- ナノ -


 それから一週間が過ぎた。
 濃密過ぎる時間だった。精神病院とか、初めて行った。
 行動を開始した始めの日。私は考えもなしに、とりあえず病院へ行こう。と行動を開始した。
 だがしかし、治療を受けるのが、正体不明、本名不詳の外国人という特殊な状況。どう切り抜けようと頭を捻りに捻った。
 出てきた策は、電車で遠くの、しかも田舎で小さい精神病院へ行って、そこで診察を受けるというものだった。

 診察は――かなり困難だった。
 このとき始めて知ったのだが、彼は私以外とは口を利こうとしなかった。
 なんて面倒な! と驚愕したが、病院が一番の特効薬と学んでいた私はめげずに、彼の隣に座って長い診察を受けた。
 医者のおばあちゃんが鳥さんに質問して、答えずに、私が同じ質問をして、首を振ったり小さく返事をしたりする。二度手間を何度も繰り返した。さすがに効率が悪いと分かっていただろうに、それは診察が終わるまで永遠と続いた。

 それから、一番問題だった健康保険証は、ちょっと忘れてしまって、次は必ず持ってきます! と健全な若い大学生らしくいい訳をしたら、温和な表情そのままに、そんな調子じゃ将来苦労するよ。というお言葉と共に許してもらえた。
 なんだろう。この、作戦は成功したもの、心に深い傷を負った感じ。

 本人がきちんと応答しなかったせいで、詳しい話は聞けなかったので鬱病と判断するのも苦労したが、正常な精神状態ではないだろう。それが医者の判断だった。また忙しなくいい訳をして大量に薬も貰い、外国人ということで医療代が保障されずにかなり高い金額を払い、そのまま逃げるように退散した。
 最後に、おばあちゃんは一週間後にまた来なさい。と言ってくれた。見るからに怪しい二人にそんな言葉をかけるおばあちゃんに少し絆されかけたが、お金はしっかり取るからね。という彼女に、不貞腐れて帰って行った。

 彼は道路に出て駅に行く間。駅で電車を待つ間。電車に乗って目的地へ付く間。ずっと視線を辺りに漂わせていた。まるで始めてあたりのものを見るように、理解できないような、理解もしようとしないような瞳で観察していた。
 興味を示した――とは言いづらい。実際に聞いてみると、不可解だ。としか返答が返ってこなかった。寧ろ気味悪がっている印象を受けた。
 そうして帰りの時にはそれを当たり前の光景として認識したようで、視線を動かすことも無く、ただ私についてきていた。
 一応、念のため手を繋いで逃げ出さないようにしていたのだが(電車が来た途端に飛び出されでもしたら、トラウマどころの話ではない。私が鬱病になる)、そんな心配も意味がなかったようで、彼は特に行動を起こそうとしなかった。

 ある意味、消極的過ぎるほど消極的だった。
 始めて外に出て、駅に乗って、病院へ行って。しかし、進歩は残念ながらなかったといってもいい一日だった。

 
 その後は、試行錯誤の日々だった。
 鬱病の友人や家族を持った経験はない。いくらドラマなどで題材として取り上げられているからといって、実際にどう扱ったいいかなど分からない。
 とりあえず一人にしないようにして、日常の生活を歩ませた。
 興味を持ちそうなこと(例えば雑誌やテレビ)を見させてみたり、やらせてみたり。
 でも、無理はしないように。睡眠や休息はきちんと取って、運動もということで夜の散歩に付き合わせた。他愛も無い、というか相槌も聞こえないような会話をして、きちんと聞いている確認しつつ、時折問いを投げかけてみて、一人の時間も作りつつ。
 結構、大変だった。他人との距離を考えながら接するのが、こんなに苦労するものだとは。
 
 彼は私の苦心にも関わらず、やはり無関心だった。私にだけは反応を示すが、それ以外は視線も送らなかったりする。
 ただ一つ、夜の散歩にだけは何も言わずとも自主的についてくるので、それだけが救いだった。
 薬も服用させつつ、しっかり一日一錠飲むようにと言いつける。彼はきちんと守ってくれたが、効果が出ているのかはなんとも分からなかった。
 
 ただ、一番変わったこと。
 彼は、時折――いや、一日に一回は言っていただろう。

「俺に、きちんとしろと言えばいい」

 最初言われたときには、意味が分からなかった。
 彼からそんな提案めいたことを聞いたのは初めてだったし、行き成り言われた言葉の内容についていけなかった。
 しかし、もう一度復唱させて、意味を噛み砕いて、理解し、その後何度言われても変わらない返答をした。

「無理をさせる気はないです。鳥さんがしたければしたらいい」

 そういうと、彼はちょっとだけ瞳を曇らせて身を引く。
 まるで飼い主に怒られたペットのように。
 最初はその反応を見て、動揺して前言撤回しようとしたが、いや駄目だ。と思いとどまった。
 彼からの始めての、提案めいた言葉。しかし、実のところその意味は鳥さんの己を偽らせるものではないのか。
 彼には何もなかった。だからこそ、他人から求められるものを欲していた。そうして、その求められた仮面を被って生きる。いままでの短くも濃い生活から、なんとなくそう読めた。
 言われたことを、文句もなしに完璧にこなす鳥さん。所有権を握られても、それが当然という姿勢しか見せない鳥さん。
 きっと、前だってこういう生活だったのではないだろうか。

 でも、それでも彼の鬱病は治らなかった。
 だったら、その仮面はお預けさせよう。そうしたら、また何か違うことが起きるかもしれない。
 押さえ込まれて、何もない空っぽの身体のようになっていた鳥さんの中から、何か忘れていたものが蘇るかもしれない。
 
 ……まったく、どんな生活を送ってきたらこうなるのやら。

 でも。
 仮面を取り上げられて、落ち込むような鳥さんの姿に、どこか人間味を感じられるから。
 奇跡とか、元から信じていないけど、希望は持ち続けている。


 大学は休ませてはくれても、課題は休ませてくれないらしい。
 友人から送られてきたレポートの課題をメールで見て、思わず青ざめたのが昨日。
 さすがに夜の散歩も放っておいて、レポートに集中した。食事などは鳥さんにお願いしたら、美味しいさばみそを作ってくれた。私がリクエストしたのだった。レポートで精神が消耗していたこともあって自作のものより美味しいそれに、もう彼に食事当番を一任してしまおうかと女としての意地が揺れた。
 
「ああっ! 疲れた!」

 そうして深夜――いや、もう朝の4時だ。まだ秋の空は暗闇に包まれているが、それでも十分に朝といって言い時刻だった。ようやく終わった。
 期限は今日の7時までにメールで送信。即ちギリギリ単位は落とさずにすんだ。
 そこまで成績の良いわけではない私は、恥ずかしながら単位が危ない。しかも、こんな状況で更に単位を落とすなんて事態になったら、進級できるかどうか。
 メールで送信して、あまりの安堵にその場に寝転ぶ。
 思考も朦朧としていて、もう何も考えたくなかった。寝よう、そうしよう。それ以外に私に選択肢はない。

 と、背中に何か不思議な触感が広がった。
 蕎麦がらの枕のような感触だ。いうなれば硬い。でも、丁度良い高さが保たれていて、動きもしないので快適だった。
 こんなところにこんな硬い枕なんてあっただろうか。
 そう疑問に思ったが、すぐに放棄した。後で確かめればいい。今は疲れた、寝よう。

 自分の家で、同居人の存在もすっかり忘れて眠りにつく。
 久しぶりだった。こんな気分で瞼を閉じたのは。

 意識を沈める最中、首筋を撫でられる気がしたのは気のせいだろうか。


「……んん」

 顔に掛かる光が眩しい。カーテン越しに降りかかる日光は強烈で、熟睡していた私をも覚醒させたらしい。
 首を回して壁に掛けられた時計を見ると、12時。一瞬、午後か午前か分からなかったが、レポート終了時のことと日光が煩わしいことで午後だと理解できた。
 
 起きなきゃ、とまた首を捻る。
 しかし、きちんとした場所で眠らなかったせいか、沈殿するようなダルさが身体を襲い、二度寝の誘惑に駆られる。
 そんなぼやけた視界の中で、誰かを見つけた。
 仰向けになって天上を見る私の視界の真ん中にいるその人物は、長い髪、褐色の肌をしていて、ピクリとも動かない。どうやら体制的に座っているようで、少し視線を動かせば背の高いベットに寄りかかっているのだと推測できた。
 そうして最後、ようやく彼が鳥さんだということと、自分が彼の膝の上に頭を乗っけていたことに気付いた。

「(ヤベッ)」

 慌てて上半身を起き上がらせると、ジッと今だ寝ぼけ眼のまま彼を見つめる。
 どうやら起きていないようで、その首は下に俯いており、胸が上気していることが確認できた。
 ほぅ。と安堵の息をつく。

 どうやら私は彼の膝枕で眠ってしまったらしかった。レポートに集中しすぎていて、彼の存在さえ忘れていた。私はちょっとやることがあるから、勝手にしてていいよ。と最後に話しかけて、そのままだった気がする。
 にしても、もしかしなくても彼は私がレポートに集中している間、ずっと起きていたのだろうか。まさかと思うが、そうなのだろう。じゃなければ結構場所を占領しているソファで横になって寝ているだろうし、ベットを背に座ってなどいないだろう。
 後ろでずっと私の事を観察していたのだろうか。
 それもそれで怖いな。と思いつつ、朝食と昼食を一気にとろうと、鳥さんの分も含めて作ろうと身体をのそのそと動かした。



7、この世界のどこかに眠る

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