- ナノ -

義兄主(359・夏侯惇・攻め主)
「おい、惇。今日泊まらせてくれ」
「……生江、お前」

金を差し出しながら、早く入れろと急かしてくる義兄に、夏侯惇は気力が抜けるような脱帽感を感じていた。

生江は曹操や夏侯惇、夏侯淵や曹仁の兄代わりのような人物だ。と言っても、本当の兄と言う訳でもなく、これといって有名な血筋に生まれたわけでもない。一般の庶民だ。だが、幼い頃に出会い、共にやんちゃをし、様々なことを生江から教わった夏侯惇たちにとっては、正しく兄と言ってもいい人間だった。

そんな生江という男が夏侯惇の前、いいや馴染みの者たちすべての前から姿を消したのはおよそ十年前だ。
曹操を主として、戦に明け暮れていた中で、ふと生江は「俺、旅に出てくるわ」と一言宣言して、そのままどこぞへと消え去ってしまったのだ。
当初は仲間と共に必死に捜索した。しかし、姿をくらませてから一ヶ月も経過すると周囲も諦め始め、曹操などは「あやつのことだ。数年たったら戻ってくる」とそもそも探しもしていなかった。
周囲が諦めても、夏侯惇だけは探し続けた。しかしそれも一年が経つと、どこぞでのたれ死んでいるのではないかという諦めがふつふつとわき出てきて、五年も経つときっとどこかで妻を娶って幸せに暮らしているに違いないと願い、そうして十年たった今では。

「孟徳の言葉が当たっているのではないかと考えていた矢先で、これか」

まだ若い頃に、曹操が夏侯惇に言った言葉。それを十年たっても曹操自身は否定しなかった。
だからこそ、言葉を撤回しないのならもしや。と考えていたら、これだ。

「おいっ、お前、今までどこに居たんだ!」
「どこにでも。戦途中のお前を見たこともあるぞ」
「なっ」

なら、その時に姿を現せばいいものを!
そう言えば、出された食事を咀嚼しながら「そうしたら、戻らなくちゃなんねぇじゃねぇか」と言葉が返ってくる。
平然とそう言ってのけた生江は、悪いとは一かけらも考えていないようで、食べ物を飲み込んでうまいと満足げな顔をしている。
夏侯惇が、どんな気持ちで十年間を過ごしていたかも知らずに。

「っ、十年だぞ。孟徳は数年で帰ってくると言っていたが、二桁だぞ!? 俺が、どれほど心配したと」
「心配してくれたのか」
「あ、たりまえだろう! お前は俺たちの兄なんだぞ!? 家族も同然だ。なぜ姿を消した!?」

怒声を張り上げる夏侯惇の表情は元からの厳つい顔に加え、片目がないことで兵士でも萎縮してしまうような面持ちだ。
しかしそれを生江はただ眺めるように見つめている。
一切顔色を変えない生江に、夏侯惇の怒りが更に膨れ上がる。
だが、それがはち切れる前に、生江が口を開いた。

「そうだろうな」
「何がだ!」
「お前は俺を家族としてしか見ていない。そうだろ?」
「なっ」

何を言っているのか。昔から夏侯惇は生江のことを家族のように親しく感じていた。
それは今でもそうだ。だからこそ、生江が消えた時には必死で探し、見つからない日々がとてつもなく辛かった。
死んだにしても、妻を娶って幸せにしているとしても、それが本当なのか分からない。
夏侯惇たちの兄として、力強く笑っていたころの顔が、頭から離れない。

「それが、なんだ。なんだというんだ」

夏侯惇は、自分の言葉が震えていないか気がかりだった。
生江のことは、確かに家族のように親しく感じていた。
だが、いつからだろうか。
その想いが、家族以外のものまで含むようになっていったのは。
義兄に対する周囲との考え方の違いに気づいたのは、いつからだったか。
いつまでも一緒に居てほしい。隣に居てほしい。遠くへ行かないでほしい。誰か妻を娶るなど、考えられない。

兄に対する感情は、ただ初めは尊敬やら羨望やら、その程度だった。
それが、いつからか思慕や劣情へ変わっていった。
それが家族に対して抱くべき感情ではないと理解していた。だからこそ隠し続け、共に戦場を掛け、生江が妻を娶るのなら、歓迎しようとしていた。
それなのに、生江は姿を消した。
わだかまった感情は、想う相手もいなくなり、胸の中でただ存在していた。
だが、その感情は時が経つにつれ、一年、二年と時を刻むにつれ、だんだんと、大きく、強くなっていった。

「ああ、家族。そう思ってもらえて、嬉しいよ」

生江の手が伸び、夏侯惇の左目に触れる。
眼帯が付けられているそこは、生江がいない戦場で失った瞳だ。
だが、そんなことよりも生江の手が触れているという事実に夏侯惇の身体が固まる。
怒りに拳を震わせていたはずだというのに、今では左目から広がる熱に、身動きができない。

家族――ああ、そうだ。それでよかったはずなんだ。
熱を帯びる顔に、己の女々しさを見て、無様に思う。
そう、兄だった、家族だった。そんな相手を勝手に想い、姿を消されて憤り。
それに、男同士だ。どう足掻いたって、この想いが相手に届くことはない。
そう、理解しているというのに。

「当然だ……お前は、俺たちの兄だ」

軋むように胸が痛む。

生江は顔を顰める夏侯惇の様子を見て、苦笑いを零す。
その顔を殴りつけたくなった。
家族なんてものでは、足りない。その全てを拳で叩きこんでやりたかった。

生江の無骨な手が、夏侯惇の頬をなぞる。

「お前は、それでいいのかもしれねぇけどよ」

そうして顔の輪郭をなぞる生江の手に、ゾクリと背が粟立った。

「な、にを」
「……最近、曹操のとこの将の目がないって噂を聞いてなぁ。まさかまさかと思って、それでもどうにも気になって、金持ってけば顔ぐらい合わせてくれるだろうって魂胆で見に行ってみれば、本当にお前の左目に眼帯がつけられてるしよぉ」

どこか遠くを見ているような瞳で、夏侯惇の顔を好き勝手弄りながら話す名前に、口を開こうとし、しかし口を閉じた。
それをどう取ったのか、生江はそのまま言葉を続ける。

「それ見て、なんで俺はこいつの傍にいなかったんだろう、って。悔いた」
「ならっ、なぜ……!」

食って掛かりそうな様子の夏侯惇に、生江は一つ溜息をついて言った。

「お前、俺のこと家族っていったろ?」

夏侯惇の表情は、苦し気で、苦痛を押し殺しているような顔だった。
そんな姿に、生江はこの後の言葉を飲み込もうか迷い――やはり口に出そうと決める。
もう、我慢ならないから帰ってきてしまったのだから。

「十年前までは、それで良かったんだが。ある日突然気付いちまったんだよ」
「なに、に……」

口数少なく問うてくるその声に、生江は笑って返した。

「それじゃあ駄目だったんよ。お前のことを、弟として見られない……。つまり、家族としてじゃなく愛しちまったってことによ」

生江という男はこの十年間、逃げてきた。
自分の家族と同じ存在に抱いてしまった感情に、弟のように可愛がってきた青年に感じてしまった劣情に。
そんな想いを知られてはならない。家族でさえいられなくなる。
そう思い、十年間逃げてきた。様々なところを周り、得意の腕でどうにか生活をしてきた。
そんな時だ、とある将が目に矢を受けたと耳にしたのは。
だが、そんな話はよくある話だ。しかし、どう聞いても、特徴などが見知った人間――夏侯惇である気がしてならなかった。
目を射られた――。それは武将としては致命的であると言ってもいい。だが、その人物はそれでも将として戦場を駆け抜けているらしい。
生江の頭の中には、十年前に別れを告げたはずの男が離れなかった。
自分がいない間に、酷い怪我をした。それでも戦場に立っている。十年前に逃げなければ守れたのか。片目を失って戦場に立ち続けて、死んだらどうするんだ。
そんな思いが離れず、気づけば金まで用意して夏侯惇の屋敷の前にやってきていた。
対面し、驚いて、脱力したこいつを見て、観念した。
抑えようとして、抑えられる部類のものではなかったのだ。
ああ、なら。

「お前から拒絶されてもいい。お前の傍にいてぇ」

放蕩兄貴からの、たった一つの望みだ。
そう言えば、熱い拳が顔面に突き刺さった。



――

あれ、可笑しいな。甘々にするつもりだったのに……。

prev next
bkm