- ナノ -

9


ギルベルトというらしい包帯が顔を隠している老年の執事の人に入れてもらった紅茶が入ったティーカップを口に付け、傾けて一口含む。
瞬間に口内に広がる優しい匂いが鼻へと流れて、絶妙な暖かさと芳醇な味が感じられた。

「お、美味しいですっ。すごい……」
「それは良かった」

にこにこ。と笑うギルベルトさんは、どこからどう見ても完璧な執事(包帯は巻かれているが)で、とても人が好さそうだった。
それに安心感を得つつ、同じようににこりと笑う。若干愛想笑いが入ってしまっているのは仕方がないだろう。

「それで、あの。私、いつになったら家に帰れるんでしょうか……」
「……それは」

帰れる保証は、今のところない。
それを分かっているのか、それとも別の理由が口をまごつかせるのか、強面の眼鏡を掛けた紳士はティーカップを手にしながら、顔から冷や汗を流していた。

話を聞いて、否応なく理解してしまった。どうやら私は異世界に来てしまった――つまり、漫画の世界に入ってしまったようだった。
漫画の名前は血界戦線。好きでよく読んでいた漫画だった。
中でもクラウスさんの坊ちゃんぶりというか、ある意味で漫画の中での一番の萌えキャラぶりに心奪われていたわけなのだが……。
そんな本人を目の前でみつつ、眼福とは思えどずっとここに居たいとは思わない。
何が理由でこの世界へやってきてしまったのかは分からない。でも、早く帰りたい。
帰れるか分からない。その恐怖や不安はあるけれど、それで動揺していても仕方がないと諦めた。本当は取り乱して、ここはどこなんですか、どうして私はここにいるんですかと騒ぎ立てたいが、そんなことをしていい年齢ではないのは流石に分かっている。これでも私は大学生だ。

それでも、暖かな紅茶に心が休まったのは事実だ。ギルベルトさん、漫画で見るより、よりザ執事って感じだなぁ。

少し距離を置いてヤクザ座りでこちらを訝しげな目つきで見ているのはザップで、なかなかに物騒だ。もしかしたら首根っこを掴まれて放り出されてしまうかもしれない。そんな怖さを感じつつ、チラリと視線だけを送ってみる。

「それで、アンタの名前は本当に妙寺生江ってんだな」
「は、はい。そうです。日本人で住所は……」
「でも今アンタが使ってんのは英語じゃねぇか」

そう、これが謎だったりする。日本語で話しているつもりなのだが、英語で喋っているようなのだ。
完全に無意識で、寧ろ日本語を話そうとすると意識しなければならない。私は英語が苦手な部類だったはずなのに、どうしてだろうと首を傾げるばかりだ。
やはり、異世界旅行特典なのだろうか。しかしそれを言っても通じるわけがないし、私はただただ首を捻るしかない。

「だから、さっきから分からないって言ってるじゃないですか」
「じゃあぁぁどー説明すんだよ。スティーブンの旦那が」
「手が滑った」
「ぎゃああああ!」

私の隣に座っていたレオナルド君がザップさんに私の言い分を言い返してくれたが、納得できないザップさんが何かを言おうとしたところで、突然ザップさんの上空に現れたチェインさんがザップさんを踏み潰す。
手が滑ったでどうにかなる程度を超えているような気がする。それはザップさんもそうだったようで、怒声を上げた。
しかし、彼の目が私から逸れたのは有難い。ふぅ、と息を吐いてティーカップのきらりと光る紅茶の水面を眺める。
帰れる見込みは、今のところない。
まだ、ちゃんと異世界から来たというのをクラウスさんたちに告げていないのだ。それを言ったら最後、頭が可笑しいと思われるかもしれない。どうやらクラウスさんたちは今のところ私を路地へ放り出すような雰囲気ではないが、異世界から来たなどと言って異変云々ではなくただ頭が可笑しい人なのだと認定されてしまえば警察などに連れていかれてしまうかもしれない。
もし、心配性で紳士のクラウスさんがライブラでどうにかしようとしてくれても、副官であるスティーブンさんがそうはさせないだろう。彼はしっかりとしているから。

そういえば、スティーブンさんを見かけない。それを言ったらK.Kさんやツェッドさんも見かけないが、K.Kさんはライブラに入り浸っている印象はないし、ツェッドさんもまだ登場していないと考えれば辻褄が合う。
だが、クラウスさんの隣のイメージが強い彼がいないのは何故なのだろうか。情報収集中とか、別の任務があるとかだろうか。彼は裏で工作をしている印象もあるから、想像はいくらでもできる。

「ミス生江は、その、自分の家に帰りたいのだろうか」

考えていると、クラウスさんから話しかけられる。
色々なアニメで聞く低音ボイスはやはりカッコよくて思わず口角が上がりそうになるが、気分的にそうはならない。どうやら転がっていたスマホから発せられていた声はクラウスさんの声だったようで、そういえば“スティーブン”と叫んでいなかったかと思い至って、もしかしてスティーブンさんは危ない何かに巻き込まれているのではと邪推してしまう。
いや、でも私相手にこうして会話をしているのだから違うのだろう。もしかしたらスティーブンさんがスマホをライブラに忘れていただけかもしれない。
固い口調で問われた事柄に顔を上げた。

「勿論です! 大学だってありますし、やってない課題もあるしレポートだって……それに何日も大学を休むことになれば友達も心配しますし、両親に電話が行ったらなんて考えたら……警察沙汰なんて考えただけで嫌です」
「む……うむ」

困ったように頷いたクラウスさんにこちらも言っておいて困ってしまう。
だって、戻れる保証はないのだ。クラウスさんにとってみれば私は勝手に迷子になって勝手にライブラに侵入していた一般人でしかないだろう。
やはり、言うべきだろうか。でも、何時言えば。
困惑していると、頭に靴跡を作ったザップさんが急に顔を近づけてきて、驚いて身を引いた。

「おい、アンタ、さっきから大学やら両親やら言ってるが、それ本当の事か?」
「え? ほ、本当ですよ?」
「だぁから、それが本当にアンタの身の回りの事かって聞いてんだよ」

踏まれた腹いせも加わっているのか、不機嫌な表情のザップさんに詰め寄られ、更に困惑する。
本当の事、と言われても、何を言っているのか全く判断がつかない。
本当の事に決まっている。私は○○大学に通っていて、両親がいて、友達がいるのだ。嘘をつく必要もない。

「それが全部、アンタの妄想じゃねぇかって聞いてんだ」
「ッ」
「ザップさん!」

「違うに決まってるじゃないですか!!」

思わず出た叫び声に、自分で驚く。
制止の声を上げたレオ君も、妄想ではないかと問いただしてきたザップさんも、クラウスさんもチェインさんもギルベルトさんも何も言わず、室内が一気に静かになった。
それに慌てて手を振って誤魔化す。

「すっ、すいません! でもあの、妄想とかじゃないです。それに、こんな普通の周囲の事妄想しても意味ないじゃないですか、それに妄想するとしたら彼氏いないんで彼氏のことぐらいしか、なーんて……」

あはは、と笑いながら冗談を飛ばしてみるが、無反応。
更に焦って、思わず本音が顔を出す。

「それに、両親の事とか、友達の事とか、そんな大事なこと妄想なんてしませんよ……友達とは仲良かったですし、両親とも良好で、あ。妹がいるんです、その、可愛くて、私より三つ下なんですけど、今丁度反抗期で、つんけんしてるけど私の帰りが遅くなったりしたら心配してメールくれたり……大事な家族ですから、嘘なんかじゃありません」

大事なものまで否定されたくない。あの家族の笑顔は本物だし、友達と喋ったことだって本当だ。
妄想だなんていわれたくない。私にとっては――言ってはなんだがこの世界の方が“偽物”なのだ。
思っていても、口になんて出さないけど。

茫然とこちらを見つめるザップさんから目を逸らして、再び紅茶の表面を見つめる。
ゆらゆらと揺れているそれに、感じる温度に、感触に、ここにいるのだと実感する。早く、帰りたい。

「……ミス生江。ザップが失礼をした」
「い、いえ。大丈夫です。私こそ、取り乱してすいませんでした」

苦笑いを浮かべてクラウスさんに返事をする。
じっとクラウスさんがこちらを見つめていて、思わず心臓が高鳴る。それはときめきとかではなく、内面を見透かされているような気がしたからだ。

「貴方の記憶が嘘ではないことは分かりました。では、何か“忘れていること”はありませんか」
「忘れていること?」

忘れていること。
そういわれても、抽象的すぎて何のことかわからない。
小さい頃の記憶だったら自然に忘れているし、忘れていることを忘れているかもしれない。
ならばどうしようもないじゃないか。それでも忘れていることを思いだせというのなら。

「あ」

そういえば、ここに来る前後の事をどう思いだそうとしてもできなかったな。
思い付いた瞬間、扉が盛大な音を立てて開いた。

「スカーフェイスが女の子になったって本当!?」

顔面を笑みで崩壊させながら、黒のライダースーツを着た長身の女性が登場した。
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