- ナノ -

ぐちゃぐちゃ30
片付けないと、と苦崎はぽそりと口にした。そうしてノロノロと鋤を動かし始めた。
その様子を、何もできずにしばらく見つめていた。近寄れなかった。
しかしずっと同じ動きをし続ける彼に、苦崎への心配が上回る。体をどうにか動かして、月島は彼の元へと近づいた。
床下に立つ彼は、ゆったりとした動きで掘った穴を埋めていた。しかし地面に鋤で絵でも書いているように、意味のない使い方をしている。

「……畢斗」

名前を呼べば、彼は月島の方へ亀のようにゆっくりと顔を向けて、小さく微笑む。

「どうした」

いつもより柔らかい声色に、先ほどの怖気が蘇りそうになり、月島は咄嗟に首を振ってそれを追い出した。

「どうしたはこっちの台詞っちゃ」
「はは、」
「……畢斗?」
「ふ、はは、基がいる」

鋤を動かしながら、そう小さく笑う苦崎に、月島は顔を歪めた。しかし彼はそれが見えないかのように「月島基が、いる」と月島から目を背けて笑みを浮かべながら呟いた。その瞳が、ぐらぐらと揺れていると今度こそ理解する。飛びつくように手を伸ばし、しかし触れる一瞬前に逆に引かれたように動きが止まった。

「片付けないと……」

そう呟いた苦崎は、月島の行動に気づいていなかった。それに空に浮かせていた手で彼の腕を握る。
握った腕に、月島は目を瞬かせた。ひどく熱かった。ハッとして顔を見れば、腕を掴まれた苦崎が月島を見ていたが、その顔全体がほんのり赤くなっている。熱があるのだ、とその時ようやく気がついた。
小さい頃、冬に家を追い出され基地で過ごしていた頃はよく月島も苦崎も熱を出すことがあった。しかし、十歳を過ぎた頃からは体が強くなったのか熱を出したことは互いにない。
以前、月島は苦崎に教えられたことがある。まだ苦崎の口調が柔らかかった頃だ。
咳や喉の痛み、熱やくしゃみなどの症状が出る病気を「風邪」という。症状が軽ければすぐに治るが、ひどいと命に関わることもあると苦崎は口にした。

「畢斗っ、そこはもうええから上がれ!」

鋤を奪い取って床に放る。そのまま自分より大きな体を後ろから抱えて、魚を引き上げるように床下から引っ張り上げた。
土まみれの床に転がしても、苦崎は驚いたような声はあげても文句を言ったりはしなかった。転がった自分の体をゆっくりと――いや、力が入らないように起き上がらせようとしている。

「おめ、熱あるやろ」
「……熱?」
「風邪や。俺が部屋は元に戻しておいてやっから、おめは寝てろ」

いや、でも、と虚な目を揺らしながら口にする苦崎を無理やり引きずり部屋の外へ転がす。
転がった苦崎は、何かを言っていたものの起き上がる力がないようだった。月島は急いで部屋を掃除した。この状態であの男が帰ってきたら、どんなことになるかわからない。どうにか土を床下に全て落とし、床板を元に戻す。開けられた収納を土を払って全て閉まった。元から汚いのが有難いと思ったのは初めてだった。
片付けを終えた後に、自分達の寝床用の布をかき集めて苦崎を寝かせた。その頃には意識がはっきりしたのか、焦点の合った目で苦崎が月島を見た。

「すまん……。世話をかけた」
「別にええ。体調が悪りぃなら先に言えっちゃ」
「ああ……調子悪かったんだな、俺……」

はは、と皮肉っぽく笑う姿に、思わず息をついた。いつもの彼だ。

「おめはここで寝てろ。俺が欲しいもん持ってきてやる」
「……ありがとな。けど、平気だ」
「なんゆうとるんじゃ」

思わず顔を強く歪める。熱があるのに、風邪だというのに何を言っているのか、ひどいと命に関わると言ったのは彼だというのに。
苦崎は何か言おうとして、顔を逸らしてゲホゲホと咳をした。

「風邪が移るから、俺が治るまで別のところで過ごしてくれ。今日までいた秘密基地以外がいい」
「……一人で治せんやろ」

風邪が移るのは聞いていた。だがそれとこれとは話が違う。
しかし苦崎は頑として頷かなかった。

「いいから頼む。っ、げほっ、はぁ」
「もう喋んな! いい加減にしろっちゃ」
「……ああ、すまん」

苦崎はぐっと体を持ち上げて、よろめきながらその場に立ち上がった。それに驚き、ともすれば倒れそうな苦崎を支えようとする。その手を強く掴まれた。

「畢斗?」
「ありがとな、基。けどすまん。落ち着いて風邪を治したいんだ」

そう言って、肩を掴まれて無理やり方向を変えられる。驚いているうちに、背中をグッと押された。倒れないように一歩足を動かした先は家の出入り口だ。

「は、おい!」
「すまん、頼む。俺のためだと思って」
「何がおめのためじゃ!」
「うん。ゲホッ、ぐぅ……いいから」

熱があって苦しげな咳もしているくせに、力だけは嫌に強い。
弱った相手に、本気の抵抗をするのを躊躇しているうちに、土間に押し落とされる。

「おい……!」
「じゃあな」

そう口にして月島の下駄を投げ渡す。頭に当たりかけたそれをぶつかる前に両手で掴んだ。
睨むように見上げると、框の上に立つ苦崎が汗を流して息を荒くしながら、ひらりと手を払うように振って月島から目を逸らした。もう話す気はないという意思表示だ。
そのまま背を向けようとする彼に、下唇を噛み締める。
何が「俺のため」だ。風邪が移るから、と苦崎は言った。結局、月島にために居てくれるなと言っているのだ。

「っ、様子見にくるかんな!」

聞こえているのか聞こえていないのか、苦崎はふらふらと布の塊に歩いて行って、そのままゴロリと横になってしまった。
玄関の戸を潜る。最後に一度だけ振り返ったが、彼は月島の方を見もしていなかった。
叩き壊す勢いで戸を閉じる。頻繁に様子を見にきてやると拳を握りしめながら、仕方なく、月島は家を去った。



苦崎が熱を出し、家から追い出されてから月島は毎日家を訪れてやった。
眠っている苦崎を起こさぬように静かに戸を開けて、食べ物を置いておいた。彼はぐったりとしていて、月島が訪れた時に目を開けることはなかった。赤らんだ面持ちで荒い息をしている苦崎に、死なないかと不安でいてもたってもいられなくなったのを彼は知らないだろう。
月島が訪れた時、奥の部屋にいたあの男が「そいつを外に放りだせ」やら「すぐ死ぬやろうから鳥の餌にでもしてまえ」と喚いたことがあった。苦崎を起こしたくなくて、その煩わしい声を聞かせたくなくて彼の耳を塞いだ。月島が憤怒を滲ませて睨みつければ、すでに彼らに素手では勝てなくなっていた男は舌打ちをして奥へと去っていった。
三日が経過し、月島が家の中に入る前に戸が開いた。そこにはすっかり顔色の戻った苦崎がいて、あっけらかんとした顔で「治った」と笑って告げた。
体調の良くなった苦崎と共に、井戸に行って水を汲んだ。汗まみれで気持ち悪りぃと愚痴る彼の風邪は、確かに完治しているようだった。
治ったけど、まだあんま近づくな。と意味のわからないことを言う苦崎に、意地でもいつもの距離を保つ。そんな月島に、最初は同じことを繰り返し口にしていた苦崎だったが、体を拭いて基地へと行く頃には諦めたのか、そのことは言わなくなった。

「迷惑かけたな、すまんかった」
「本当や。もう体はええんか?」

謝罪は聞きたかった。無理やり追い出したことについても。しかしそれを言い出すと病み上がりの苦崎と口論になるような気がして、月島はとりあえず謝罪を受け取った。それよりも体の具合を知りたかった。見た目はよくなっているが、見えないところで何かあるかもしれない。
苦崎は軽く笑みを浮かべて首をコキコキと鳴らしてから言った。

「あぁ、すっかり良くなった。時々飯置いてくれてただろ。ありがとな」

時々。
時々ではない。月島は毎日、こっそりと中に入って食べ物を置いていた。早く良くなれと呪いのように念じていた。一回たりとも欠かしたことはない。
熱のせいで記憶が曖昧になっていたのだろうかと考えて、あの男の姿が頭に浮かんだ。
虚空を射殺さんばかりに睨みつけかけて、月島は瞬きをしてそれを誤魔化した。

「追い出しておいてよくゆうっちゃ」
「移ったらお前も大変な目に遭ってたんだぞぉ」

そう茶化すような言葉が頭に来る。月島が手加減はしつつも怒りを乗せて、苦崎の横腹を肘で小突いた。
ゲホ、とその痛みに咳き込みつつも、風邪の時とは明らかに違う咳をする彼にとりあえず怒りは落ち着く。
苦崎は小突かれた場所をさすって、それからそのまま懐に手を入れた。出てきたの蜜柑色――かなり色褪せてしまっているが――の巾着だった。
その袋は平らで、中に何も入っていないことがわかった。それは以前から知っていたことだったが、月島は「いつ中身を捨てたのだろう」とそれを見ると頭によぎる。そして同時に、自分に呆れ、その疑問を飲み込んでいる。
それは、と尋ねる。小さな頃はよく見ていたが、彼がこうして取り出すのは随分久しぶりだった。

「カカにもらった巾着だ。女々しいよな、いつまでもこんなもん持っててさ」

何かそういう玩具のように、紐部分を持って巾着を揺らしている。そうしている苦崎が、寂しげに見えて言葉が口をついて出た。

「んなことねぇ」

よくよく見てみれば、随分汚れている。それでも巾着の形を保っているのは苦崎が大事に扱っていたからだろう。
女々しくなどない。月島も、大事な人からもらったものは、大切にしたい。苦崎や春見からもらったものは、守るように大切に扱いたかった。
苦崎にとっては彼の母がそれほど大事な存在なのだ。きっと月島よりも。
熱に浮かされていた苦崎があれほどに取り乱した理由は、母だったのだろうか。母が帰ってきたと思って、あの男から暴力を振るわれたと思ったのだろうか。
しかし、だからと言って、床下を掘ることには繋がらない。熱に惑わされ、見えないものでも見えていたのか。
けれど、細かく理由を聞く気にはならなかった。ただ、彼がこれ以上あの男によって苦しまないとわかればいい。
ぶら下げていた巾着を、昔に比べて随分と大きくなった手が包む。血管の浮き出た、男らしい手だった。

「いつか、カカに見せてぇな」

思い出を閉じ込めるように目を伏せる苦崎に、そうなればいいと心から思った。
普段は聞かない、とても静かで、少しだけ細い声だった。
大人になったら――この島を出たら、彼の母親を探そう。見つけ出して、彼と引き合わせる。彼にとってはありがた迷惑かもしれない。それでも、知ったことかと思う。ただ、大事な家族の願いを叶えてやりたかった。
けれど、彼の母が見つかったら、苦崎はそちらに行ってしまうのだろうなという予感があった。今のクソッタレの父親がいる月島家より、愛する母のいる苦崎家の方を彼は望んでいる。頑なに月島の姓を名乗らないのはその意思表示なのだろうと、それなりに物が分かるようになってから察していた。
そうだとしても、

「そうすりゃええさ」
「……そうだな」

笑いかけてやれば、苦崎は眩しげに目を細めた。その奥で、母を想う苦崎の瞳は、海の水面のようにキラキラと光っていた。

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