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欲張りで紳士的な人(359・曹操・トリップ主)
美しい娘だった。
何が美しいかと問われれば、容姿・礼儀・作法。特筆すべきところは無い。
容姿は美女というには劣るし、礼儀や作法は貴族出身というわけではないから、やはりそういう連中よりは劣る。
だというのに、何が美しいのかといえば、その心情だろうか。

「生江。探したぞ、どこにいたのだ」
「曹操様。申し訳ありません。少々散歩をしておりました」
「いいや。いいのだいいのだ。何も約束をしていたわけではない」
「ありがとうございます。曹操様」

にこりと微笑むその姿に、年甲斐もなく胸が痛む。
出会って話すだけで自然に口角が上がるのが分かる。
生江は淑やかに笑顔を浮かべるだけで、自分から何かを話すことはほとんどない。だがこちらが話しかければするすると返事を返すし、いつ何時彼女を捕まえても笑顔で対応する。
だが、生江がわしの妾(めかけ)というわけではない。
わしが気に入って連れてきたことは確かだが、妾にしたわけではなかった。客人として城へ向かえている。

「最近は空気が暖かくなってきたのぉ。どうだ、遠乗りでも行かんか?」
「いいですね。嬉しいです」

手を合わせて、嬉しそうに微笑む生江は朗らかな空気が発せられているようで見ているだけでも癒される。
だが、こう彼女が言って供に遠乗りへ行った覚えは無い。
こちらが戦で忙しくなったり、生江が急用や体調不良で断られることがあるのだ。といっても、後者のほうが明らかに多いのだが。

「ふむ……今日の服装は緑を入れているのか。あまり似合わんな。誰が選んだのだ?」
「あら。すいません。今日は私が直々に選んだんです……お恥ずかしいです」
「なっ、そうだったのか。……いや、十分に似合っているぞ!」
「ふふ。ありがとうございます。でも、曹操様が気に入らないなら着替えてこなければいけませんね。少々失礼してもよろしいでしょうか」
「あ、ああ。いいぞ。分かった」

恥ずかしそうに、顔を隠しそそくさと去っていく背中を見つめる。
細い線に、若干心配になる。生江はここへ来て日が浅い。いきなり暮らしが変わり、負担がかかっていないか不安が募る。
いつも、不自然なほどに笑顔でいる彼女は、きっと不満や不安、希望があっても口にはしないだろう。わしにはなおさらだ。
顔にたまった熱が春の風に流されていく、生江が去った方向を見つめていると、夏候惇から言われた言葉を思い出した。

『身元も分からぬ女を城に入れるとは! 間者かもしれんのだぞ。それに気にいったというならば、妾にでもしてしまえばいいものを、どうして放って自由の身にさせておく』

急に愉快になって喉を鳴らす。
夏候惇のいうことはもっともだ。怪しいことこの上なく、心のうちは見せず、常に笑顔で苦もなさそうに接する。
それを疑わないものもいないだろう。それでも生江はそれを崩さず、ずっと耐えるように笑顔を貼り付け続けている。
わしが気に入っているということで、邪険にはされていないだろうが、信用もされていないはずだ。まだまだ日も浅いのだ。当たり前だろう。

以前、夜に風に当たりに外へ出たときに、生江が一人庭に立ち、空を見上げていた。
ポツリと言った言葉を覚えている。

『帰りたい』

聞いたこともない切ない声で、誰かに請うように発せられたそれは風に流され消えていった。
見つけた直後は喜んで声をかけようとしたが、それをみてそんな気も失せてしまった。
いいや、それよりも声をかけるより前に生江の僅かな秘密を聞くことができ、感極まってそのまま声もかけられなかったのだ。

「帰らせるものか」

どこに帰りたいのかなぞ知らん。ただ、生江には帰る場所があるということだろう。
間者であろうが、ただの貧民であろうが、母の元へ帰りたがっているだけであろうが、関係が無い。

人間は本性が明らかにならないものほど、気になって仕方がなくなるものだ。
気を許さない、かといって反抗するわけでもない。
ただひたすらに何かを待つように耐え続ける生江に、そのひたむきさに、いつの間にか心奪われていた。
その心情の全てが美しいと感じたのだ。
時折ゆれる心の隙間が、哀愁の漂う横顔が、一人佇む際の警戒心の無さ故の儚さも。瞳の中に見える無機質感も。
いまではその仮面である笑顔でさえいとおしい。
それがいつ剥げるのか、いつ我慢が聞かなくなるのか。楽しみで仕方が無い。

ゆっくりと、ただ生江がその仮面が貼り付けられなくなるまで待とう。
楽しみは、後々に取っておかなくてはならない。
そうして、郷愁よりも一人の寂しさに耐えられなくなったとき。
隣にいてやろう、いつまでも。

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bkm