- ナノ -

16


人の顔が見たくなかった。こんな世界を目にしたくなかった。
自分の姿も見たくなかった。他人に今の自分を視界に入れてほしくなかった。
心配するクラウスさんや他の人たちを拒否して、一人にしてほしいと頼み込んだ。
泣いてもいいぐらいに頼んだ。もうあれはただのヒステリーだったように思う。ただ静かで、ただ暗く重い口調で繰り返すなんて気味の悪いヒステリーだけれど。

まだ思い出されないこともある。けれど、そういうことだ。
私は、きっと彼なのだ。
彼に、なったのだ。私が。

「――生江」
「……クラウスさん」

髪の毛をバラバラにして、顔を覆い尽くした。
視界が遮られない中で外界を見たくない。目が焼かれて使い物にならなくなってしまう、なんてことを想うほどに、現実という今は私にとって毒のようなものだった。
私の周囲には毒しかない。それも、微量で私を弱らせて、殺してしまうような毒だ。

堕落王から今回の事件を収束させるためのヒントが出たようだ。
今回の大元となっている魔方陣を壊せば即終了。その場所のヒントだそうだ。
本来ならば次の日の朝に捜索を再開する予定だったが、ヒントが出されれば話は別らしい。
なのに、ライブラのリーダーである彼だけはここにいて、私に声をかけてくる。
仮眠室を陣取っていた私は、顔を見られないように、そして彼を直視しないようにする。

何も言わずに近づいて、少し間をおいて腰かけたクラウスさんから逃げるように身を縮めた。
ベッドの隅で布団を被っている私は、まるで座敷童か何かだ。
沈黙が落ち、二人分の息遣いしか聞こえない。

「先程の」

沈黙にクラウスさんの声が広がる。

「“死んだ”というのは、どういう意味だろうか」

心臓を抉るような――いや、めった刺しにされた箇所の感覚が蘇るような質問に、吐き気がした。
唾を呑み込むことでどうにかせり上がるものを押し込める。

「そのままの、意味ですよ」

無意識に手が腹を触っていて、誤魔化す様に拳を作った。
爪が皮膚に抉り込み、痛みが走る。だが、それが映像を思い出さない枷になって、寧ろ安心した。

「殺されたんです、私」
「何?」

動いたクラウスさんの振動を感じながら、じくりじくりと痛みを発しだす腹に脂汗が出る。
今の身体に、そんな傷はない。綺麗な普通の肌が私の腹にはあった。
なのに、まるで傷が再現でもされるかのように痛覚が刺激される。
私は確かにあの時に殺された。でも、今は生きている。殺傷なんてない、痛みなんか一つも感じない。怪我一つないのだ。刺された跡など欠片も無い。

歯を食いしばり、感じないはずの痛みに耐える。
怖い。嫌だ。嫌だ。

「生江」
「ッ」

肩に置かれた手を、身体を捻ることで落とした。
殆ど反射だったそれに、驚くとともに安堵した。
人の手の感触など味わいたくない。外界をシャットアウトしていたい。
ただ、時間が過ぎるのを待っていたかった。
彼がこの場にいることも、私にとっては辛い事だった。事情を話すのも、心配されるのも。
だから一人にして欲しいと願ったのだ。人と接触するには感覚が敏感になり過ぎて、少し触れるだけでも見たくないものを見てしまう。

「……もう、触れることはしない。だから、話してはくれないか」

ゆっくりとしたクラウスさんの言葉が、私を気遣ってくれているのだと嫌でもわかる。
頭が可笑しくなりそうだった。
考え出される結論が、全てを否定したいと胸の内で暴れている。

「君を、救いたいのだ」
「……」

痛みが一拍遅れて感じた。
驚いて、痛みが少しだけ遅れたようだった。
この期に及んで、彼は救いたいと言った。私を。
誰を、救いたいのか。どうして、救いたいのか。

「私は“彼”かもしれないけど“今”は違うんですよ……」

待っていれば、きっと彼の仲間たちが魔方陣を壊してくれるだろう。
そうすれば全て解決だ。私は消える。スティーブンが戻ってくる。

「私は、生江を助けたいのだ」

詭弁だ。

「君は己と彼は違うというが、私にはそうは思えない。君は確かにスティーブンで、スティーブンは確かに君だと、私は思うのだ」

語る彼にとってはそうなのかもしれない。でも、私にとって、それは、死刑宣告と同意だ。

「彼の一部である、君を救いたい」

綺麗事、ばっかり言う。
だって、そんな人だ。しょうがない。そんなキャラクターだ。
頑固で、何かを救うことになんの躊躇もしない救世主。それは人であっても、世界であっても同じ。
なんでこんな人なんだろう。どうして眩しいぐらいに実直なんだろう。
どうして手を差し伸べるんだろう。

「私、は、この世界の、人間じゃない、この世界が、ただの嘘っぱちの世界の人なの……っ」

喋り辛いことにようやく気付いて、喉が異様に乾いているのを知った。
泣きすぎたのだ。なのに、視界がぼやけてくる。
壊れた涙腺から、意味のない水が流れ出していく。

「でもっ、私は、私はその世界で、ささ、れてっ」

包丁が腹を突き抜けてコンクリートの地面に刺さる音を聞いた。
多量に失われていく血液に、身体の芯が冷えていくのを感じた。

「ここに、ここにいるって、ことは、私が、スティーブンさんだったら、」

――私は死んだんだ。
刺されて死んだ私の魂が流れ込んで、とある人の中に入っていった。
それが偶然彼で、そうして偶然私はこの世界の事を知っていた。
あの場所に居たかった。悔いがあった。大切な人たちがいた。
それなのに、私は死んでしまって、もうどうあがいても会えなくなってしまったのだ。

私が、この世界でどう生きていたかは分からない。
覚えていないから、忘れているから。
だから私はただ絶望する。この世界に彼が生きている事実を、私が死んでしまった事実を。
受け止めきれずに否定する。そうするしかなかった。
早く、魔方陣を破壊して。こんな夢を終わりにして。
耐えられないんだ。狂ってしまいそうだよ。自分が殺された瞬間を思い出して、それを認めたくなくて、恐怖で慄いて、何もかもを閉ざしてしまいたくなるんだよ。

「――生江が、帰りたいと望むなら、私が元の世界へ帰そう」
「……え?」

涙が止まり、当ても無い思考も止まった。
雫がこぼれ、視界が開けて、その目を思わず彼の元へ送った。
そこには確かに私を一定距離を開けて見つめる彼がいて、確かに異世界だった。
曇りのない瞳が、こちらをずっと見つめていた。

「む、無理に決まってる」
「やってみなければ分からない。人界に方法はないかもしれないが、異界の魔法なら可能性があるかもしれない」
「だっ、て、私は、もう死んでるんですよ!? 葬式だって、終わってるかも、火葬されて……!」
「だが、肉体は確かにここにある」

真剣な目に射抜かれ、それ以上何も言えなくなる。
何もかも、終わっているかもしれないのに、どうしてこの人はここまで言い返すのだろう。
私はきっと死んでいる。それは今私がここにいることがその証明のようであるし、あの刺し傷は致命傷だったとよく分かっているからだ。
私が死んだとしたら、もう何日、いや――何年が経ったのだろうか。
お墓が建って、私がいた痕跡はなくなって。

「大切な人たちがいるのだろう」
「……いる、親が、妹が、います」
「なら、帰るべきではないか」

力強く、そう信じて動かない彼の言葉に、そうだと手を握りしめた。
両親より先に死ぬなんてなんて親不孝なんだろう。可愛い妹の成長を見ないで死ぬなんて馬鹿げてる。
――たとえ、時が経っていても。
私が死んでいて、皆が私を忘れていても。
大切な人たちに会いたい。死んでいても、帰ってきたのだと受け入れてもらいたい。それが出来なくとも、元気にしているのだと知りたい。見たい、顔が、声が、聞きたい。

「――だって、そうしたら、スティーブンさんは、どうするんですか」

でも、彼にとって、それは。
それは、スティーブンという人がいなくなるということではないのか。
私が、帰りたいと言ってしまったら。救ってくれるというのなら、それは片腕を手放すことになる。

翡翠の瞳を持つ彼は、その牙の見える口に少しだけ力を込めて、私を見つめていった。

「それが“君”を救うことになるのなら」

そう言って、彼は瞼を閉じた。

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