- ナノ -

四肢を捧げよ
netaの夏候惇成り代わり天然主から



左眼が痛い。じくじくしてずきずきしていらいらする。
今まで受けてきた傷の中でもこんな痛みを受けたことがなかった。
腕を斬られても腹を刺されても足に矢を受けても、こんな辛い思いはしたことはなかった。
それもそうかもしれない。なぜならその傷は少しの期間を置けば、どうにか治る程度のものだったのだから。
今回の傷は違う。左目に矢を刺され、眼球は既に胃の中だ。体の一部となっていることだろう。
親からもらった身体を捨てずに腹に収めたことに、なんの後悔もない。
だが、結局は使い物にならなくなった左眼と、隻眼になった己にどうしようもなく腹立たしい。

いままで、何のために戦場を駆けてきたのかさえ、分からなくなってしまいそうだった。

孟徳という従兄弟を持って生まれた俺は、ずっと彼についてきた。
歳が上だった彼は、幼い自分から見てとても優れている人物であったし、世間一般から見てもそうだった。
彼は優秀だった、優秀過ぎるほどだった。
それにずっと憧れて、彼の為にできることは何かと考えた結果、孟徳が挙兵するとの時に己もついていったのだ。

何も悔やんでなどいない。成長し、傷をつくるたびに世話を焼く従兄弟たちに首を傾げてはいたものの、それもいつものことであり、日常だった。
丸い眼球の感覚のない左目に、苛立ちが募る。

目を失ったことを、何かのせいにするわけもない。
もしあの戦場に立っていなければ、もし孟徳について行っていなければ。
そんなこと、有り得るはずがない。俺は何を言われたってあの戦場に立ち、何を言われても孟徳について行っただろう。
だから、悔やむとすれば自分自身だ。

「夏侯惇、体調はどうだ?」
「……孟徳」

普段の、軍の主として現れる鎧をまとった姿ではなく、動きやすい服装の孟徳が、昼間だというのに日差しが入ってこない、暗い部屋にいた俺に声をかける。
戸を開けて足を踏み入れる孟徳を、右目で見据える。
情けなく部屋の隅で鏡を睨みつけていた俺の横に孟徳は腰を落ち着かせた。

「……何の用だ」
「何を考えていた?」

無遠慮に背を預けてくる孟徳に、左目を見られたくなく顔を背ける。
さして気にした風もなく問われたそれに、口を閉ざす。

「失った眼のことを考えていたか」
「……ああ」

なんでもお見通しらしい彼に、沈黙は通じない。
だいたい、己の考えていることは従兄弟たちには看破されてしまう。
戦で前線に斬り込もうとすると止められ、怪我をしても放っておこうとすると捕まっていたのを思い出す。
もう、そんなこともないのかと思うと、ない左眼が痛みだす。

「馬鹿なことを考えるな」
「……馬鹿なことではないだろう。俺は、もう使い物にならない」

普通の兵士なら、まだ足軽としての役目もあったろう。
だが曹操の従兄弟として、主の側近としての役目はもう終わり、同時に兵士としての役目にもありつけないはずだ。
従兄弟という立場が、きっと俺を一般の兵士としての役割も奪うだろう。地位というものは、時に足枷となる。
頭は残念ながら自信もなく、ならば孟徳の何に役立てるというのだろうか。

「お前は本当に、昔から無駄なことばかり考えるな」
「……煩い」

そうだ。昔から孟徳にそんなことを言われていた。
煩い。これでも俺なりに考えた結果なのだ。
そういうと、孟徳は――

「全て儂に任せればよい」

そう、今のように言って呆れた様な、楽しげな顔をしていた。
俺はそれを、意地の悪い笑みだと毎回のごとく思いながら、頼りがいのある笑みだとも思っていた。

孟徳が、そういって悪いことになったことはない。

「……何を任せるというのだ」
「うむ。まず、お前は片目でも戦場に立てるようになれ。それから、眼帯を送ってやるからそれを付けろ。今回の傷のことで周囲に注意を払うことや怪我の恐ろしさも分かったことだろうから一人で無茶な行動は慎め。何かするときは夏侯淵か儂に言ってから動け、それから――」

突然ぺらぺらと動き出した口に驚いて孟徳を見る。
こちらの視線をまったく気にせずに次から次へと注文を付ける孟徳に、こちらの頭が追いつかない。
……時折、俺は孟徳が何を言っているのかが理解できない。

「あー、殿。それじゃあ惇兄が理解できないと思いますよ」
「む、ああ、そうだな。それでは初めからもう一度言うぞ。次は聞き漏らすなよ」

まるで初めからいたように自然に部屋に入ってきた夏侯淵に目が白黒する。
いつからそこにいたのか、どうして理解できていないと分かったのかと色々聞きたいことはあるが、それよりも。

「お、お前ら。いいのか」
「何がだ?」
「なんのことだ? 惇兄」
「……俺が、戦場に戻っても」

隻眼の将軍など、聞いたこともない。
そう言うと、二人は同時にはぁ、とため息をついてこちらを見た。

「……儂らは夏侯惇が居ればいいのだがな」
「惇兄はそれじゃ嫌だろうしなぁ」

そんな意味もわからないことを言って、首を傾げるこちらを見て夏侯淵が苦笑いをした。

「惇兄は、それぐらいで殿の傍にいるのを諦めるたまじゃないだろ」
「……ああ。そうだな」

その瞬間、胸に溜まっていた何かがふわりと消え去った。
そうだ。なぜあんなにも苛立っていたのかが分かった。
諦めきれなかったからだ。片目を亡くしても、戦場を駆ける権利をなくしたと思っても、孟徳を支えるという行為を諦めることが出来なかったのだ。
だから、見知らぬ苦痛が付きまとい、後悔が襲い、苛立ちが胸を占めていた。

しかしその苛立ちもなくなり、痛みも他の思考に埋め尽くされ、だんだんと感じなくなっていく。

「そうだな。ああ、俺はきっと、四肢がなくなろうとも戦場に立ち続けるだろうな」

立場とか、そんなものは関係なかったのだ。
地位でその戦うという行為を遮られるならばそんなものは捨ててしまえばいいし、反対するものがいるならば正面から潰してしまえばいいのだ。孟徳が言ったように片目でも戦えるように訓練し、文句のつけようのないようにしてしまえばいい。
そうか、そんな簡単なことだったのか! そう納得すると、目の前が二人が深く深く息を吐いた。

……なぜ、そんな不満そうな顔をするのか。

「やっぱり、俺らがいなくちゃダメだなぁ惇兄は」
「ああ。そのようだな」

全く、というように頭を抱えながら言われ、先ほどとは違う苛立ちが胸を占める。
だが、その二人の言葉が自分を思ってというものだということは分かるから、反論もできない。
だから、口を閉ざして少し笑みを浮かべている二人を片目になった瞳で眺める。
二人がそこに居るのを見ていると、片目である事実など少しも気を落とすようなことではないように思えるのが、恐ろしいことだ。
ふと、視線を前に向けると鏡に左目を包帯で覆った己が映っていた。

「(俺は、孟徳が作る未来の為に死のう)」

そう片目を失った男を見ながら独り心中で呟くと、二人が睨みつけるようにこちらを見た。

「変なことを考えるなよ、惇」
「そうだぞ惇兄」

怒られた。何故だ。

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