- ナノ -

19


まるで、生江という人間が元からいなかったように、全ては元へ戻った。
生江はスティーブンという男の姿に、服装も彼がいつも着ているスーツスタイル。靴もエスメラルダ式血凍道を扱うための専用靴に変わっていた。
いいや、元から生江という人間などいなかったのだ。

クラウスは一瞬にして姿かたちを変化させた女性に、瞠目していた。
抱きしめていた感触さえも何の違和感さえなく変化し、逆にそれが可笑しかった。
この十数時間の間に起こった事が夢であるかのように、生江という人間は欠片も無く消え去った。
跳ねた黒髪がクラウスの肌を擽り、ゆっくりとその表情が現れる。
少しの間、姿が見れなくなっていた男は、目線を同じぐらいにしてうっそりと微笑んだ。

「……元から、俺は救われてたんだよ」

喉から鳴る音はやはり聞きなれた男のもので、その中でも一際穏やかだった。
灰色の瞳でクラウスを見つめ、なんの緊張も無く笑みを浮かべている。

「生江も、スティーブンも、お前が救ってくれてたんだ」
「スティー、ブン」
「全部が偽物みたいだったよ。こんな世界、嘘だって思ってんだ。でも、お前と出会って、救われて、この世界で生きていこうと思えた。何よりも――君の為にね」

教え込むように言葉を伝えて、子が親にするようにスティーブンはクラウスに抱き着いた。
首元に顔を埋めて、小さく笑う。
その振動にクラウスは背が粟立つようだった。

「クラウス、俺も、好きだよ。お前に救われた時から、ずっとな」

カッと、一瞬にして上がった相手の体温を肌で感じつつスティーブンは目を閉じた。
首元に耳を押し当てているから、力強い脈動がよく聞こえる。
心地よいそれを感じながら、クラウスの声の振動も一つ残さず聞き取る。

「なら、何故、あの姿に」
「誰にだって、消化しきれないことがあるだろう。俺の場合はあれがそうだったんだ。殺されて、家族とさえもう会えない。でも、誰にも言えないだろう。前世の記憶なんて」
「私は、君が言ったのなら信じた」
「……だろうね。でも、こんなことになるとは思ってなかったんだよ」

愉快そうに声を出して笑って、流石ヘルサレムズ・ロットだな。などというスティーブンを、クラウスはきつく抱きしめた。容赦のないその圧迫に、潰された男はカエルの鳴き声を上げる。

「君を、離したくない」
「う、ぐ、はは、なんだよ。離す気なのかい?」
「だが」
「言ったろ。俺も生江も、もう救われてたって」

スティーブンがクラウスの背を叩き、そこでようやく拘束が緩まる。
首に埋めていた顔を上げて、クラウスと視線を絡めさせた。

「前世の残り香も、君に全て救われた。言ってくれたじゃないか、“私が望むなら”元の世界に帰してくれるって。だから、もう、あっちの世界に悔いはないよ」

本当にそう思っているかのように話すスティーブンに、クラウスは苦しげに目を伏せた。
生江の姿であったとき、スティーブンの記憶を忘れてしまっていた生江は、帰りたいと願っていた。涙を流し、苦悩し嘆いていた。今ではすっかりその跡は消えてしまっているが、痛々しい程に目を腫れさせていたではないか。その生江が、真実悔いがないとはクラウスには到底思えなかった。
本当の自分の姿。それは、スティーブンの隠された心に根ずく欲求を映し出していたはずだ。
元の世界に戻り、大切な者たちの傍へ帰りたいという、切なる願いを。

「クラウス」

宥めるように告げられた言葉に、クラウスが伏せていた目を交わらせる。
そこには少し眉を下げながら微笑むスティーブンがいた。
スティーブンは、先ほどクラウスがやったのと同じように、クラウスの頬を手で包んだ。手の差は歴然で、半分ほども隠せてはいなかったが。
スティーブンの手の少し低い温度を感じながら、懇願するような彼を見た。

「俺は、元の世界よりも君を選んだ。それじゃあ駄目なのかい?」
「それ、は」

クラウスは何も言うことが出来なかった。
そういわれてしまえば、クラウスの胸の中には痛みと共に喜びが芽生えてしまう。
揺れる翡翠の瞳を見ながら、スティーブンはいつもの通りに微笑んでいた。

「好きだクラウス。……愛してる」
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