- ナノ -

9,「……何故、私の言葉が聞こえないのですか」
「生江殿?」
「……于禁?」

于禁が生江を見つけたのは必然だった。
何故なら生江は薄い私室ような着衣でうろうろと鍛錬場までやってきていたのだから。
各自鍛錬の時間は過ぎてはいるが、日々汗を流し切るまで得物を振っている于禁はその姿を見つけることとなった。
于禁より少し小さな背丈を、どこか前後ろに振り子のように揺らしながら、靴を地面を擦って歩く姿は明らかに様子がおかしかった。
訝しげに于禁が声をかけると生江の瞳がそちらを向いた。

「熱心だな」
「いいえ、生江殿ほどでは」

いつもなら、生江もその時間鍛錬しているはずだった。
毎日ではないが、決まった日数ごとに生江は鍛錬場を訪れ、様々な武器を試している。
傷だらけ――というには些か惨い傷跡を晒しながら、一心不乱に見えぬ敵を斬っているのだ。
その姿を決まって見ていた于禁は、生江が今日に限って私服でうろついているのが信じられなかった。
何処か鬼気迫り、まるで己と戦っているかのような生江が何故武器も持たず鍛錬場へやってきているのか。

「于禁は」
「は」
「水は好きか」
「水、ですか」

水、とは飲み水や川や天から降る雨などのことを総称して言う水だろうか。
于禁は首を傾げるが、生江はただ一直線に于禁を見つめてくる。
その為に、武器をいったん置き、顎に手を当て考える。

「……嫌いでは、ありませんが」
「そうか、それなら良い」

頷けば、そのまま踵を返してしまう生江に于禁は慌てた。
意味のあるようでない問いかけ。それが何を示しているのか。

彼の言葉は、力があった。
それは戦場で、策略で、どこか何かを知っていた。
彼と共に戦場を駆ければそのことを嫌でも思い知らされたし、負っている傷はその意味を解さなかった者の為に作られたものも多い。
だからこそ、聞いておかなければと声を張った。

「生江殿!」

まるで、天から糸が張ったようにぴたりと動きを止めた生江の動きに、于禁は驚いた。
ゆっくりと振り返った生江は、どこか虚ろな目をしていた。

「――于禁?」
「生江、殿?」
「……ここは鍛錬場か」
「そう、ですが。生江殿?」
「服がそのままだ。獲物も持っていない。支度をしなければ」
「生江殿」
「そうだ。于禁、打ち合いをしてくれ」
「生江殿ッ!」

飛び出た言葉は、怒声のようだった。
于禁は、背筋を襲う寒気のような悪寒のようなものに慄いていた。
焦燥感が胸を占める。この人は何を言っているのかと。

「では、また」
「……何故、私の言葉が聞こえないのですか」

信じられないように目を瞠った于禁の目に映ったのは、ゆらゆらと揺れながら雲の上にでも足を置くように歩いていく、生江の姿だった。

于禁は、鍛錬場で待っていた。
一人武器を振るい、焦燥を振り切るように。
そうして彼が言った言葉を果たすために。
日が暮れ、辺りが暗くなり、月が出ようとも待っていた。

生江が鍛錬場に来ることはなかった。
于禁の焦燥感は、積もるばかりだった。

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