- ナノ -
▼02

背後から迫る俺と同じ顔の奴から、全力で逃げていた。
まさにあれは都市伝説で古くから語られるドッペルゲンガーだ。間違いない。
それに何故自分が出会ってしまったのかは不吉でならないが、あのままずっと目を合わせてはいられない。
だって、ドッペルゲンガーって出会ったら死んじまうんだぞ!? 俺はまだ可愛い可愛い娘がいるんだ! アイツが孫を連れてくるまでは死ねん!
都市伝説なんて笑う種の一つかと常々思っていたが、こうして本当に出会ってしまうとそんな認識ひっくりがえるものだ。身を苛む恐怖に慄きながら、ひた走る。

今日は仕事でヘマをしてしまってスポンサーに『もうワイルドタイガーの時代は終わりだな』なんて心無いひでぇお言葉を貰ったために、独りで飲みにでも行こうかと思いバーまでの道を歩いていたのだ。いつものように。
そうしたら少し強い風が吹いた。別段強風というわけでもなかったが、それに前方を歩く男の帽子が飛ばされたんだ。
濃い赤色の洒落た帽子で、シックな感じのやつだった。
丁度俺の目の前に落ちたから、その男に渡そうと拾って前を見たのだ。

「これアンタのか?」

一瞬、何を目撃したか分からず、顔に笑みを浮かべたまま固まった。
こちらを見て同じく固まっている男は、帽子どおりセンスの良い――というか、同年代の俺から見ても似合っていると思う格好をしていた。
髪の毛はオールバックにして固めており、身にまとうコートは高級そうな紳士が着るようなもの。コートの隙間から見えるズボンは黒で、履いている皮靴はハットの帽子と同じ深い赤。
立ち姿も背筋が伸びていて、こういうのが一般に憧れられる中年なんだろうなぁと思ったことは思った。
だがそれも片隅の出来事で、俺の脳内はただ男の一点を見つめていた。

同じ顔だ。
眉毛も目元も鼻も口も顔の輪郭も、髭までも全て。
髪型と服装が違うだけで、体つきも身長も、眼前にある目を見張った表情もまるきりそっくりそのまま。
頭を掠めたのは、ニュースや雑誌で時折、夏辺りに人々に恐怖を抱かせるネタとして振舞われる『ドッペルゲンガー』という、自分と瓜二つの化け物の話だった。

目玉が飛び出るんじゃないかと怯えるぐらいに自分の瞼が開かれるのが分かった。
何か言わなければ――と思うのと同時に、行動したら何かされるのでは、という不安が猛烈に襲い掛かってきて何も紡げずに口が開きっぱなしになる。
後退したい気持ちが膨らんで、張り裂ける寸前の風船のような心理状態に追い詰められてしまった。

と、目の前の同一の顔をした男が、一歩こちらを直視しつつ踏み出した。

それが限界だった。
許容距離を越えた、ということなのだろう。パンパンに膨れ上がっていた不安はぶちまけられて、男から全力で逃げ出した。
男を視界から外したときから走り出した直後までの記憶は無い。だが恐怖から逃げ出したと言うことはよく分かって、情けなさを感じると共に逃げてしまったのだからどうにかしても逃げ出さなければ! と足を動かした。

だがその後、随分と距離を離したと後ろを振り返り、男がこちらにかなりの速度で走っている姿を目に納め次なる恐怖を味わったのだった。
走り始めてから何分ぐらいたったのだろうか。きっと時間など全然経っていないだろうが、それでもこの逃走が一日中続くのではないかという有りもしない恐怖が自分の中にちらついていた。
俺はヒーローと言う職業についていることもあって、体力はある方だ。ジムがあることにはあるが、よくサボっているため自信があるわけではないが、同じ年齢層から考えれば運動神経も悪くない。

後ろを首を回して横目で確かめる――そこには、先ほどと比べ距離を縮めた俺の顔を持った男がいた。
ひぃいいいい! なんで近くなってんだよぉおおおおお!! 泣きべそをかきながらただただ走る。
前方を歩く人々にぶつかりそうになりながらも、どうにか避けつつ訝しげな目で見てくるそいつらを無視して必死に足を動かす。
この街路は商店街のように店が連なった車が一方通行できるぐらいの路地で、昼夜問わず人々が買い物や遊びに訪れる場所だ。
路地を進んだ左右には大通りが存在しており、そこからバスに乗ったりビルが建ったりしているのだ。
その大通りまでを目指して走る。そこまでたどり着ければ、きっとどうにかなる。
そう、そうだ、たとえばタクシーを拾ったりなんだりして完全に振り切ることが出来るはずだ。
それまでに追いつかれるのではないかという不安を抱えながら、懸命に走る。もう後ろを振り向いたりなんかしない。

だがそう強く思うと反対の行動をしたくなるのが人間と言うもので、ふと横目で後ろを見た。見てしまった。
そこには、直そば――もう手を伸ばせば届くぐらい間近にいた同じ顔と、俺を捕まえようと伸ばされた手だった。

ひっ。と悲鳴が出かけて、血の気が引く。
俺の肩に触れかけていた手は浅黒く、やはり俺と同じだった。
本当に泣きそうだ。男と目が合う、男は驚いたように険しい顔をしているが、こちらはそれどころではなかった。

と――そこに、車のクラクションが耳に突き刺さる。
けたたましい警報音を出してこちらを威嚇する音の本体は、思わず音に気をとられて向けた視線のすぐ傍にあり、ぽかんとした。
後ろにはドッペルゲンガー、前には向かってくる車。そこから導き出される結論は、絶体絶命。
ああ、やっぱりドッペルゲンガーに合うと死ぬ。という都市伝説は本当だったんだ――そんなことを思いながら瞬きした瞬間に、視界がブラックアウトした。
ぽとりと、帽子が地面に落ちた。


「いっ…たくない?」

不思議な感覚に包まれて閉じた瞼を開けた先で見たのは、暗闇だった。
耳からは街路や大通り独特の喧騒が聞こえてくる。ただ少し違うのは、周りが少々騒がしすぎたところか。

「なにやってんだ! 死にてぇのか!」
「すいません、私の兄が……きつく言っておきますので」

野太い男の怒声と、慎ましげで丁重などこかで聞いたことのあるような声が次ぎに耳に入ってきた。
怒声を上げた主は、大人な対応を見せる男に勢いを削がれたのかその後は怒鳴りはせずに、嫌味を言ってそのまま車を発車させる音と共に消え去っていった。
そしてそのときにようやく目の前の暗闇が、コートの黒だと理解した。

「ド――」
「ストップだ。俺はドッペルゲンガーではない」
「へ?」

目の前にいた男は俺の言葉を途中で遮り、ドッペルゲンガー説を真っ向から否定した。
想定していなかった事態と言葉に、ポカンと口が開く。
だが男は確かに自分の顔にしか見えない。鏡を見ているような気持ち悪いとも言える感覚に陥り、眉をひそめた。

「勘違いしないでほしい。俺は貴方に危害を加えようとはしていない。
 それと同じ顔だと言うことで気分を害し、視界に入れたくない又は早く俺から離れたいと言うのなら構わない。
 だが、その前にその帽子を返してほしい」

俺の想定していた恐怖の内容まで看破されたようで、気持ち悪さより驚きの方が勝った。
男がまるで自分のことのように俺の考えを語っていたのなら気持ち悪さにNEXTでも使って逃げ出していたかもしれないが、彼の言論は確かに第三者的で、気味の悪さがなかったために安堵と共にそこまで考えられることに驚いたのだった。
堅苦しいともいえる言葉に、無表情とも言える顔。同じ顔なのにまったく違う人物を見ているようで、徐々に冷静になってきた。
そうして、男の言葉でようやく気が付いた。右手に握られている帽子だ。
強く握り締めすぎて型が壊れてしまっているそれは、確かに目の前の男のものだったはずだ。
事情がなんとなく飲み込め、急に申し訳なさがこみ上げた。

「あ、ああ。これか、すまん。思わず逃げだしちまった」
「いや、平気だ。誰でも同じ顔をみたら驚いて距離を取ろうとする。
 俺も説明をすればよかった。すまない。
 それから、帽子を拾ってくれてありがとう。例を言う」

謝罪と感謝を同時に言われて少々混乱する。
どう考えても悪いのは早とちりしたこちらだ。だというのにこの真摯な態度。驚きよりもその礼儀正しさに同じ顔だと言うのに戸惑ってしまう。いや、だからこそか。
帽子を男に差し出す。形を整えて返したかったが今左手は開いていなかった。
受け取った男も片手しか開いていないようで、受け取っただけでどうしようか思案している(無表情だが)ような顔をした。

って、ん?
俺、今どんな格好してるんだ?

格好は、服装のことではない。
確か、自分は車に轢かれそうになっていたはずだ。車の眩しいライトやクラクションの音がまだ頭に残っている。
はっとして辺りを見回すとようやく自分の体制に気付いた。

「う、うわっすまねぇ!」
「…ああ。平気だ」

俺が飛び離れると直相手も体制を整える。
は、恥ずかしい! ついさっきまで俺は抱きかかえられていたらしい。
突然の事態の連続で頭が混乱する。だがそんな俺を尻目に、抱きかかえていた方は自分の手に戻ってきた帽子の崩れた型を直して被りなおしていた。その冷静すぎるといってもいい行動を目撃して、こちらも冷静さを取り戻す。
と、とりあえず、アイツは俺とどこまでも似ている他人でいいのだろうか。
俺は双子ではなかったし、兄弟と言えば兄の一人だけだ。だってら――やはり他人の空似ということになるのだろうか。
にしては似すぎている。
地面に落ちていた自分の帽子を広い、汚れを叩いて被る。

「あ、あー。俺は鏑木・T・虎鉄っつうんだ」
「……自己紹介か?」
「それ以外に何があんだよ。アンタの名前は?」

きょとん。という表現が、ぴったりではないが当てはまる相手は口を噤んで黙り込む。
その様子に違和感を感じる。先ほどまでの対応から物ははっきりいうタイプだと思ったのだが、急に言葉を失ったかのように静かになった。
もしかすると、名前をいいたくないのか? なにかやましい事でもあるのか?
一応同じ顔だとしても命の恩人であるし、面倒をかけたことは明白だ。だから名前でも聞いてなにか礼でもしようと思ったのだが。
困り頭をかけば、丁度目深に被った帽子の中から瞳が見えた。視線が交差し、その虹彩の色が帽子に隠れつつもよく見えた。
赤色――瞳の奥から光りを発するような男に似合った色合いだった。赤色の目なんて珍しいもんだ。

「私の名前は――プラン」
「ぷらん? 変な名前だなぁ」

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