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ぐちゃぐちゃ25
春見が母から告げられた言葉は、到底看過できるものではなかった。
彼女の母が、外で自分の娘が遊んでいる子というのが悪評高い子供らであるとようやく気づいた。それを知って、母は彼女にもう二度とその子供らと会うなと叱りつけた。自分から外で遊んでこいと放り出して、遊ぶ相手が気に入らなかったら会うな、なんて到底受け入れられないと春見が口答えをすると、母は春見を部屋に閉じ込めてしまった。
しばらく部屋から出さないと告げた母に、反抗心をメラメラと燃やした春見は、一夜を明かし風の治まった早朝、誰にも知られぬように部屋から抜け出して、そのまま家からも脱出してしまった。意図して黙って家から出るなど、春見は初めてで、心臓が飛び出るんじゃないかというほどに緊張した。だが、それでも成し遂げた。脱出が成功したのは、今まで機転が効いて、頭の良い友達二人と遊んで学んでいたからだ。と春見は自分の成し遂げたことを誇らしく思いながら、島を歩いた。家を出て、行先は特に決めていなかった。人のいない、陽の上がりかけた美しい空を眺めながら、秘密の基地へ行こうと足を向けた。
やってきた基地は、春見が特に気に入っている林の中にある小屋であった。静まり返って、まだ動物たちも動き出す前の林を歩いて行って、小屋にたどり着く。そのまま入口を潜ろうとして――先客がいたことに気づき、目を見張った。

「……苦崎ちゃん?」

横になっているのは、見慣れた少年であった。布を被った彼は、懐を握りしめながらも、疲労しきったように横になっていた。
寝ているのか、と思うほどに力が抜けていた体が、ビクリと震えて、驚いてしまう。
春見は苦崎を避けるようにしながら、小屋の中に入った。
起きているらしい苦崎だったが、何も言わずに片手で袋を下から引っ張った。その動きに違和感を覚えて、春見の顔が曇る。苦崎はいつも頭を布で覆っていた。しかし苦崎はそうであることが当然のように振る舞っていて、袋が脱げそうになっても至って冷静に付け直していた。
それなのに、今はまるで顔を隠すように――何かを恐れるように布を強く握っている。

「どう、したの?」

なぜ、何も話してくれないんだろう。どうしてそんな、怖がっているの?
苦崎は何も言葉を発しない。ただ布を握りしめて、春見からまるで逃げるように体を縮こまらせた。
年相応に節ばった、けれどまだ細い脚が着物の裾から伸びている。なぜか、下駄を履いておらず、葉で切れたのか、赤い血が滲んでいた。そしてどこか、じっとりと汗ばんでいる。
春見はなんだか不安でどうしようもなくなり、つい苦崎をじっと見つめてしまう。何か、言ってくれないのだろうか。
小屋までやってくる際に乱れたのか、着物の合わせがひどく乱れていた。帯も無理やり巻き付けたかのようで、少し引っ張ってしまえば解けるか、腹を絞めて痛めそうな塩梅だった。
何も言わず、みじろぎしかしない。

(どっか、怪我しとるんやろか)

苦崎は大人っぽかったが、冷たいわけではない。むしろ気遣い屋で、春見の小さな言葉も見逃さず、ちゃんと返事をしてくれる少年だった。
そんな彼が、返事をせずにただ息を潜めている。言葉も出ないほど、痛みがあるのかもしれない。

「なぁ、おい、基ちゃん呼んでくる」

怪我をしているなら手当をしなければいけなかったが、こんなに辛そうな相手に対して春見は自分が何かできるとは思えなかった。
手当なら月島が一番上手だった。それは苦崎も認めるところで、よく彼も怪我をしたら手当をしてもらっていた。それに、なんだか今の彼は、春見に近寄られるのが嫌そうに見えた。
春見が腰を上げようとした時に、横になっていた体が動いた。
傷を庇うように、軋んだ動作だった。咄嗟に手助けをしようとして伸ばした腕を、着物越しにぐわりと掴まれ、春見は震えた。
袋が目の前にある。しかし、その顔は俯いていて、茶色の瞳は見えなかった。

「おねがい」

聞き慣れた、聞き慣れない声がした。
か細くて、漣に攫われてしまいそうなほど小さなそれが、袋の奥から響いている。

「はじめには、なにもいわないで……」

小さな小さな子供が、親とはぐれて啜り泣くような呟きだった。
声を失って、目の前の袋の子を見つめた。この子は――一体誰なんだろう。
そんなわかりきった疑問が脳裏によぎって――あの時の光景が頭に広がった。
あの時の――春見が初めて秘密の基地を見つけて、隠れて覗き見をしてしまっていたあの――坊主頭の少年と袋の子が穏やかに話をする光景。
今の苦崎とは違って口調が柔らかかったあの子。あの袋の子が、今――泣いて、いる。

「い、わない、言わない、から」

泣かないで、とは声が続かなかった。袋ごしでも、その子が涙を流していないとわかったからだ。
鼻を啜るような音も、引き攣るような息も聞こえない。袋は涙に濡れてなどいなかった。
それでも、掠れて弱々しいその声は、あまりにも傷ついているようだったから。

「ちょっと、ちょっと、待ってて」

そう言って、その子を置いて小屋を出た。掴まれていた手には、全く力が入っていなかった。
そのまま混乱する頭のまま、家まで駆け戻った。大きな音を立てて家に戻った春見を、彼女の母が音に気づいて起き、彼女を見つけて叱りつけても、春見は聞く耳を持たずに布をいくつか手に取り、それを水瓶に浸してから絞り、再び家から飛び出した。
途中まで追いかけられた気もしたが、後ろなど気にする余裕はなかった。
再び戻った小屋に、ぐったりと横になった袋の子がいるのを確認して、春見は手につかんできた布をそっと差し出した。

「なぁ、どうしたらええ? 家から、布、持ってきたけど、どうしたらええか、わからん」

月島は傷の部分に布を巻いたり、汚れを拭き取ったりしていた。
家から布をいくつか持ってきたが、どこに怪我をしているかもわからない春見は、なにをどうしていいかわからない。
袋の子は少しの間動かなかったが、ゆっくりと体を起こし、それから濡れた布を手に取った。そしてその布を、春見の着物に当てた。驚いた春見だったが、その手で汚れを拭うように動かされているのを見て、ふと彼女は思い出した。
――確かそこは、彼に「言わないで」と告げられ手を掴まれた場所。
どうしていいかわからず、春見が動けずにいれば、満足したのか彼は春見の着物を拭う手を止めた。
そうして、自分の袋に手をかけた。あ、と春見が思う間に、袋が引っ張られて、黒髪が現れる。
肩ほどまでの長い黒髪が絡まってうねっていた。その下から、雪のように白い肌が見える。涼やかな眉と大きな瞳。そこから伸びる長いまつ毛。高い鼻に艶やかな唇がある。あまりにも美しく整った容姿は、疲れ切ったような表情をどこか扇状的に映えさせていて、春見は無意識に唾を飲みこんだ。
片手で布を首元に抑えたまま、苦崎が言う。

「……体を拭くから、後ろを向いてもらっていいか」
「あっ、ご、ごめんっちゃ」

慌てて顔を逸らした後ろで、苦崎も春見に背を向けた。
手に持った袋を膝に置いて、濡れた布を首元に押し当てる。
春見が手に持ったままだった乾いた布の存在を思い出して、いつものように声をかけようとしてしまって、慌てて言葉を押し込んだ。ただ、チラリと送ってしまった視線が、苦崎の背を捉えた。着物を少しはだけさせ、首元に布を当てているようだった。
目に入ったそれに、悲鳴を上げかけて春見は手に持った布を強く握りしめた。頸(うなじ)が、血に濡れているように赤かった。いや、そこだけではない、きっと前側にもあるのだろうと確信させる、広い鬱血痕。
子供の喧嘩でつくような小さなものではない――大人に、やられたんだ。と理解してしまう。暴力の痕だった。
誰にやられたの、なにがあったの、痛くないの、傷はそれだけなの――? さまざまな疑問や不安が駆け巡り、布を握った手がガタガタと震えた。その跡を見ていられず――きっと彼もあれを見られたくなかったのだろうと気づいて――視線を前に戻す。
息を潜めるような時間が続き、そうして背後からの声かけに、海の底のような時間がようやく終わりを告げた。

「この布」
「ぇ、ぬ、布?」
「後で、どうにかして新しいのを返すから、もらっていいか」
「そ、そいはもちろん、ええけど」

自分のものではなかったが、家に持ち帰るつもりは最初からなかった。
春見が肯定で返すと、小さな声で「ありがとう」と感謝の言葉が返ってきて、恐る恐る後ろを振り向く。
そこには襤褸布をかぶって、着物を整えた苦崎の姿があった。首元は、布を深くかぶっていて、前も後ろも隠れているようだった。

「苦崎ちゃん、」

友達が、何か、大変な目に遭っている。辛い想いをしている、助けを、求めている。
そう思って、春見は絞り出すように声を出した。けれどそれは、春見の横を通り過ぎた彼によって霧散する。

「またな、ちよ」

去り際にそう言って、彼は小屋を出ていった。
春見はなにも言えなかったし、追いかけることもできなかった。
手にした布を、ただただ握りしめていた。

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