- ナノ -

ぐちゃぐちゃ29
名前の呼び方について尋ねた翌日のことだ。その日、思えば苦崎は朝から様子がおかしかった。
隣の物音で目が覚めると、苦崎が青い顔をしているように見えた。どうしたと問えば、彼は、いや、とだけ言った。
それ以降はいつも通りに思えたが、様子が変わったのは海へと魚釣りをする為に二人で歩いていた時の事だった。いつものように遠くから指を指されつつ進んでいく。
そうして二人で歩いていた時、前の道から男が――父親が歩いてきたのだ。男もこの島に住んでいるのだから、家以外ですれ違うことは度々ある。最近は荒んだ生活のせいで体が衰え、月島たちは十分に力をつけて暴力は振るわれないように――振るわせないようにしていた。それに鬱憤が溜まったのか更に酒に逃げ、暴言を吐いている。醜悪と言う言葉を絵に書いたような男だった。
方向的に、今日は海の方へ出かけていたようだった。
目も合わせずにすれ違い、しばらく歩く。嫌なものを見たと記憶から消そうとした時に、苦崎がポツリと呟いた。

「怪我をしていた」
「あ? ……あいつのことか?」
「……手に、血が」

あいつが怪我をしていたからなんだと言うのだろう。いい気味だと思うことあれど、それ以上のことは無い。月島が気づかなかったのだから、それほど大きな怪我では無いのだろう。
よもや心配などしてはいないだろう苦崎に、月島は首を傾げた。足を止めて動かなくなった彼に、一歩近づこうとした時、その瞳がぐらぐらと揺れているように見えて困惑する。

「あ、あぁ、俺、家に用事を思い出した」
「うちに? けど、今はあいつが戻って――」
「家に戻る。家に戻る、すまん、家に戻る」
「おい、畢斗!?」

あの男の行き先はおそらく家だった。他に行先もない男だ。それは苦崎もわかっていただろう。しかし月島の言葉を遮り、挙動不審に同じ言葉を繰り返しながら苦崎は踵を返した。
声を上げる月島に見向きもせずに走り出した彼に、咄嗟に手を伸ばす。だが、それが届く前に、背が勢いよく離れていく。
その後ろ姿を呆然と見つめていた。

その背が見えなくなって、月島は頬を打たれたように正気に戻った。
家に戻る、と言っていた。用事を思い出したと。しかしそんな用事などあるはずもない。ここ最近は共に行動していて、月島は彼が家に用事などないことを知っている。しかも父がいるかもしれない家になど。なら、用事というのは嘘の可能性が高い。
嘘――また嘘をついている。
苦崎は様子がおかしかった。それも、前からやってきたあの男を見て。
気づいた時には走り出していた。何があったかはわからない。ただ、ひどく胸がざわついて、早く、苦崎に会わなければという焦燥だけで、月島は駆けていた。

行き着いた家には、あの男はいなかった。ただ、下駄も脱がずに奥の部屋にいる苦崎がいるだけ。
その彼は、すっぽりと床下に下半身を沈ませて、泥だらけになっていた。それと同じように、奥の部屋――そして土間の一部が――土に塗れていた。
彼は、月島が家にやってきてもひたすらに床下を鋤で掘り返している。よくよく部屋を見てみれば、棚や扉が開けられたままになっている。床板の一部が取られ、無造作に置かれていた。
苦崎はひどく顔を歪めて、歯を食いしばって、ともすれば泣き叫びそうな面持ちで鋤を振りかざしている。
月島は背筋が凍るような心地に襲われた。脳裏に、勢いよく言葉が通り過ぎる。

どうした、何があった、
また、
またあいつが、何かしたのか。
また、お前を傷つけたのか?

しかし、その全ては強烈な不安に飲み込まれるように掻き消える。

「畢斗」

違うと言って欲しかった。
そうでなければ

「なんしてんだ」

どうして家をこんなにした? 何かを探しているのか? それは土の下にあるのか? 何がある? 何が――埋められてる?

絞り出したほんの一部の浅い言葉は、苦崎の耳に届いた。ひたすらに地面に釘付けになっていた瞳が月島を映す。けれど頭巾を被った彼の目元が暗くて、彼の顔はまるで真夜中の深い海のようだった。
恐ろしいと思った。月島が彼を恐ろしいと思うのは、二度目だった。
一度目は、彼からの贈り物を真っ二つにしたあの日。その時は、月島の何かが轢き潰された。
では、二度目は

「なんか、あんのか」

それでも聞かずにはいられなかった。なぜならそれは、月島の父が行ったことかもしれなかったから。
丸まっていた背がのろりと伸びてゆく。それは、奥の見えない洞窟のような場に不釣り合いな、太陽に照らされた花のようだった。
土を被った頭巾を、彼が掴んで剥ぎ取った。美しい黒髪が流れ、そうして嘘のような――幼いあの頃のような笑みがその顔に浮かんで、月島は息を止めた。ぞわりと懐かしい怖気が背筋を駆け抜け、そして隙間の空いた胸へと失せる。

「何もなかった!」

無垢で無邪気で心底嬉しそうな、そんな笑みだった。

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bkm