- ナノ -

Happiness depends upon ourselves.


夢を見た。最近よく見る夢だ。事件以来、思い出したかのように夢に映る。いや、実際思い出しているのかもしれない。懐かしいような、ついこないだまで体感していたかのような微妙な気分だ。ただ、想うのは愛おしいということだけだった。


「スティーブンさん?」
「……なんだ? レオ」
「なんだ、って。さっきから呼んでたんですけど……」

少し拗ねたように口を尖らせるレオに、軽く謝りながらコーヒーが入ったマグカップを受け取る。ついさっきレオがキッチンに行くというのついでに頼んでおいたのだ。すっかり、頭から抜けてしまっていた。

「どうしたんですか? 体調が悪いとか?」
「いや、そんなことはないんだが……」

呆けていた俺を心配してか、レオが訪ねてくる。漫画の通り人を気遣える性質なのだと、こういう日常生活で洗われる毎に感心する。ちょうど自分の妹と同じぐらいだろうか。私の妹はこんなにしっかりしていなかった――って、ああ、駄目だ。今はレオと話しているのに、脳内に浮かぶのは前世の事柄。無意識に引き摺られまいと務めているのだが、頭がぼうっとしてしまう。
美香がテストで悪い点をとって、親に叱られている光景を見たのが、そんなにも印象に残ったのだろうか――。

「あの……スティーブンさん?」
「っ、あぁ、なんだ?」
「やっぱ、ちょっとおかしいですよ? なんかあったんですか?」
「なんでもないさ。ちょっと寝不足かな?」
「ならいいんですけど……」

納得しかけ、という顔をするレオにいつも通り笑いかける。確かに、夢ばかり見ていて、しっかり寝た気がしない。だから必要以上に――先ほどのように――呆然としてしまうのかもしれない。

「ちょっと寝た方がいいんじゃないですか? 今日は特に何も起こってないし、ザップさんも問題起こしてないですし」
「そうだな……そうするか」

世界の危機と並ぶのがザップの女性関係の事であるのが、ライブラらしいのかヘルサレムズ・ロットらしいのか。前世ならザップの事を堂々と女の敵だと言っていたのだが、今は後ろめたく口に出せないのが今の自分を表しているようだ。変わったなぁ、なんて。

「じゃあ、少しだけ眠らせてもらおうかな」
「はい。あ、コーヒーどうしますか?」
「五分か十分で起きるし、そのままにしといてくれ」

折角入れてくれたのだし、少し温くなってしまっていてもいい、眠気覚ましに飲ませてもらおう。そう言えば、解りましたと身を引いたレオに礼をいいつつ、ソファに少し深く腰を据えた。五分、十分の為に態々仮眠室に行くのも面倒だ。それに、寝ようと思うと途端に眠くなってきてしまって、動くのも億劫になる。そんなに疲労をためていたかとぼやける思考の中で首を傾げるが、まぁ、寝て起きればいつも通りに戻っているだろう。いつも通りに――。



そう――前世の父の名前は明(アキラ)だった。いつもはお父さんと呼んでいたが、喧嘩をしたりするとよく呼び捨てにしていた。その日は父と些細な言い争いをして、そのまま不貞寝したのだ。食事の時に顔を合わせるのも嫌だったから。
「生江」
父が私を呼んでいる。もう起きろとでも言うのだろうか。煩いな、今日は何もないんだからもっと寝かせてよ。眠いんだ、もう少し惰眠を貪りたい。それに、昨日口論したのに、なんで声をかけようと思ったんだか――

「アキラ、煩い……今日は大学も休みなんだから――」

……可笑しいな。“私”の声はこんなにも渋かっただろうか―――。

重い瞼を引き上げて、ぼやける視界をクリアにしていく。コーヒーの香ばしい匂いが鼻を擽る。私は好きじゃなかったコーヒー。黒くて苦くて、飲んでも飲んでもなかなか減らないから好んで口にしなかった。でも、起き掛けの今は何故かそれを飲みたくなった。でも、どうしてコーヒーの香りなんてするのだろう。誰かコーヒーを飲んでいたのだろうか。
視界が開けていくにつれて、私を見る誰かがいるのが見えてくる。

「……クラウス?」

クラウスがそこにいた。目を覚ましてみれば、見知ったライブラのリビングだ。そうだ、“俺”はソファに座ってそのまま寝て――身体にはブランケットがかかっていた。クラウスがかけてくれたのだろうか?
礼を言おうと立っているクラウスに向かって口を開こうとすれば、一足先にクラウスの声が降って来た。

「アキラとは、生江の時の恋人だろうか」
「……………………ぅぁ?」

可笑しな所から声が出た。何を言っているんだクラウス。アキラって誰だ? なんのことを言っている? それに何故、前世の名前を――もしかして、まさか、もしや、“アレ”は夢ではなかった……?
クラウスの表情はまるで捨てられた子犬のようで、戸惑いながらに発せられた問いは答えを予想し、恐れているようだった。

「ちがッ」

咄嗟に口から言葉が出た。顔から一気に血が引いた。
違う、違うんだクラウス。ただの誤解だ。君が父に見えてしまっただけなんだ。決して昔の恋人なんかじゃない。自慢じゃないが生江の時は恋人の一人もいなかったんだ。だからそんな顔をしないでくれ。違うんだ。そんな顔をしないでくれ。――過去の男と君を間違えたわけじゃないんだ!!

「ク、クラウス。あの、いや、違うんだ。勘違いなんだ。ただの思い違いで」

そう。ただの勘違いの思い違い。それを説明すればいいだけだというのに、口が上手く回らない。クラウスに馬鹿なことを言った動揺と口論をしていた父親の顔、頭の中に残る自室のベッドの匂いとコーヒーの香りがぐちゃぐちゃに混ざり合って言葉が出ない。でもそんなことはクラウスには関係がない。どもってばかりでは伝わるわけがない。混乱しているかといって、時間は待ってはくれないのだ。
私には彼氏なんていなかった。それを伝えればいいだけなのだ。その後はなんとでも言える――。

「クラウスさん。私には――って違う!」

その口調じゃない! それは“私”だ! “俺”が話す言葉じゃない!
駄目だ、話せば話すほど墓穴を掘る気がしてきた。もう泣けるレベルだ。どうして男の姿で女の口調で話さなくちゃならないんだ。そんなの気持ち悪い。クラウスに幻滅される。

「落ち着けスティーブン」

少し焦ったクラウスの言葉が聞こえ、目の前が赤ワイン色になった。一瞬にして染まった視界に、デジャブを感じた。背中に大きな手が回っている。暖かくて、混乱していた頭が真っ白になり、それからだんだんと正気に戻っていった。そうか、今、俺はクラウスに抱きしめられているのか。

……なんという安心感。きっとここがヘルサレムズ・ロットで一番安全な場所なんだろうなと思う。大きくて暖かくて、そして鉄壁だ。
頭はすっきりした。まったく、何を動揺していたんだか。さっさと冷静になればよかったんだ。さっきまでの状態じゃあ、浮気がばれた彼氏みたいじゃないか。
抱きしめてくるクラウスの腕を軽く叩く。名残惜しいが、そろそろきちんと弁解しよう。それに、俺は守られるんじゃなくて守りたい派であるし。

「クラウス、すまん。もう平気――」

顔を上げる。と、何故か視界の端に天然パーマの黒髪が。視線だけそちらへ寄越せば、こちらを見ているレオがいた。驚いているような表情だ。いや、レオだけじゃない。ライブラのメンバー、いるじゃないか。

「〜〜〜〜〜!!??」

み、見られてた。色々と見られた!!

「スティーブン?」

クラウスが俺の声で少し距離を取ってくれたが、もう、いろいろ駄目だ。もう駄目だ。特に俺のメンタルが。

「コ、コーヒー飲んでくるなっ!」

こうなれば逃げるしかない。

「コーヒーなら机にあるが」

まじかよクラウス。
君は自然に俺の逃げ道を塞ぐね。だが、今は文句も何も言えない。

「ほ、ほんとだ――うぁち!」
「大丈夫か!?」

クラウスが心配してくれるが、やったことは間抜けにもほどがある。熱いコーヒーを冷ましもせずに一気に飲んで舌を火傷しただけだ。

「だ、大丈夫大丈夫。大丈夫だけど冷やしくるから」

もうクラウスの方も見られない。というか他のメンバーの顔も見られない。最悪だ。穴があったら入りたい。そそくさというのがピッタリな姿で、俺はキッチンに逃げ込んだ。




逃げた。というのがピッタリ当てはまるスティーブンの姿を見ていたレオ、ザップ、チェイン、ギルベルト、クラウスの五人はスティーブンが去っていったキッチンの方を眺め、しばし沈黙していた。

「……コーヒー、入れ変えない方が良かったですかね」

ツッコミ所は他にも大量に存在したが、それでもレオは自分が入れ替えたコーヒーについて述べた。寝る前は短時間で起きると言っていたスティーブンだが、実際には疲れが溜まっていたのか一時間ほどしても目を覚まさなかった。時刻はちょうど昼となり、ライブラのメンバーも集まっていた。
外に出ていたクラウスも戻り、ライブラの副官も仕事を再開する時間だろうと、レオが珍しくゆっくりと休んでいるスティーブンに、申し訳ないと思いながらも起こすために声をかけようとした。その前に、すっかり冷めたコーヒーを見て、冷たい物を飲むのは嫌だろうとレオがコーヒーを入れ替えていたのだ。
ギルベルトにブランケットをかけられていたスティーブンは椅子に座ったままの体勢だったが、深く寝入ってしまっていたので、何度声をかけても起きなかった。ピクリとも反応しないスティーブンにレオがどうしようかと悩んでいた時に、クラウスが近寄り、ある名を呼び、彼は寝ぼけながらも目を覚ました。

「生江」
「アキラ、煩い……今日は大学も休みなんだから――」

それは確かにスティーブンから発せられたが、ライブラのメンバーは分かった。
彼女だと。



「……行ってこよう」
「あ、クラウスさん」

スティーブンが火傷をする原因となった一口だけ飲まれたコーヒーの入ったマグカップを片手に持ち、クラウスはスティーブンが逃げ込んだキッチンへと足を運んだ。

「ホントにスティーブンさんって、生江さんなんですね……」
「あの抱きしめられた時とか、嬢ちゃん思い出したな」

互いの意見を言い合うレオとザップの近くで、事の次第を見ていたギルベルトはいつも通りの涼し気な顔を、チェインは難しい表情をしていた。




家に帰りたい。
今すぐに前世の家に帰りたい。帰って父親を凍らせたい。
意味のない八つ当たりを脳内でしながら、コップに水を入れて飲み込む。舌がヒリヒリとして、地味に痛い。きっと誰かしらが元々あった物を入れ替えてくれたのだろう。時間を確認したら、仮眠を取った時から一時間も経っていた。もう仮眠の時間じゃない。一時間もしたらコーヒーも完全に冷めてしまっていたんだろう、それを新しい物に代えてくれた。しかし、その気遣いが今は少し恨めしい。メンバーの前で要らぬ恥を晒してしまった。クラウスには誤解だと伝えられていないままだし。
それに、一番の懸念事項は、クラウスとの関係が知られていないかどうかだ。レオとザップならまだしも、ギルベルトさんとチェインだ。ギルベルトさんの方は、たぶん気づいた。前から視線が変わったと思っていたのだ。というか、ギルベルトさんがあれで気づかないというのが想像できない。前世の記憶からすると更に。チェインには、怪しいとは思われただろう。彼女についてはなんとも言えない。前世の記憶通りスティーブンに恋心を持っているのか。そうだとしたら、悪いことをしているし、したなと思う。だからといって、どうなるわけでもないが――。

「スティーブン」
「うわっ!」

突然かけられた言葉に飛び上がる。
振り向けば案の定、クラウスがそこにいた。

「ク、クラウス……」
「舌は大丈夫だろうか」
「あ、あぁ。こんなのどうってことないよ」

そうだ。どうってことない。いつもの俺だ。

「……先程はすまなかった。不用意に君の名前を呼んでしまった」

やっぱり来るよな! いや、動揺するな、本当のことを話せばいいだけだ。
ほら、クラウスが悲しそうな顔をしている。早く弁明せねば。

「大丈夫さ。その、アキラというのは生江の父親の名前なんだ。時々だが呼び捨てにしていたから、寝ぼけて口に出してしまっただけなんだ」

だから昔の男の名前というわけじゃない。遠回しにそういえば、クラウスはあからさまにほっとした顔をした。相変わらず隠すのが下手な奴だなぁ。それでも、こちらとしては有難い。ようやく一息つけるな、と安堵する。
クラウスの顔を見て、懸念事項はあるものの。とりあえずはこれでいいのだと思うことが出来た。動揺も抜けて、クラウスには言いたいことが言えた。そして本人にも伝わった。それでいい。

「夢を見るのか?」

コップを持ちながら、クラウスを見る。

「生江の夢を、見るのか?」

――どうしてだろう。彼にその名前を言われると。
クラウスは、どうやら先ほど俺が寝ぼけたことを気にしているようだった。

「あぁ、昔の夢を見る」

ここの所、寝ると必ずと言っていいほど夢を見る。夢の中では俺は私で、あまりにも当然のように時間が流れるから、目を覚ましてもそれが続いているような錯覚を受けるのだ。可笑しな夢だ。あちらに悔いがあるわけではないのに。

「生江」

名を呼ばれて顔を上げる。

「どうして」

その名前で呼ぶのだろう。
態々昔の名で。スティーブンといつも通りに呼ばないことに、違和感を覚えた。
そう存外に伝えれば、クラウスは答えた。

「スティーブン、と呼んでも反応がなかった」
「……嘘だろ」

思わず手の平で顔を覆う。つまり、そもそもスティーブンという名では今の俺には全く耳に入ってきていないわけだ。なるほど、きっと俺がソファで寝ていた時も、スティーブンの名で起こされてはいたものの目を覚まさなかったから、クラウスは私の名を呼んだのだろう。
頭が痛い。夢に踊らされるのも、ここまで来ると妄想癖だ。
一人苦悩していれば、クラウスが口を開いた。

「生江」
「……なんだい」

今回のは、最初からその名で呼んでいた。
クラウスに生江と声を掛けられると、なんだかこそばゆい。たぶん、嬉しいのだと思う。
スティーブンではない、“私”の生江。スティーブンだけじゃない、“私”を知って、呼んでくれている。語り掛けてくれている。そうだよ、俺はスティーブンだけど、私は生江なんだよ。

「生江、好きだ」

空耳かと思った。
あまりにも、求めていた言葉が狙ったように飛び出してくるから。
でもクラウスの口はその形に動いていたし、真面目な顔は確かにその言葉の意味を理解して口に出したんだろう。途端に、喜びが弾けた。
全く、どうしてこのタイミングなんだか。脈絡なかったろう。
でも理由は聞かない。きっと、そうしたら君は悩んだ後に顔を真っ赤にさせてしまうだろうから。
だから。

「私も、好きだよクラウス」

俺もそう返した。
俺も私も、君のことが好きだよクラウス。真実両方の己で君を愛している。
この想いが通じ合えるなんて、思ってもみなかった。スティーブンだけの想いを通じるのだって奇跡なのに、私の想いまで彼に届いている。
こんなに幸せでいいのだろうかと思うほど、今、私は幸せを感じている。
中途半端な自分が、こんなに幸福になっていいのだろうか。喜びに笑えば、クラウスに抱きしめられた。

「はは、またかい」
「私は、何度でも君を抱きしめたい」
「それは、嬉しいね」

どこをとっても嬉しい。君から与えられるものならなんでも笑顔で受け止められる自信がある。それが信頼でも軽蔑でも。だけど、今回のは特別嬉しくて、笑顔が溶けてしまいそうだ。
キッチンから出たらまた、いつものスティーブンに戻らなければいけないのに、この緩んだ頬をどうしてくれよう。

「君のせいだからな、クラウス」
「?」

クラウスの胸元に頭をこすりつけて、息を吸う。植物と紅茶の香り、クラウスの匂いだ。一人で満たされながら、もう“私”の夢は見ないだろうと思った。これからはきちんと自分で思い出していくさ。悔いはない。けれど想いはある。大切な記憶だから。

「……後で、聞いてくれないか? 私の事」

大事な思い出だからこそ、君に知っていてほしい。別に重い話じゃないんだ。妹の事とか両親の事とか。学生生活とか、そんな、他愛も無い話だ。それを聞いて頷いたり、笑ってくれたりするだけで、私は満足するから。
クラウスは驚いたような顔を見せた後に、嬉しそうに笑った。

「勿論だとも。教えてくれ。君の事を」

もう笑ってくれた。堪らず、情けなく笑みを零した。
本当に、クラウスはスティーブン(俺と私)を裏切らない。
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