- ナノ -

6


結局半日探しても魔方陣を探し出すことは出来なかった。
地下にあるということは既に判明しており、そこから電車のどこかに魔方陣が存在しているとまで分かっているものの、ヘルサレムズ・ロットにある電車が膨大。しかもその電車のどこに魔方陣が刻まれているのかなど分かったものではない。
既に日も沈み堕落王に弄ばれ、疲労したライブラ組員に電話越しに探索中止を宣言する。
いいんですか?と確認の声が飛んでくるが、こちらで連絡を取った魔方陣専門のライブラ組員がヘルサレムズ・ロットの外に居り、やってくるのが早くて明日の七時。
自分たちでどうにもならないというのにあくせく働くのが馬鹿らしいし、もし魔方陣を見つけた時に疲労していて破壊しそびれたなどとなったら目も当てられない。
そんな内容を説明し、電話を切る。

「まったく、どうしたらいいのよ」

口調は女性のもの。体の仕草までも女性らしくなってしまっていた。
あれから何度かヒントと共に進行が行われたが、今のところ大きな変化はそれぐらいだ。
細かな変化を言えば、きりがない。体力も減ったし、頭の回転も遅くなったような気がする。
酷い有様だ。これで明日まで使い物になればいいのだが。

「嫌な記憶ばかり思い出すし」

そうして表には出ずとも顕著なのが記憶だ。
記憶が思い出されていく――いや、この場合は作り変えられていっていると言った方がいいのか。
自分の本当の姿に成る為には、本当の姿の記憶が必要――そういうことなのだろう。
それでも俺の場合は、だんだんと思いだされていくようにしか感じられない。
見た目が前世に変化したことが切欠で思い出されていただけではないようだ。

気分が悪い。忘れていたことが鮮明に、色鮮やかに思い出される。
まるでついさっきまで“私が生きていた”かのように感じられるほどだ。
“本当は私は生きていて”ちょっとした事故でこちらの世界へ来てしまっただけのようにさえ想像できてしまいそうだ。スティーブンという人間は他にこの世界に存在していて、俺のこの立ち位置は仮のもので、俺はスティーブンなどという人間ではないのではないか――アイデンティティが崩壊されかねない妄想が頭を過ぎる。

自分が立っているこの場所が、頭の中に存在する記憶だけが俺をスティーブンだと決定づけている。
なんて曖昧な足場なのだろうか。自分だけで地面を踏みしめていると、それさえも透明なガラスのように思えてきてしまう。
腕を擦る。細い腕だ、もう日も落ちて気温も下がった。女性の服はどうにも薄い。ファッション性を重視したこの服装は保温効果は低い様で、寒さが薄い皮を通って中に浸透した。

早く、皆帰ってこないだろうか。らしくないとは思いつつ、漠然とした不安を感じる。
嫌な予感は、きっと不安だったのかもしれない。
どうしようもなく脆い心中は、やはり女性になったせいだろうか。アイデンティティが壊されていっているからだろうか。それとも、魔方陣が見つからず、元に戻る結末がなかなか見えないせいか。

目を強く瞑って、それから目の前の光景を視界に焼き付ける。
そこはいつも通りのライブラの室内だ。霧の向こうから差し込む陽を入れ込む大きな窓があって、ライブラの皆が座って団欒するソファが設置されてあって、ギルベルトさんが入れてくれる紅茶が置かれる机があって、青々と葉を広げる観葉植物があり、クラウスが座る事務机がある。

早く、早く来てくれ。
じわり、と胸の中に一滴墨が広がるように何かが広がっていく。
透明な水にそれがポタリポタリと落ち、じわじわと、しかし急速に色を濃くしていく。
いいや、違う、既に魚が住んでいた水槽に、墨が足されていく。
魚が焦って逃げ惑う。だが逃げる場所などない。その水槽だけが魚が住める場所なのだ。
魚が必死で鰓呼吸をする。墨は毒性があり、魚の息を苦しめる。生命活動たる呼吸を止めることなどできない魚は、それが身を侵食するものだと知りつつ息を吸う。
透明な水を求めて彷徨う。どこにもそんなものはない。だって魚に取って水槽が世界なのだ。
ライブラという水槽の中で、息を吸っていた。透明で生きやすく、心地の良い空間だった。餌はクラウスで、それの為だけに生きていて、生きられていた。
息が詰まる。水槽が黒く染まる。真っ黒だ。ライブラという水槽が汚れていく。汚れていく。その中で生きられる魚などいない。いるとしたら、それは、もうその魚ではない。
透明な水が侵食されていく、培ってきた、生きるための世界が変わっていく。
いつかのどこか、忘れ去られていたそれに。


――さぁ、次の進行の時間だよォ!!


音が響く、ぐるぐると脳髄がかき回される。


『スティーブン?』
「くら、うす」

手にはスマホが握られていた。
いつの間にか掛かってきた電話をとっていたらしい。
耳に、聞きなれた彼の声が流れてくる。

水槽の外を見る。彼が餌をまいてくれている。彼がいるだけで俺は生きている意味がある。
彼がいる限り俺は生き続けなきゃいけない。彼がライブラを組織し、俺の支えを求める限り。
でも、その為の想いが、思い出が、侵食されていくんだ。

「くらうす、いや」
『どうした、スティーブン』
「いや、いやだぁ……!」

かけがえの無いものが消えていく、潰されていく、踏み潰されていく。
俺が俺であるという証拠が消えていく。
水槽が、毒に満たされてく。

「クラウス、助け、て」






“スティーブン”と焦燥し、誰かの名前を呼ぶ声がスマホから流れてくる。
低い声で、何処かのアニメで聞いたことがあるような声色だ。
とてもいい声だが、切羽詰っていて、どこか怖いと感じた。
prev next

list page select
(list)
text(26/7) chapter(16/4)