- ナノ -


01.華奢な腕を放せない

普通の人生のはずだった。
可笑しな記憶を持っていて、人間とは思えぬ怪力や運動神経を持っていたとしても、平凡を愛するが故に普通を追い求め、そして自他共に平凡の安泰へ身を寄せていたはずだった。
そのはずだったのに。なんだこの状況は。

助けて、と女性の声がした。
あまりにも哀れで、私は夢の中で胸の痛みに耐えねばならなかった。
助けて、と泣く声がした。
あまりにも悲しくて、私は夢か現かまどろみながら首を傾げなければならなかった。
助けて、奉先様。と彼女が泣くので。
私は、どうしようもなく愛しくなって、助けぬわけには行かぬと思ってしまった。

「貂蝉!」

口から出た怒声は今までの人生の中で発したこともないほどに大きなもので、口から発した瞬間に目を瞠った。
そして、なぜこの名前がすらりと出てきたのか、頭の中には困惑しか沸かなかった。
だが、そう発する前から身体は動いており、私の腕は理性に反して人を殴る体制に入っていた。

「いぃ!?」
「うわぁ!?」

引きつった声が喉から漏れたが、眼前の――いや、私の拳の前の男は驚愕の悲鳴をあげていた。
私は他人より力が強い。それは行動するスピードなども速めるために、車と同じ原理で直ぐに止まることなど出来ない。

ありえぬほどに顔面にのめり込む自分の拳に、思わず顔を歪めた。
拳から感じる骨の折れる感覚に、素直に怖いと感じた。

顔面に拳を食らった男がそのまま悲鳴もあらずにその場に崩れ落ちた。

「……」

恐怖に身を捩じらせながら、そのまま後退する。
手にはまだ感覚が付きまとい、冷静な思考が働かない。

だが、後ろから迫る脅威に身体のほうが先に反応していた。

悪寒や風を切る音が身体に伝わる。
このままでは死ぬ――と直感的に感じ取り、しかしその迫りくる死の速さに回避できないことをまた直感で知る。
そのほかに頼るものがないためにそれを信ずるしかないが――いや、もう一つ、要らぬと思っていた絶対に自信があった。

鈍い音がする。手の側面が猛烈に痛い。

目線が交わった。
死を振りかざしていた犯罪者は、甲冑を着けていた。中国風の、物々しいものだ。
鋭い目線をしている。まるで獣が獲物を狩るように――それ以上の殺気を凝らして、こちらを見ていた。
手には二つの武器がそれぞれ握られており、その片方が私へ迫り着ていたらしい。
邪魔だと言わんばかりに猛烈な勢いで振り下ろされたらしいそれはしかし、私の手によって防がれていた。

とりあえず、言わせて貰おう。お前誰だという前に、私は本当に人間なのか?

「あ、危ないじゃないですか……」
「貴様、貂蝉殿の護衛か。常人の動きではござらんな」

なんて危機感のない話し始めなのだろう、と思いながら彼を見た。
私は、彼を知っていた。あかの他人ではなかった。
前世のような記憶の中で、彼をよく見かけていた。
私の側近だった彼は、私の我侭によく振り回されていた。
貂蝉の言をそのまま鵜呑みにする私を気遣い、時には助言もし、そしてその類まれなる武を振るった。
そうして最後、曹操軍に破れ皆殺しにしようとする曹操に命乞いをし、それを純然たる志で侮蔑した、かつての同士。

そんな彼と、どうして私は刃を交え(といってもこちらは素手だが)ているのだろうか。

“貂蝉殿”という言葉が身に刺さる。
それは愛しさと、そして目の前の男の濃すぎる殺気からだった。
前世の友は事実彼女だけだった。彼女はきっと友などとは思っていなかっただろう。
はじめはただ男女の間柄としてみていたのかもしれない、でも本当はただの道具として私を見ていた。
どうでもいい。私は彼女に助けられた。だから、たとえ計略で私へ近づいたとしても、意図して私の中に入り込み、力を行使する道へと導いたとしても、私は彼女を愛している。

だから、来た。だから来てしまった。
だというのに、なぜ男――張遼はこんなにも殺気立っている?

「ま、待ってください! この子は私を助けてくれただけです」
「なら早く引き渡すのだ。五秒待とう」

はた。と、貂蝉の言葉を聴いて気づいた。
この子は、抵抗する気はないらしい。
最後の最後まで彼女が計略で私とともにいると気づかなかった私だが、それでも彼女の心境は少しだけでもつかめていたはずだ。
だから、裏切りが表に出る直前に彼女がいたく悲しんでいたことや、罪悪感に囚われていたことを知っている。

だから、この子はこのまま張遼に連れて行かれる気らしかった。
そして、張遼は貂蝉を、その感情の激で殺そうとしているらしかった。

そこまで考えるのに一秒。横で彼女が立ち上がるのが同時。
あと四秒。

彼女の、華奢な手をつかむ。記憶と同じとおり、すべやかな、たおやかな手だった。
それに、ぶわっと嬉しさと悲しさがこみ上げてきて、奥歯を強くかみ締めた。
理由は分からない。なぜ張遼が貂蝉を殺したがり、貂蝉がそれを許容しているのか。
だが、今、私は、彼女を殺したくなかった。

どんなに平凡を愛していても、普通を欲していても、それには適わない。この状況で天平にかける時点で可笑しいのだが。

脱臼しない程度に、どうにか調整して腕を引っ張る。
小さな悲鳴と、驚愕の声が耳に入ったが、知らぬ存ぜぬで林の中を走った。
幸運に、この場は森の中で、なかなかに身を隠しやすい。四秒で、私達は森へ消えた。


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