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春見成り代わり
春見成り代わり


ちょっとした事故で呆気なく死んだら、その先が明治時代の離島っていうのは考えたことはなかったなぁ。
二十一世紀でのうのうと暮らしていたら事故に巻き込まれて死んでしまった。悔いも悲しみもあるが、生まれ変わった先で長々と悩んでいても仕方が無い。
そんなわけでなぜか未来じゃなく過去に生まれてしまった私こと今は春見ちよは、明治の世で逞しく生きています。

「気色の悪いいご草が来たぞ!」
「岩にへばりついてるみたいじゃ!」

はい、今年で六歳になりますが、絶賛虐めにあっております。幼い子供たちの中に入っていくのが精神年齢的にもキツくて避けていたら、いつの間にか仲間はずれにされて都合の良い標的にされてしまいました。これだからガキは……。
普通に島を散歩していただけだってのにどうしてこうも面倒なのに絡まれなければならないのか。けれど大丈夫、私は前世では成人していたぐらいの大人ですからね。こんなガキどもの戯れ言に付き合ってなどやってやりません。

「あ? 君よくそんなほっそいめで人のこととやかく言えたもんだな? その目って節穴? いや、そもそも見えてないか〜ごめんね」
「は、え」
「そっちのお前もそのガッチャガチャの歯どうしたん? 一旦全部抜いて手作業で入れ直した? そんなんでよく食べ物食べれるねぇ〜? おいしいいご草もその歯に挟まって飲み込めないでしょ? 大変だねぇ」
「へっ」

時が止まったかのようにピタリと身体を止めて動かなくなってしまったガキどもを鼻で笑う。
人の容姿をとやかく言うんだったら自分だって言い返される覚悟を持ってこい。そもそも容姿より性格じゃ覚えとけ。そんなお前達は人を虐める所含めてマイナスだけどな。大人になるまでに直しとけ。
そのまま銅像のような子供を置いて、そのまま海辺まで歩いて行く。
さぁてここまで来たら他に子供たちも来ないでしょ。やっぱりどう足掻いても年下の子達っていうのは扱いづらい。別に前世で子供がいたわけでも年下の兄弟がいたわけでもないし、関わる機会がそもそもなかったのだ。なのにこの人生では強制的に関わらなきゃいけないし。辛い。
海辺の岩に腰掛けて漁船がポツポツと浮かぶ海を眺める。はぁ、娯楽もなにもないの辛すぎる。スマホまでとは言わないから、漫画を読ませてくれ……。

「ちよ、なんやってんじゃ」
「え? 黄昏れてるけど」
「たそ……?」

海辺を見つめて娯楽ホームシックに陥っていれば、話をかけてくる男の子が。
島の集団的いじめの雰囲気にも流されず、ちゃんと私の名前を呼んでくれる男の子である。坊主頭の低めの鼻とゴルゴ線が特徴的な元気な少年だ。
彼との出会いは少し前に彼と少年達の喧嘩に間に入ったところからであった。別に私も普通の喧嘩をわざわざ仲裁するほどお人好しではない。その喧嘩は彼対複数人であったのだ。ガキの喧嘩で済まないだろうと仲裁に入った。そうしたら何故か私が少年らに罵倒されたのでカチンときて五百倍返しにした。もちろん口論でですよ。それからは私の事を気に入ったのかなんなのか、こうして話しかけてくれるようになった。

「まぁそんなことはいいんだけどさ。この島暇すぎない?」
「そうか?」
「うん。暇も暇。はぁ、さっさとこんな島から出ていきたい」

別にこの島が嫌いってわけではない。自然は豊かだし春先に咲くカンゾウは美しい。けど私の求めているものはそれじゃない。
現代人に明治時代の離島は娯楽がなさ過ぎるのだ。どれだけ自分が甘やかされてきたか分かる。

「玉の輿に乗りた〜〜〜〜い」
「なんじゃそりゃ」
「金持ちの素敵な男の人と結婚して島から出ていきたいってことだよ」

今度は誤魔化さずに教えてあげる。あまりにも汚い大人の欲望であるが、もう正直なところこれである。
金持ちの夫の金で好き放題暮らしたい。本島の栄えたところで金さえ有ればもう少し楽しく暮らせるだろう。そうであってくれ。頼む。じゃないと生きる気力が出なさすぎて絶望しそう。
「あ〜〜少なくとも金、金が欲しい」とブツブツ呟いていると、隣から「おい」と話しかけられて現実に戻ってくる。

「何?」
「なら俺と島から出るさ」
「……」

いや、どうしてそんな話になった。まぁ、彼の家庭環境を聞くと今すぐにでも出て行った方がいいような気もするが、もう少し大きくならないと男といえど一人で暮らしていくのは辛かろう。で、何の話だっけ。

「おめのことが好きらすけ、いっしょに島から出て行こうっちゃ」

え、そうだったの? 初耳なんですけど。
そう、あまりにも真っ直ぐかつキラキラした瞳で見つめられたので、流石に動揺する。
まぁ、したものの。
さっと手の平を彼の顔に突きつけるように出して、そのまま心からの本音を告げた。

「ごめん。私年下無理」
「同い年っちゃ!」

いや違うんだって。




精神年齢がーやら子供はちょっとーやら色々話したが、全く納得してくれなかった少年――基くんは事あるごとに好きだとか一緒に島を出ようとか言ってくるようになった。いや直球〜〜〜〜。良い子なので悪い気はしないけど、本当に無理なので困ったものである。
だって私は前世では成人済み。対する彼はまだ十歳にも達していない子供である。犯罪なんだよな。
そんなことは露知らず。いい加減な理由で振られたと思った基くんは全然諦めてくれない。いや絶対私の方が正しいからね。諦めてくれ頼むから。

「付き合ってくれ」
「いや、いじめっ子達をボコ殴りにしたからって付き合わないからね。あと女の子にアピールするのにそれはちょっとやり過ぎ」
「あぴ……じゃあどうすりゃいいんや」
「え〜〜? 花を、あげるとか」
「分かったっちゃ」
「分かられても」

年月が経ってもこんな調子で困ってしまう。今日は相変わらず喧嘩をふっかけてくる少年どもを口論でコテンパンにしようとしたら、基くんが横から入ってきて相手をボコボコにしてくれました。まぁ助かったは助かったけど、血まみれで泣きながら去って行きましたよ相手の子。
下駄を両手にしていた基くんは私の適当アドバイスに納得したのかなんなのか、一つ頷いて下駄を履いて去ってしまった。

そして次の日、可愛らし白い花を持ってきてくれた。いや可愛い〜〜〜〜〜〜〜〜。




そんなこんなで、忙しない基くんのお陰かなんなのか、退屈な島でもそこまで暇にならず数年が経過した。
あっという間に十六歳ですよ。いやぁ、子供の成長は早いなぁ。同じぐらいだった背丈の基くんも大きくなって、もうすっかり青年ですよ。いやぁ、恋の話の一つや二つ聞きたいなぁ。勿論私に対するもの以外でな!!

「結婚しようっちゃ」
「ゲホッ!! ゴホッゲホゲホゴホ!!」

いや何言ってんだこの子はァ!!

「なにっ、じゅうろくっ、こうこうせっ、まだこどっもッッゲホッ!!」
「ちよが前にゆうてたやろ。十六からじゃないと結婚せんて」
「それはっ、げんだいの、はなじでッゴホゴホッ!!」

ああくそ話している時に口を滑らせたんだったな随分と大昔に! というか現代基準だったら男性は十八歳からですけどね! あれ、でも民法改正されて女性も十八歳からになっていた気がする。よしこれでいくか。いや待てそれだと結婚承諾したみたいになる。落ち着け自分。つーか何言ってるか理解してるのかこの子は。
どうにか腰を屈めて息を整える。基くんが当然のように背を撫でてきているのが納得いかねぇ。いや確かに幼馴染みでこのぐらいの距離は普通にはなってしまっているが。
落ち着いたところで基くんを睨み付ける。対して基くんは期待に溢れた表情である。君今までの私のお断りの言葉聞いてた?

「あのねぇっ、私はずっとお付き合いも断ってるでしょ。それなのに結婚なんてするわけないでしょ」
「けど島じゃあ俺とちよが付き合っとることになっとるぞ」

そりゃあ君がずっと私に好き好き言ってくるからでしょう。羞恥心どこに落としてきた? お姉さん心配なんですけど。
しかしこれについてとやかく言っても仕方が無い。

「それとこれとは話が別。前から言ってると思うけど、私は玉の輿に乗りたいの。金持ちの奥さんになって娯楽を死ぬまで楽しむんです」
「ちよはゼニが好きじゃな」
「むしろ嫌いな人いないでしょ」

資本主義社会の真理じゃないですかね。
そんなことは言わないが、本当にずっと言い続けてきたことだ。金持ちのところに腰を入れて、別に愛されなくていいからお金だけある程度好きに扱わせてくれれば良い。この時代だし、それなりに明治の常識に従いますよ。だから私に娯楽をくれ。そのために生きてきたと言っても過言でないのだ。
やっぱり生きる意味って大事だ。残念ながら恋に恋するお年頃でもないから好いた相手を生きる意味になんて出来ないし、染みついてしまった娯楽の快楽からは何年生きても逃れられそうにない。
恋に恋している基くんには悪いが、私はこういう薄汚い大人なのだ。キラキラ眩しい君は、新しい恋を見つけてその相手と添い遂げてほしい。
そのようなことをオブラートに包んで告げれば、基くんは難しそうな顔をした後に、ゆっくりと、重々しく頷いた。

「分かってくれた……!?」
「ああ。分かったっちゃ」
「基くん……! 君はいつか分かってくれると思ってたよ……!」
「おう。分かったさけ、俺が金持ちになってちよが楽しく暮らせるようにしてやるっちゃ!」
「…………」

パッと満開の桜のような笑みでそう告げた彼に、思わず口元をきゅっと閉じてしまった。
いや、何も分かってねぇじゃん。





断り続けても平気な顔をして隣に居るので、なんだかもうそういうノリなのかな。と思うようになってきてしまった。
いや、たぶん彼は本気なのだが、毎度本気で断るのも疲れてしまった。
それに、断らなくとも長めの別れは自然とやってくる。彼は新しい土地で新しい人々と交流して、その中でちっぽけな島の幼馴染みのことなど忘れてしまうだろう。
そう、彼は徴兵され、本島へと向かうことになったのだった。

「あっちでも手紙送るさけ」
「……まぁ、届いたら返すけどさぁ」

流石に徴兵される幼馴染みから送られてきた手紙をスルーするなんて鬼畜なことは出来ない。なのでそう返せば、基くんは嬉しそうに破顔した。
基くんは、私以外の前ではこんな風に笑ったりしない。どちらかというと仏頂面で、後は怒った顔が多い。
ああ、本当に私の事がずっと好きなのだな。と思う。

「あのさ、なんで私の事そんな好きなの?」
「変なこと聞くやつやな」
「何も変じゃないでしょ」

何度告白されても断り続けて、全く釣れない相手にどうして気持ちを持ち続けることができるのか。
私には理解できない。正直困惑している。もう私たちも二十歳になり、本当に結婚が身近になってくる時期だ。家からも見合いの話をちらほらとされていて、金持ちでもない家に嫁がされるのかと辟易としていた。
基くんは本当に不思議そうな顔をした後に、そうやな、と言って語り出した。

「俺のこと、名前で呼んでくれるやろ」
「そんなのお互い様だと思うけど」
「あと、喧嘩の時に俺のこと庇ってくれたやろ」
「いつの話? たまたまだよ」
「嫌なことは嫌てハッキリいうのもええな」
「性格キツいって言ってる?」
「そいと、俺に好かれても俺のこと嫌いにならんところ」

――なんだそれは。
つい頭の回転が止まって、口も止まった。

「なんで、嫌いにならないでしょ普通」
「普通は俺を嫌いになるっちゃ」
「はぁ? なにそれ。別に、嫌なことされなきゃ嫌いにならないでしょ」
「そいゆうんはお前だけや」

そう言って嬉しげにする基くんに、なんとも言えない気持ちになる。
私が特殊なんじゃ無くて、これが普通なんだよ。君は良い子で、村八分みたいにされていい子じゃなかった。それだけだ。
唇を噛みしめて、それから彼の瞳を見つめた。深緑の、まだ世間を何もしらない若者の目だ。

「基くん。島の外を見てきなよ。この島の常識が全てじゃないし、この島の人達が全てじゃない。いろんな人と関わって、いろんなことを学んできて」

そう告げれば、子供の頃と違って、すっかり精悍な顔立ちになった基くんは「そういうとこも好きっちゃ」と言って笑った。





彼は一度だけ島に戻ってくる。そのときに一緒に駆け落ちしようと言い残して島を去った。
随分と勝手な青年である。こっちの返事も聞かないで。
当然、彼と駆け落ちなどするつもりはなかった。正直胸打たれるところもあったが、それだけだ。彼は外で良い女性と結ばれるのが一番良い。
そんなことを思いながらも、送られてくる手紙を返す。そして彼が島を去ってから直ぐに戦争が始まった。日清戦争であった。
この時代は混沌の時代である。金があっても安泰とは限らない。けれど金がなければ安心できない。
日清戦争が終われば日露戦争。日露戦争が終われば第一次世界大戦。そしてその次は――。
少し汚れた手紙を眺める。読み書きは陸軍で学んだのか、戦況やこちらの様子を尋ねてくる文字は彼の地頭の良さや優しさを感じる。
彼は、生きて帰るだろうか。もう一度島に戻ってくるだろうか。
彼にもう二度と会えないかもしれない、と思って、馬鹿みたいに今更怖くなった。

「ちよ! 三菱の方があんたを息子さんの嫁にしたいって!」
「……三菱ですか」

聞いたことがある。というか現代でも超有名企業だ。確か金鉱山の採掘をしているのも三菱だっただろうか。島を有る手居ているとき、普段は見かけない中年の男性がいると思ったが、その人だったのだろうか。
大興奮の母には悪いが、私はあまり気が乗らなかった。三菱といったら、もうそりゃあ玉の輿であろう。それは分かっている。分かっているけれど。
坊主頭の青年が頭に浮かぶ。手紙で戦場の過酷さを書きながらも、早く私に会いたいなどと文字にする。
あの子を待たずに玉の輿になど乗っていいのか。

「……すみません、お母さん」
「え?」
「様子見で」

母の発狂する声が聞えてきたが、堪忍してくれ。
流石に、対面で話もせずに勝手に嫁にはいけない。
とっくの昔から、彼の方が先約だったのだから。





「――死んだ?」
「ええ、清国で戦死したって」

そう聞いたのは、彼からの手紙が途切れて少し経った頃だった。
マメに送ってくれていた手紙が届かなくなって、戦況が厳しいのかと不安に思っていた。けれど、そうか。
人って呆気なく死ぬんだな。

間違いじゃないかと、母以外にも島の人達に聞いてみたり、彼の父親にも話を聞いてみたりした。けれど皆同じ事を言って、彼の父は「あいつの戦死を伝えた軍人から貰った」と小さな骨を見せてきた。遺体は持ち帰れなかったから、小指の骨だそうだった。
ああ、小さくなってしまったなぁと思った。初めて出会ったときより、うんと小さい。

何度か、手紙を出してみた。もしかしたら別人が間違って基くんだと思われて、指を切り取られて持ち帰られたかもしれないと。
けど何通送っても返事は帰ってこなかった。
島に戻ってこなくて良いから、生きているってことだけ教えて。と書いたけれど、それでも手紙は来なかった。

ああ、死んだのだな、と納得するしか無かった。

どうして私は意地を張ったんだろう。今になって、彼が死んだ後になって、後悔した。
あれだけ好きだと言ってくるのだから、頷いてあげれば良かった。お金がなくったって、あの子と過ごしているだけで暇も紛れただろうに。いつか死ぬのなら、命がこんなに軽いのなら、死ぬ前にもっと幸せな思いをさせてやりたかった。もっと笑って欲しかった。結婚でもなんでもしてあげればよかった。
私もたぶん好きだったのだ。鈍った脳が気付いていなかっただけで、一等大事だったのに。




少しして、私は三菱幹部の息子の元へ嫁ぐことになった。
嫁いだ先の息子は聡明な男性で、私によくしてくれて、とてもいい人だった。お金もそれなりに自由に扱わせてくれて、島からも出て、いろんな娯楽に触れることができた。明治時代も捨てたもんじゃ無いなと思った。
しばらくして、第七師団の少尉という人が私の元へやってきた。どうやら彼が基くんの上司だったそうで、彼の大事な人だった私に逢いに来てくれたという。島の人々と同じように、彼が死んだという少尉に、髪と一房渡した。彼の墓があるのなら、そこに添えて欲しいと。
許してくれとは言わないし、赦しを乞うような事でも無いと思っている。けれど、後悔だけはずっと胸にあった。だから、もし、次があるのなら。
だから、それは願掛けだった。もう一度、君を会えるように。今生では叶わなくとも、私のように、来世があったのならば。





二十一世紀。桜の舞う麗らかな春の季節である。
満開を迎え、微風でも花弁を落とす桜の木を眺める。普段は使わない通勤路であったが、桜の花が美しいからと今日はこちらを歩いていた。
少し会社に行くまで時間が掛かってしまうが、早めに家から出れば良いだけだ。
二度あることは三度ある、という風に、私の人生も三度目だ。今回は一度目と同じ二十一世紀。スマホも漫画も完備の楽園だ。前世でも玉の輿をしたため、十分娯楽は楽しめたが、やはりここまで娯楽のオンパレードだともうなめ尽くすように楽しんでしまっている。
二度目は満たされた人生だった。三度目は今のところ、ほぼ満たされている。
ただ一つ、見慣れた人の形通りの穴がある。

見上げながらのろのろと歩き、道の十字路で足を止める。車や自転車が来ないかを確認していたら、同じように出勤している男性が目に入った。
スーツを着ているけれど、春の陽気のせいか上着を脱いでいて、ビジネスバッグを持っている。すっきりとした坊主頭で、身長はそんなに高くない。

――彼だ。と、見た瞬間、胸の穴にピタリとはまった。

肩にかけていたバッグを放り出して、ヒールを鳴らして全力で走り出す。
途中、ヒールが変な音を立てたが、気にもならなかった。

「基くん!!」

近所迷惑な大声で叫んで、その声に驚いた男性が振り返る。
そこには忘れもしない彼の姿があって、悲しくもないのに涙が出そうになった。
飛びつくようにビジネスバッグを持っていない方の手を取った。彼が腕に引っかけていた上着が地面に落ちてしまったが、それどころではなかった。
ああ、早く、早く、今生こそは――!!

「基くん! 結婚しよう!!」

そう大声で告げて、それから脳裏にいくつかの考えが流れた。
あれ、彼って前世覚えてる? そもそも基くん、彼女とかいるんじゃない? もしかしてもう結婚してる? 覚えていても私みたいな薄情な女嫌じゃない?
やばい、私頭可笑しい人じゃん。
そう気付いて、握った手が手汗でびっしょびしょになる直前、視界に映った彼の表情が変わる。
酷く驚いて強ばった表情が、岩を崩したように破顔して、泣きそうなのか、嬉しそうなのか分からない風に目を細めながら、花弁を散らす満開の桜のような笑みを浮かべた。

ああ、たぶん、私もそんな顔をしている。

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