- ナノ -


 彼に意識がなかった事を確認し、その後は伝えられる処置をそのまま施した。
 うまく行えているか、物凄く不安だったが、躊躇していてはどうにもならない。意を決して体を動かし、そうしてその処置が一通り終わったところで救急車が到着した。

 煩いサイレンの音と、運ばれる浮世離れしたその人の身体をよく覚えている。
 病院の人も、その怪我人を見て驚いていた。何せ、その人は私が見たとおり、普通の服装をしていなかったのだ。鎧を着て中世からやってきたかのような状態だった。剣などの物騒なものは持っていなかったが、それでも十分不審者だった。
 しかし、怪我人であることは間違いないので担架に乗せられ、救急車に入っていった。

 その後はよく分からない。ただの発見者という立場の私は、後々警察署から調書があるかもしれないが、ということだけを伝えられ、そのまま放置された。
 まぁそりゃあそうかもしれない。何せ私は怪我人とは他人であるし、この件は明らかな他人からの傷なので、傷害事件に関わっている可能性がある。
 とりあえずアパートの電話番号を渡して、そのまま去っていく救急車を見ていた。


 そうして次の日。あまりよく寝られぬまま過ごし、案の定警察から電話が掛かってきた。
 どうやら事情聴取をしたいらしい。公務機関に逆らう意志の強さも、理由も持ち合わせていなかったので、今日の午前の講義は休むことにして警察署に足を運んだ。
 そこで聞かされたのは、昨晩私が発見した怪我人はきちんと処置を施したお陰でそこまで悪化することもなく命に別状はないこと。病院に着き、服を破り医療を施そうとしたところで目を覚ましたこと。しかしその怪我人は怪我を負っているにも関わらず、突然起きだし、周りの制止の声も聞かずに逃げ出したこと。そうして行方をくらませてしまったことだった。

 なんだそれは。
 警察の方から話を聞いた私が思った正直な感想がそれだった。
 折角、私が恐ろしい思いをして助けたというのに、ちゃんとした処置も受けずに逃走しただと? ふざけんな。
 カッと、自分でも驚くほど熱の上がった脳に思考を遮られながらも、事情聴取に答えていった。いわく、どんな人間だったか、どんな外見だったか、日本語は話していたか、見覚えはあるか。
 残念ながらきちんと答えられる事項はそれほどなかった。

 三時間ほどで開放され、簡単な礼を言われ家に帰った。
 まだ大学は終わっていない時間だったが、こんな気分で講義を受ける気にはなれなかった。

 私の中には、怒りにとってかわった後悔が重く圧し掛かっていた。
 あの人は、もしかしたら死んでしまったかもしれない。
 私が見つけて、助けなきゃと思った人物が、彼の責任でだとしてもどこかで野たれ死んでいると思うと、どこまでも怖くて不安だった。

 例えるなら、自分の飼い猫がもう飼えなくなって、誰かが拾ってくれることを期待してダンボールに入れて放置していたら、ある日死んだ姿でダンボールにいるのを発見した、そんな嫌な感覚。
 とすると、彼は私にとってペットという扱いになってしまう気がするが、昨日はじめてあった第三者にはこれぐらいの感情移入だろう。逆に言えば、ただ昨晩一度だけあっただけの他人にここまで感情移入してしまっている。

 警察署には自転車で行ったので、そのまま自転車を押して帰る。乗って爽快感を感じたいとも、思えなかった。
 商店街を通ったら、丁度店番をしていた世話好きのおばちゃんが元気のなかった私を心配してメンチカツを無料でくれた。とてもありがたかったが、それでも沈んだ気持ちは浮き上がらなかった。
 帰りに通った河川のほとり、昨日あの人を助けたと思った場所には何人かの警察官の姿と、キープアウトの黄色いテープが張ってあった。


「……今頃、どうしてるんだろ。あの人」

 雲が空を覆っている。月明かりはもとより、星の瞬くさまも見えなかった。雨が降りそうで、外出前に傘を手に持った。
 恒例の夜の散歩をしながら、ぼぅっと考える。
 いつもは楽しいはずの散歩もこのときばかりは陰鬱なものだった。
 そうして、そのことが頭を占領していたためか、自然と足取りは彼を見つけた場所へ赴いてゆく。
 行っても意味なんかないのに。それに、もしかしたらまだ警察が調べているかもしれない。こんな深夜まで? いいや、それはないか。
 それでも、行って、何もないことを確認したって彼が何処かで息絶えているかもしれない、という証拠になってしまって、また落ち込むだけなのに。

 彼は外国人風の顔をしていた。しかも、可笑しな服。どう見積もっても、普通の人ではない。
 ありえるのは海外からやってきた密入国者か。ありえないことでもない。ここら辺は海に近いし、潮風が香ってくるぐらいの位置にはある。
 羞恥心の無いコスプレをした外国人かとも考えたが、だったら逃げたりする方が可笑しい。国の方針に乗っ取って、多額のお金が取られることを覚悟で治療を受けるのが通常の対応だろう。
 だというのに、彼は脱兎のごとく逃げ出した。
 それに、そう、それに、彼は、

「赤い、光り」

 そう、赤い光。胸の部分に確かにあった。アレは、きっと見間違えじゃない。
 どこの最新技術だろうか。彼の胸――しかも左胸には赤く脈動する機械が埋め込まれてあった。
 それはきっと、心臓の代わりなのだろう。必死に、しかし確実に光りを浮き沈みさせるそれを見て直感した。

 辺りはすっかり暗い。街灯だけが光源で、しかしそのお陰で防犯程度の明るさはある。
 その中で、橋の下だけが唯一暗い。この位置じゃ、その下がよく分からないぐらい。
 キープアウトのテープは取り攫われていた。思ったとおり、調査したのは精々一日程度で、手がかり無しと撤収したらしい。
 暗闇が占領するそこ。怖いとは思わなかった。

 ただ、そこにあった赤い光りを認めて、咄嗟に走り出した。
 それは最初見かけたときより、遥かに仄かな光だった。まるで機械が充電をされずに、そのまま機能停止してしまう直前のような光りの具合だった。
 丁度、雲が雨を降らせてきた。まるで私の歩みを邪魔するようだった。
 でもまだ小雨だ。傘をささなくとも大丈夫だろう。
 
 息が上がって、肺が痛い。運動なんて、そんなにしないから辛いものがある。
 でも、見つけた。

 ボロボロで、可笑しな服を着て、長い髪をして、か細い息をして、でも今は私が施した止血やらの後がある。
 橋の柱に寄りかかるようにして、こちらを見上げる、あの時は見えなかった瞳。
 濁っているかのような、何かを諦めているような。

「……そんなところにいたら、死んじゃいますよ」
「……」

 彼は何も答えない。確かに息をしつつも、死人のように微動にしない。
 まるで、猫のようだ。赤ちゃんのころから人間に育てられて、成長しきらないところでダンボールに入れられて捨てられて、そうして飼い主に捨てられたことを絶望して、そのまま拾われずもせずに死んでゆく。
 そう、彼は世話をされることが当然と思って、それが無くなった途端、死という選択肢しか選べない愚かな猫のようだ。

「……死にたがり」

 思わず口を付いて出た、口の悪い愚痴を聞いた彼が、ビクリと肩を震わせたような気がした。



2、死にたがりの

prev - next
back