- ナノ -


03.悔いのない人生は

第一の条件は、張遼と出会わないことだった。
彼は執拗に貂蝉を狙っていた。貂蝉が死を受け入れる理由は分かったが、彼が貂蝉をしつこく狙う理由が分からなかった。
呂布の軍を私欲に利用したことが理由だろうか。
だがそんなことで怒り狂う男だっただろうか。

張遼は至高の武を求めていた。誠実な男で、常に右腕としてその力を存分に振るってくれた。
私の力を目標――というか、憧れとしていたらしく、時折稽古をつけてほしいと強請られたことを覚えている。
貂蝉とは――どうだったか。私が居る前では二人はろくに会話をしないし、私が居ない場所でどんな会話をしているかなど知るわけが無い。なので彼が貂蝉のことを常々どう思っていたかは知らないが。

『貂蝉殿』――あんなふうに、黒々しく煮え切らないどろどろとした殺気を発する人間だっただろうか。

第一の条件は無事クリアされた。
朝一に起床し、日も十分に昇らぬうちから森を下山した。
動物の鳴き声や風の音が聞こえるだけで、馬が駆ける音も、肌身で感じられる殺気も当てられることはなかった。

第二の条件としていた村の発見。第三の条件としていた保護するための家も、なんとも順調に見つけることが出来た。
森を下山している最中に、村を高所から見ることが出来たのだ。
そこまで降りてゆき、次は家を見つける作業だった。
しかし、貂蝉は見てのとおり美人だ。それに加え気品や上品さも備わっている。
それに加え、私という存在だ。見た目はただの軟弱な少女だが、鉄を折り曲げて見せれば気迫もつくというものだ。

そんな要因から村にいた住民達に彼女は有名な貴族の姫だったが、この乱世に巻き込まれ家を失い放浪しているのだ。と言い聞かせた。純粋な彼らは信じてくた上に同情し、住人達と同じように働くことで村に居座ることを許可してくれた。

村を治める――正確には土地を治める地主への報告はしないでもらった。知られたら一環の終わり。張遼へも話が届く頃だろう。

彼女はまったく笑わなかった。
ただ、陰鬱そうに俯いて私とも目をあわせようとしなかった。
村人達はそんな彼女の様子を哀れみの目で見つめた。おおよそ故郷を失った悲しみにくれているのだと予想したのだろう。
だが、一週間、一ヶ月と経つと、彼女は私にだけは、うっすらとした笑みを見せてくれるようになった。

それは例えば、私が現地の酒を飲んで不味いなぁ。と零したときであったり、夜の月を見ながら涙にくれている貂蝉を見つけて、笑ってくださいと請うた時だった。
だが、そのどちらも心からの笑みではなく、どこか自嘲じみた、悲しみに囚われた笑みだった。

――なぜ私が彼女を守るのか。
一度もそういう関係の言葉が、彼女の口から発せられたことはない。
寧ろ、周囲の人々がそれを聞きたがっても(確かに、家臣や女中だとしてもこんな少女では可笑しな話だ)彼女が嫌がる様でもあった。
何かに恐怖しているような。

でも私には関係が無い。
そう、関係が無いのだ。
私はただ彼女の生命の危機に、彼女が奉先を呼んだから、助けてくれと願ったから夢か現かも分からずになぜだかやってきただけであって、そんな彼女の心理的な浮き沈みをいつまでも考えていられない。

「帰らなければなりません」
「帰る……どこへです? もしや、地獄ですか、天国ですか」
「なぜそのような世迷言をおっしゃるのです。私はただ元居た場所へ帰るだけです」
「なら……どこへ帰るのですか?」
「二十一世紀の日本という場所です」
「にほん、聞いたことがありません」
「ええ。実は入り組んだ事情がありまして、帰り方が分からないのです」
「なら、ここにいればいいんです」
「いいえ、それはなりません。私は帰らなければなりません」

そう問答をしていると彼女は泣いた。
そうして泣きながらうわ言のように呟いた。

「やはり、私をおいていくのですね、奉先様」

吃驚して、吃驚しすぎて言葉が出なかった。
涙を拭おうと伸ばした手は途中で止まり、ぐっと自分の元へ帰ってきた。
彼女がしくしく泣いている。
悲哀を誘うようではなく、ただ己の情けなさや不甲斐なさに涙を流しているようだった。
それは他人から見れば呆れる光景なのだろうが、私にとってはただ心痛のする光景だった。

私はようやく彼女のここまでの行動の意図が読み取れた。
だからこういうことだったのだ。彼女が薄く笑ってくれるのは私――奉先への慎ましい謝罪であり、私の情報を聞かないのはそれを聞いて私が逃げ出すことを恐れていた。

私が声も出せずに固まって、ようやく動けるようになっても彼女はしくしく泣いていた。

「なぜ私が呂布などと言うのです」
「明らかではないですか、その力に、その瞳。そして私に必要以上に優しくしてくれた。貴女を奉先様だと思わない理由はありませんわ」

確かに、彼女と行動していたときの私は可笑しかった。現代の平和な日本に生まれた中学生が行うには、酷く冷静すぎる反応だ。
だが、姿かたちも変わって、性別まで変わっているのにどうして気づくものか。

今からどう反論しても無理だろう。私が息を飲んでしまった時点で――いいや、それより前に彼女は私がそれだと確信していた。

「奉先様、奉先様! 私が悪かったのです。貴方を裏切ったばっかりに、利用したばっかりに! でも、本当に愛していたんです。最初は確かに計略のためでした。しかし貴方の力ではなく、この乱世にあっても優しい心に惹かれたのです! しかし私は最後の最後に貴方を信じられなかった。ならばせめて貴方の死に際などみたくないと、思って、私は」
「貂蝉」
「ええ、憎まれて当然です。蔑まれても、殺されても文句など言えないのです! でも、変わらずに接してくれる貴女の姿が嬉しくて、笑ってくれと言ってくれるその言葉が苦しくて、申し訳なくて、それが、奉先様への僅かながらの詫言とできるのならば」
「黙れといっている。貂蝉」

感情に任せて吐き出されていた言が、ビクリと言う身体の震えとともに止まる。
そんなこと、聞きたくなかった。
貂蝉は負け戦から一人逃げ仰せ、その先でまた誰か男を騙していると考えれば、まだ溜飲も出来ただろうに。

そんな不幸な面持ちをしていたら、死んだのが悔やまれるだろうに。

未だ流れる涙に、その気持ちの強さを見る。
俯いて頭をたれるようにする彼女は死刑宣告を受ける罪人のようだった。

「……悔いておらぬぞ」
「奉先、さま?」
「俺は悔いておらぬ。お前を信じ、董卓を討ったことも、堕ちて流浪の軍となっても、曹操軍に破れ、お前が逃げ、全てが計略の手のひらの中だったと知っても。俺は呂布が死んだことを、悔いてはおらん。いくらお前が罪悪感に駆られ、泣きはらそうと、行くなと言おうともだ」

腫れぼったくなった瞼に口付けをする。
驚いたように見開かれる痛々しい目元に続けた。

「ならば、呂布という男がお前を愛したことを悔やむこともないのだ」

今までに抱えてきた、全ての感情を入り混ぜ込んだ表情で彼女は泣き崩れた。
抱きつかれ、奉先様奉様と縋りつかれた。
肩をぬらす彼女の涙に、悔やまないといったばかりなのに、死んだのが悔やまれた。


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