてしまった。そうして、帰ってきてまでまだ生きている。

 心は、感情はホウ徳と共に殺したはずだったのに。殺し切れていない、まだ、こんな想いが強くある。

「――誰も私を処断しないのなら」

 罪は贖われなければならない。今までもそうしてきた。どうしていいか手順も方法も分からず、ただ法を厳守してきた。それはそれしか出来なかったからであるし、そうすることを正しいと信じてきたからだ。なればこそ他にそれを当てはめ自らに課さぬ道理はない。
 あの方が私を不忠の者と想い亡くなったのなら、于禁という者は不義不忠の罪人だ。
 それに対する贖いは、死しかない。

 樊城の戦いより二年が経っていた。その間に私は酷く老けたと思われる。髪は灰色を追い越し白くなり、顔はやつれみすぼらしい鼠のような容貌となった。
 曹丕殿は自分の為、魏の為に尽力せよと告げた。それは明らかな皇帝からの直々の命令だったろう。
 ああ、それでも。私は。
 彼の為に生きると決めていた。

「直ぐに、逝きます」