- ナノ -

女は、まだ笑っていた。

「貴方、名前は」

また会えたね。そんな挨拶に聞こえそうなほど、親しげに発せられた言葉は名を聞くシンプルなものだった。
蝶が舞う。ひらりひらりと彼女を形作る。
幻想が、現実を想像していく。

「……ヴィンセント」

男にとっては、記号でしかない。
己の名前は、記憶が失われたときに何処かへ行った。
だが、男を示すものとして他人から提示されたのはそれだった。
出てきた無意味な文字の羅列は、しかし彼を示すものとして扱われた。

それを聞いて、貴方、自分の名前、好きじゃないの? とまたシンプルな問いが投げかけられた。
口の減らない女だ。そんな感想をふと思い、そうして蝶が掻き消していった。

「意味などない。幻想に求めるものなどない」

ヴィンセントはソファに座ったまま前かがみに女を見ていた。
それ以外に視点を置く場所は、特になかった。
男の言葉をどう解釈したのか。女はへぇ、と息を吐き出した。

「哲学的ね」

カッコいい。
露とも思っていなさそうな口調で、女は言った。
それから、ちゅうにびょうって嫌いなのよね。とぼぅっとした顔で述べた。
女の口からは、理解不能な単語があふれ出てくる。
そもそも、意思疎通を両者が望んでいない時点で、会話は死んでいる。
それでも、女は喋り続ける。

「お兄さん、病んでるね」

幻想がふわりと舞う。
女の手に、蝶がついて羽休めをする。
それが、女が蝶として消えていく合図のように思えた。

「扉を探している」

いくら幻想に語りかけたとしても、それはただただ無意味だ。
それでも、彼は語り掛ける。煉獄にいる人間たちにも、同様に。

殺し、殺し、そうして扉を探す。

「一人ぼっち、だから何も見えない」

見ざる、聞かざる、喋らざる。
でも、貴方はそれができない。
だから苦しんでるんだよ。

子供が転んでしまった。可哀想に。
そんな顔で、彼女は消えた。



女は、まだ笑っていた。