- ナノ -


 あれから、3日が過ぎた。私はまだ大学へは行っていない。
 実家の母が病気になったと嘘を付いた。ごめんお母さん、後でちゃんと説明するから、今は許してほしい。
 彼の怪我は、まぁ当たり前だが治っていない。酷い傷だったし、出血も酷かったのでよく動ける、と感心するぐらいなのだから、当然だ。
 彼には出血の血液を補うために、ほうれん草とレバーをたらふく食べてもらった。
 嫌がらせのように山盛りで出す食事を、彼は文句一つ言わず、食べた。私的には食べたことに驚きで、感動していたから全部食したことに関しては律儀なんだな、ぐらいにしか思わなかった。
 どうやら彼は真面目な性格らしい。

「掃除機、やり方教えたでしょ。出来る?」
「……」

 こくん。と小さく下に動く頭。了承の意だ。
 まるで幼児でも扱っているような感覚だ。でもちゃんとした思考回路も持っているようでテキパキと与えられた仕事を器用にこなしてゆく。
 これも、彼が真面目であると思う理由の一つ。私が彼の飼い主のように、何か命じるとそれをしっかりやってくれる。宿や食事の恩だろうか。私が好き勝手やっているだけなのだが。
 怪我人を動かすのもあれだが、本人がまったく痛そうでないということと(なんせ傷口に消毒液ぶっかけても、眉一つ動かさない。怪我が酷すぎて、痛覚がなくなってしまったのだろうか)、保護した次の日から食い入るようにこちらを見る目線に耐えかねた結果だ。
 どうやら無関心期間は過ぎ去ったようだったが、次は監視期間に突入したようだった。彼の目は特に警戒心などは含まれていなかったが、逆に何もなかった。疑問に思うわけでもない、私に何か言いたいわけでもない。ただ動く生命物体が私だけだから、私を見ている。そんな気分さえしてくるような何もない視線だった。
 
 ユニク○で買った服が役に立っていた。170センチほどの外国人風の精悍な男性が、怪我だらけで掃除機を持ち、しかもユニク○を着ているとか、かなりシュールだ。

「何食べたいですか?」

 邪魔にならないようにベットの上で座りながら、掃除機をかける彼に問いかける。
 長い髪を揺らしながら掃除機をかける彼にはその声は届かなかったのか、虚しく質問が宙を滑った。
 ほうれん草もレバーも、献立が尽きた。そもそも料理がそこまで得意ではない私にレパトリーなど求める方が可笑しいのだ。だからこそ、夕飯の献立に悩む主婦のように同居人に問うてみたのだが、無駄だったようだ。
 そもそも、外国人風の彼が日本の料理を知っているとも思えない。外国の料理が飛び出してきても、作れなければ意味がない。
 そして、それ以前にも問題がある。彼はいまだ、私に対して一言も言葉を発していない。これまでの反応から言葉が分かっていることは明白だが、口には出したことがなかった。

 落胆して、料理本に視線を移す。
 すると、掃除機の駆動音が気の抜けるような音を出して止まった。
 掃除が終わったのかと思い、そちらへまた視線を戻すと、彼は後ろを向いたまま

「……さばみそ」

 言葉を発した。
 しかも、さばみそ、と。


 私は急いで買い物に出かけた。
 言葉が話せたのか、どうして今まで何も言わなかったのか。そんなことはどうでもいい。
 あの! イケメンの! 何処かやもめ感が漂っていた! 寡黙な彼の! 第一声が!
 さばみそ!!
 私は街中で大笑いした。


「はい。どうぞ」
「……ああ」

 折りたたみ式の小さな机を取り出して、その上に平皿に乗せられたさばみそを置く。
 小さく帰ってきた言葉に、一歩前進だなぁ。としみじみ思う。
 いただきます。と手を合わせてから、自作のさばみそを口に含む。
 まぁ、レシピどおりだし、普通の出来ではないだろうか。そう評価する。
 そうして、同じように口に含んだ彼が飲み込むのを見計らって声を掛けた。

「どう? 美味しいですか」
「うまい、と思う」

 それは僥倖。よかったよかったと笑みを作れば、ふい、と視線が逸らされた。
 美味しいなら、もっと喜べばいいのに。
 まぁそれも鬱病の人には厳しいかもしれない。ちょっとネットで調べたら、あまり無理はさせてはいけないらしい。
 でも、

「嬉しかったら、笑った方がいいですよ」

 彼はこちらに視線を向けて、一直線に見てきた。
 それを逸らさずに見ていれば(私は口に箸をくわえたままだったので、きっと間抜けだっただろうが)、彼はまた、ああ。と一言言ってその後、すまない。と付け足した。

 結局、その日私が彼の笑みを見ることはなかった。



4、笑わない

prev - next
back