- ナノ -

2,「おい、待て!!」
生江を庇ったことを、後悔していない。
そうしなければアイツは死んでいたし、今後の曹操の為にもアイツは必要な武将だった。
からだこそちゃらんぽらんなアイツを助け、そうして俺は左目を失った。
片目の見えぬ兵など聞いたことがない。武勇を立てるには、曹操の片腕として刃を奮うには相当に痛手だった。いや、もう兵としてやっていけないかもしれない。
そんな不安が掠めるたびに物に当たり散らした。
その中でも一番壊していたのが鏡だった。片目を失った己を見るたびに、感情が吹き荒れ衝動のままに壊した。
一日経てば鏡は新調されている。俺が部屋を出ている間に女官が替えるのだろうが、もう鏡など必要がない。
床には鏡の破片が散らばり、簡易な凶器としてそこに存在していた。

「夏侯惇」

名前を呼ばれて、最初は誰が呼んだのか分からなかった。
思い当たる人物はいたが、そいつは俺のことを惇と呼ぶし、こんな固い声で喋らない。
睨みつけるように見てやると、どうしたことか頭に浮かんでいたそいつが居た。
しかも、鏡の破片を知らぬ存ぜぬとでも言うように素足で踏んでいる。赤い足跡が床に残る。

「……何をやっている」

それは俺の部屋に来たことと、素足で破片の上を歩くということに対してだった。
元々、コイツを庇って左目が見えなくなったのだ。生江と会うのは控えたかった。後悔はしていないが、コイツがもう少し注意をしていればと思うのは悪くないだろう。コイツはいつもふざけていて、あの戦場でさえ自ら死にに行くように振る舞っていたのだ。
だが、コイツがいくら馬鹿だといっても素足で破片の上を歩くという愚行をするほどではなかったはずだ。確かに下手をすれば死ぬような行動はいつもしていたが、自ら怪我をするなどはしていなかったはずだ。アイツはなんだかんだといって、自らがしたいという欲に全力で突っ走っていたのだから。

生江は、俺をずっと見つめていた。
俺は姿が似ているだけの他人かと強く思った。
生江というやつは、俺がいたら何かしらちょっかいをかけてきて、意味不明な言葉ばかり言って、時折人間の言葉を話したかと思うとこちらを馬鹿にしたものだったり下らなすぎて頭に血が上るものだったりしていつも俺の堪忍袋の緒を平気で切っていた。
それにいつも馬鹿みたいに笑って、阿保みたいに百面相をするから、馬鹿だ阿保だと思いつつも、昔からの縁か憎み切れないやつだった。
だというのに、これはどういうことだ。
目の前の男は、年相応の顔つき――よりも更に老けさせたような顔をして、無表情にこちらを見ている。
左眼のことさえ忘れ、思わず声をかけた。

「おい、生江」
「お前は将来大将軍になる」

一瞬、生江が何を言っているか理解できなかった。
しかし、何度も頭の中で反芻し、やっと理解できたときには左目の状況を思い出し頭に血が上っていた。
前々から常識のない奴だと思っていたが、こんな状況でもそんな世迷言を言うのかと。

「大将軍だと!? お前、今の俺の現状を見てよくそんなことが言えるな!!」

生江との距離を詰め、怒鳴りつける。
頭が沸騰しそうなほどに様々な感情が入り交ざっていた。

「なんだそれは、慰めているつもりか!?」

拳を握りしめて振り上げる。
それでも、こちらをただ無表情に見つめる瞳に、俺は同情されたのだと悟った。
お前に、お前のような奴に同情される云われなどない。
この傷は俺が選んで受けたものだ。お前がどうこう思うものではないし、そうであるのなら尚更に腹立たしい!

固い感触が拳に伝わり、生江が叩き付けられるように地面に倒れ込んだ。
重い音と共に横たわった身体を、荒い息を吐きだしながら睨みつける。

「左目がなくとも、俺は俺だ! 余計なことを言うなッ!」

「……そうだな」

髪が顔にかかり、表情が読めなくなっていた生江の口が開く。それはやはり無感情で、何を考えているか分からない声だった。
なんだ、こいつは。
怒りの中の片隅で強烈な気味の悪さが背筋を這う。
誰だ、こいつは。

のそりと立ち上がったそいつは、髪も直さずに、部屋の出口を目指す。

「おい、待て!!」
「夏侯惇は夏侯惇だ。左目があろうともなかろうとも変わらない」

確認するような口調に、追おうとしていた足が止まる。
その後ろ姿は、起き上がる時に床に手を付けたのかと、手も足も鮮血で濡れていた。

「邪魔したな」
「生江!!」

叫ぼうとも、その男は歩を緩めない。
消えていった後ろ姿に、伸ばしていた手を下げた。
誰もいなくなった、血だけが残る空間で、先ほどの男を思い出す。

「……生江」

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bkm