- ナノ -

15


――嫌だ、嘘だ――

その日は遅くまで講義が長引いて、帰宅するのが遅くなってしまった。
最寄りの駅まで電車に揺られ、ホームに降りて家までの道のりを歩いていた。

――怖い、怖いっ――

街灯が等間隔に配置された路地は昔から安全だと思っていた。
部活の帰り道、友達と夜遅くまで遊んだ帰り、ずっと通ってきた見慣れた道。

――いや、付いてこないで――

だから後ろから歩いてくる人物もただの近所の人だと思ったのだ。
誰だろう、もしかしたら知り合いなのかと後ろを振り返って戦慄した。
街灯を反射する鉄を確かに見たのだ。

――誰か、誰か……!――

誰もいるわけがない。住宅街で夜遅くに外出する人などいない。
私のような帰宅者以外は人の姿は見えない。
団欒の声が家々から、光がカーテン越しに零れている。
声を上げなければと笑う足を必死で動かしながら考えても、喉は引き攣って声は出ない。

――いや、いや!――

その先は、知っている。
覚えている。
忘れるわけがないじゃないか。

脇腹を切り裂かれるあの感覚を、めった刺しにされるあの絶望を。
笑みに濡れるあの帽子で隠れたあの顔を、最期まで声を上げられずに消えていく意識を。


――助けて、――助けてくれ、――。

一体誰を呼んでいるんだ。
誰も助けて何か、くれてないだろ。


「ッ、はっ、ぁ」

赤い記憶から目覚めた時に映ったのは、ワイン色だった。
頭にこびり付いて離れないあれとは違って、綺麗で、気品のある色にそこが記憶の世界ではないのだと理解できた。
身体が固まって、何をしていたのかが分からない。
バットで殴りつけられているかのような痛みが頭に響き、気持ち悪さに顔を顰めた。

「――」
「っ、ぅ」
「生江」
「だ、れ」

人の声が鼓膜を叩く。
私の名を呼んだその声が、耳の奥で反響して脳内をかき乱す。
何が起こっているのかが分からない。気をしっかりと持たないと、先ほどまでの映像に意識が引き摺りこまれてしまいそうで無意識に頭に手をやった。
ぐしゃりと髪を掴んで、痛みに呻き我武者羅に髪を引っ張る。内部の痛みを外部の痛みで和らげようとした。
だが、その手を何かにとられ、呆気なく手の自由を奪われる。
それに抵抗し、身体を動かそうとするとそもそも体が身じろぎぐらいしかできないことに気づいた。

「なに、これ……」
「すまない。生江が暴れるので、動けないようにさせてもらった」

私が暴れる。どういうことなのだろうか。
ワイン色の視界から、頭を動かす。どうやら首は自由がきくようで声が降ってきた方へ視線を投げる。
そこには紅い髪色をした、眼鏡を掛けた獣のような人間がいた。
彼は――誰なのだろうか。

「……貴方、は」
「生江?」
「なんで、私の、なまえ」

頭が痛い。どうしてこの人は私の名前を知っているのか。
目を細めて、私の名を呼んだ人を見つめた。目をよく使ったときに、じくじくと痛みを発しているのが分かった。まるで腫れているかのようなそれは、両目を痛めつけてきた。

「……また、忘れてしまったのか?」
「また……?」

何を、忘れたというのだろうか。
今、まさに“思い出した”ばかりだというのに。
そうだ――私は、彼を知っている。
漫画のキャラクターにそっくりだ。ああ、そういえば変な夢を見ていた。
その漫画の世界にいつの間にか来てしまって、そうしてそのキャラクターたちに会ったのだ。
みんな生きていて、私も生きていた。戻れないのではないかと、心底心配し、悩んでいた。
馬鹿な夢だった。でも、夢じゃない。
だって、この人は目の前にいるじゃないか。

翡翠色の瞳がこちらをじっと見つめている。鋭い三白眼は、細められていて眼鏡に私が反射している。
黒髪の日本人。妙寺生江だ。

「おもいだしたよクラウスさん」

私は彼に抱きしめられていた。
大きい、暖かい、力強い。彼の背に回っていた片手は彼の服を遠慮なく握っていて、私自身がしがみ付いていたのだとはっきり分かった。
少しずつその腕の力を抜いていって、最後にはまるで死んだかのようにベッドの上に腕が落ちた。

そうだ。
死んだ。

「っ、スティ」
「ちがうよ」

その事は、思い出してなんかいない。
でも、きっとそうなんだろうね。

「わたしのさいごをおもいだしたんだよ」

呂律が回らない。舌足らずの声は聞き取り辛いだろう。
それとも幼児返りだそうか。それならば役目を果たしていない。
現実を忘れさせるのが役目だろう。ならそうしてくれ、そうしてくれれば。
彼にこんな事を言わずに済むのに。

「しんだよ」

地を這うような自分の声に失笑しそうになる。
酷い声だ。顔も、腫れてまるで幽霊みたいだろう。

「死んだ」

だって、そうだ。私は幽霊だ。
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