- ナノ -

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クラウス・フォン・ラインヘルツは思い悩んでいた。それこそ胃に穴が開く程に、頭を抱えていることがあった。
それは自身が設立し、運営している秘密結社ライブラの副官ことスティーブンという頬に傷がある優男のとこについてなのだが、本人に相談することもできない。
クラウスは彼から、耳にタコができそうなほどに何かあったらすぐ相談するようにといい含まれているものの、今回のことはどうあっても彼の耳には入れられないことだった。
クラウスという人間は外見はまるで獣のようであるが内面は無類の紳士であり良識人だ。怒りに我を忘れることもあるが、個性の強いライブラという組織の中では常識的な方であろう。
そんな彼は、数日前に発生した事件を終わらせたあとにスティーブンと話した会話の内容を脳内でリピートしていた。

『クラウス』
『どうしたのだ。スティーブン』
『いんや……ほんと、君と出会ったことは運命的だなと思って』
『……私も、君という人と出会えたことに、神に感謝している』

突然懐かしむような声色で語った彼に、クラウスは真剣に返した。常常思っていたことであったし、スティーブンが無意味に過去を回想しないとも思っていたからだ。
クラウスがスティーブンと出会った頃、彼はまるで人形のようだった。世界の何もかもに希望を見いだせずに、ただ与えられた任務をこなすだけの存在。
それを見て、クラウスは無性にスティーブンを救いたいと感じ、そうして実際に手を差し伸べた。クラウスとしては当たり前の行動で、そうしない選択肢はなかったが、スティーブンは結局それで今のような性格に豹変することとなる。
それからはクラウスとスティーブンはずっと行動をともにしてきた。吸血鬼退治の旅も、ヘルサレムズ・ロットでの活動も。
それらを全て総合して、クラウスは彼との出会いを神に感謝するほどの出来事だと口にした。

それなのに言わせた本人は面白げに笑う。それに怒りを表すことなく、ただ面白がる理由がわからずクラウスは首を捻る。
なんでもないと誤魔化すスティーブンに、それでも笑っているのならばとクラウスは無理やり納得した。クラウスからすれば、スティーブンは時折何が面白いのか笑みを浮かべていることが多い。だが、それを悪いことだとは思わない。あの、まるで人形のような顔を一度でも見たことがあるのなら、ただ笑っているだけでも喜ばしいものだと思う。

クラウスは彼が笑っている表情が好きだった。ただ曖昧に笑みを浮かべている表情、ザップがおかしな事をして笑っている顔、クラウスを見て、目を細めて“行こうか”と口角を上げる仕草。ライブラの騒がしい日常を見て僅かに和らぐ微笑み。
それを見る度に安堵する感覚を、クラウスは心地よく思っていた。
それが、どこか胸を締め付けるものに変わっていったのはいつからだっただろう。

『スティーブン』
『なんだい?』

名を呼んでも彼を振り向かなかった。よくあることであるし、顔を突き合わせていなくとも彼はクラウスの言葉を一言漏らさず聞いている。
それでも、彼の顔を見たいと思った。どこか騒がしくなって、こちらを向いて欲しいと願った。
どうしてかと考えながら、ただ頭に浮かんでいた言葉を伝える。

『……私は、スティーブンがいてくれて本当に嬉しく思っている。君がいてくれなかったら私は今ここに存在していないだろう』
『なんだよ、藪から棒に』

彼が笑った気配がした。
その顔が、無性に見たいと思った。
彼の肩に手を置いて、自分の方へ顔を向いて欲しいと想像する。
スティーブンがいなければ、今のクラウスは存在などしていないだろう。今のような、彼の笑を見たいがために衝動で行動してしまいそうになるクラウスなど。
そうしてそれを、悪いと感じていない己がいることをクラウスは知っていた。
だからこそ、その感覚を失いたくないと強く感じた。

『これからも、共に歩んでくれないか』
『当たり前じゃないか』

すらりと出てきた返しの言葉に安堵するとともに落胆の思いが首をもたげた心中に疑問が浮かび上がった。
自分はどんな言葉を望んでいたのだろう。彼からの言葉でこれ以上に喜ばしい言葉があるのだろうか。

ずっと一緒に?
だが、彼もこの活動をやめる日が来るだろう。体力の限界か、それともほかの理由か。
婚姻だろうか。だが、K.Kのように結婚をしていて、子供がいても活動を続ける人間もいる。
ふと、結婚をすると告げるスティーブンの姿を想像し、頭を降った。するとその映像は霞のように消えてしまう。
クラウスの謎の行動に気づいたスティーブンが後ろを振り返って何事だと聞いてきたが、それにクラウスは焦って先程と同じように頭を降る。スティーブンは目を瞬かせたが、それ以上気にすることなく少しだけ笑った。
その笑みが、見れなくなる時が来る−−いいや、彼が愛する女性に向けられる時が来るのだと考えて−−ひどく動揺した。

その意味を、数日かけて考え抜いて、もしかしたらと知識の上にある事柄に結び付けられると考え、しかしそれではおかしいと、なかなか発生しづらい事案ではないか、思い違いではないかとクラウスは頭を悩ませていた。

考え始めてから、クラウスはスティーブンの顔を見ると、笑みでもないのに胸がしめつけられる感覚がして、落ち着かなくなる。有難いことに本人には気づかれてはいないものの、人の変化に敏感な彼ならば気がつくのも時間の問題だろう。
出来るだけスティーブンに嘘をつきたくないクラウスが、誤魔化し続けられるのはいつまでなのか、クラウスは分からなかったが早々ギブアップをするのは目に見えていた。

今日もスティーブンがやってくる時間は刻一刻と近付いていく。しっかりとした判断がくだせていない現在ではどんな反応を己がするのかが自分でも想像がつかない。
胃の痛みを感じながらはたから見れば不機嫌であるかのように見える威圧感を放っているクラウス。そんな彼の耳に、テレビからの緊急ニュースからアナウンサーの切迫した言葉が入ってきた。

『現在っ、姿が変わっていってしまう謎の現象が起きており、その対象はヘルサレムズ・ロット全域に渡っておりますッ!! 大人から子供に、異界人が人間にっ、異界生物が動物に変化していっています!! これは一体−−』
『はーっはっはっはっはっ!!! ヘルサレムズ・ロットの諸君! 本当の自分の姿はどうだい?』

切り替わる画面と最早聞きなれてしまった笑い声にテレビに目を向けながら、週一で起こる異変の開始をクラウスは察知した。
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