- ナノ -

ぐちゃぐちゃ31
空には薄く雲がかかっていて、島の景色は薄らと明度を下げていた。冷たい風が吹き抜けて、苦崎は軽く腕を擦った。
苦崎は風邪を引き迷惑をかけた詫びにと、一人で魚を釣りに出かけた。土の地面を歩いていると、徐々に石が転がり始める。たどり着いた岩場の中で、苦崎の気に入りの場所に足を運ぼうとして、そこに幾人かが集まっているのが見て取れた。
体に虫が這うような感覚がして、二の腕を叩いた。そこに虫はおらず、苦崎は首を傾げながらも、その人集りに目を向ける。他の場所を探そうとして――背中を押されるようにそこへ脚を向けた。
人の後ろから覗き見て、直ぐに何が起こっているかを察する。死体が流れ着いたのだ。
かなり破損が進んでおり、服は切り裂かれ肌は水に膨れて酷い有様だった。肌は血抜きをしたかのような白色で、蝋人形のようであった。
苦崎は顔を顰めたが、それが女だと気づいて無自覚にゴクリと唾を飲み込んだ。服は、この島では珍しく色鮮やかで、島の外からきた人間ではないかと思わせる。
ざわつく胸をそのままに、荒くなる息を収めずに、苦崎は近くにいた漁師たちが死体から少し距離を離した瞬間、飛びつくようにそれに駆け寄った。
囲んでいた島人たちの声には耳も傾けず、苦崎は縋り付くようにその身体に顔を寄せた。
千切れた着物、絡まった黒い髪、膨らんだ顔は元の姿を想像させない。けれど、顕(あらわ)になった腕がひどく綺麗に残っていた。

「違う、ちがう、そんなはず――」

その腕に手を伸ばす、震える指が前腕に浮かぶ黒子に触れる。
ぐに、と死骸の触感が皮膚に伝わる。そのまま、指はその斜め下にある黒子、そして手首近くにある黒子を星座のように辿った。
苦崎は母の顔は忘れてしまっていた。四歳の頃、自我の少ない頃に見ていただけの容姿は掠れてしまった。けれどその、彼を慈しんで愛していたその腕だけは、しっかりと覚えている。
彼の母の腕にある、美しい星座のような、白い空に映える黒い三つ星。
苦崎は逃げ出すように――事実、その場から逃げ去った。
砂浜のある方の海岸まで走って、がむしゃらに走って、砂に足を取られて転がるように倒れ込んだ。
砂まみれになった体が、数秒後に遅々とした動作で上半身が起き上がる。そのまま項垂れて、両腕を砂浜へ叩きつけた。

「少し、考えれば分かったはずなのに、床下なんかじゃなくて、海に捨てるのが手っ取り早いって」

大人と比べても遜色のない身体は、縮まるように丸くなり、駄々をこねる子供のようだった。
彼はどうして、と呻く。

「どうして、今になって迎えにきたんだ……ッ」

砂に塗れ、涙も流さずに苦痛に塗れる彼の声を、漣(さざなみ)がかき消した。

砂浜に蹲っていた苦崎が、のっそりと立ち上がる。
転んだ拍子に転がった魚釣りの道具を回収して、そのまま先ほどの場所とは異なる釣り場へと歩き出した。
歩くたびに身体についた砂が落ちていく。その砂と共に、身体の皮膚が剥がれるように、彼の中の何かが剥がれていく。

「……奪わせてたまるか」

足を引き摺るように動かしながら、そう呟いた。
彼にはもう、一つの道しか見えていないようだった。

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