- ナノ -

ぐちゃぐちゃ18
一人で家へやってきた苦崎は、静かに玄関の戸を開けた。
その日、父親の機嫌の悪さに暴力の気配を感じた苦崎と月島は、家の近くにある秘密の基地へ数日退避することに決めた。その際に必要な食糧を手に入れるため、苦崎は一人で家にやってきたのだった。月島は海での食糧の調達。家に父親がいることを知っていた苦崎は、釣瓶で開けられた戸の穴から、父親が横になっている姿を確認する。それが動かないのを見て、すぐに基地へ戻ろうと食材の置かれている台所に身を屈ませた。
苦崎が台所を調べ始めた後、それを見つめる視線があった。台所の奥。部屋の中から苦崎を認め、音を立てずに起き上がる。自分で開けた戸の穴から、じっとりと台所を探る子供の背を見下ろした。そうして蛇のように、その腕で小さな肩を握りつぶすように掴んだ。

「ぎゃッ!?」

カエルが潰れるような声を出した苦崎は、襤褸布を被った顔で振り向く。それにもう一本の腕も穴から通して胸ぐらを掴んだ。男はそのまま戸に空いた穴から子供を部屋へ引き込もうとしたが、流石に穴が小さすぎると気づき、胸ぐらを掴んでいた片手を離して戸を開けた。
その間に暴れて逃げ出そうとしていた体を、開けた戸の隙間から胴体を鷲掴みにし、痛みに叫ぶ声を聞きながら部屋へ引き摺り込んだ。
男は憤怒していた。このガキが気に入らない、憎らしい。憎悪であった。
床に叩きつけるように押し付けて、襤褸布を無理やり剥ぎ取った。そこから現れたのは、輝かんばかりの美しく愛らしい顔だった。床に散らばった黒髪は細く滑らかで、痛みや恐怖に歪む表情も、そうあっても美しくなるように誂えたかのように完璧である。
男であるはずの子供は、まるで穢れを知らない幼女のように柔らかく、初々しい。その顔を見て、男は脳が焼けるような怒りに歯軋りをした。
その子供の顔は、あの母親に似ていた。この金食い虫を男の元へ置いて行ったあの忌々しい売女に。女は愛嬌はあったが、ここまで完璧な容貌ではなかった。だが確かにこの顔はあの女を思い出させる。家でこの面持ちを見るたびに、男は自身が女に騙され捨てられ、そうしてガキを押しつけられた現実に発狂しそうだった。元から怒りに支配された脳の中で、一際忌々しい。自身の子供と同じ程に憎々しかった。

「勝手にうちをちょろちょろ動き回りやがって、盗みしかできんクソネズミが、またうちのもんを奪っていこうとしたんやろうが。知っとるぞ。そん顔でなんでも許されると思っとるんか? 男のくせして気味の悪い顔じゃ。くそ、ふざけやがって、あの女、一度も抱かせずに消えやがって、許さんぞ。おめもそうやろ? はよゼニの代わりに払え、そいしかできんやろ」

子供の小さな体を足で潰すように押さえつけながら、乱れた着物の隙間に手を這わす。
ギクリと震えた体に、男の顔に歪んだ笑いが作られる。男の視線が、苦崎が台所から握ってきた箸に向けられた。何かしてくるかと思ったが、その手はブルブルと震えていて、今にも箸を取りこぼしそうなほどだった。怒りが快感へと変わる、脳が痺れて涎が湧き出る。男は荒くなった息のまま、その手を白い肌へと這わせていく。ヒィ、と悲鳴をあげた子供に、鬼畜へと成り果てた己の顔を近づけた。


一人、家に向かった苦崎の帰りが遅いのを月島は気づいた。
一緒に行くと言ったのに、言い逃げするように去っていった苦崎にむすりと眉間に皺が寄った。急ぎというわけではない、家も海も、一緒に調べたほうが食糧も手に入るはずなのに。

「……迎え行くか」

手に持っていたワカメを基地に置く。海水に濡れた手を着物でゴシゴシと拭いて、道中島人に絡まれた時のため、苦崎にもらった棒を持って基地から出た。
最初は歩きだったが、途中から駆け足になる。基地での泊まりは大変なことも多いし、時には家にいるよりも過酷なこともあったが、それでも苦崎と二人きりなのは月島にとって楽だったし、喜ばしかった。下駄が地面を踏む音を聞きながら、基地に戻ったら以前に最後まで聞けなかった話の続きを聞こうと、ふと思った。邪魔な大人がいないから、色々なことを話しながら物語が聞けるはずだ。
運よく面倒な島人には出会わず、棒の出番はなかった。早く苦崎を連れて基地へ戻ろうと、家へとひた走る。
すぐに見えてきた家の玄関の扉は開いていた。駆け足から早足に速さを落として、中を覗き込む。

「みな、と」

中に――大きな芋虫がいた。
奥へ続く扉が中途半端に開けられていて、そこから大きな体の芋虫が背を丸めて蠢いている。
何事かをブツブツと呟きながら動いていたそれに背筋が泡立つ。それは、芋虫が己の父親だと認識したためでもあった。
その物体に潰されるように、真白い何かがはみ出ている。

「さわる、なぁ……ッ!」

聞き慣れた声が、悲鳴のように耳に入ってきて、遠のいていた聴覚が戻る。
あの真白いあれは――あれは、苦崎の足だ。膝まで押さえつけられ、動かせずにいる。

(みなと、みなと、みなと――!!)

「みなと!!」

それから先は、ただ考えるより先に動いた体に従っていた。
飛び出した先、父親が振り向く前に握っていた棒を振り抜く。バキリと重い音がして、棒が真っ二つに折れたのが見えた。
汚い声が聞こえ、斜めに倒れ込んだ男の下に、彼女が見えた。目を見開いて月島を見る苦崎に、大きな傷はないようであった。その姿に手を伸ばす。
顔を歪ませながら起き上がった苦崎が、月島の手を取った。それを思い切り引っ張り上げて、その場から駆け出した。
後ろは振り向かなかった。折れた棒と、握った手の感触を強く握りしめる。二度と、二度とあんなところに帰るものかと心のうちで叫んだ。


月島は当てもなく走り続けた。ただあの家から、あいつから彼女を離れさせたい。それ以外なかった。
家の近くの基地も、遠くにある海辺も、どこに行ってもダメなような気がした。ただ、大事な少女を守るために遠くへいかなければと。
きっと――きっとこの島にいてはいけないのだ。佐渡島の外にも村があり、営みがあると月島は苦崎から聞いていた。この島は日本の一つの小さな場所に過ぎないと彼女は言った。なら、この島から出ればいい。ここにいる限り、きっと自分達はあの暴力の近くに居続けることになってしまう。
島の外など、話で聞くだけだった。想像もつかない。それでも、ただの子供でも、二人でなら。
小さな足が地面を駆ける。本当の本当に、二人だけで過ごす。きっと大変で辛いだろうに、それでも、それでも月島にはそれが一番いいように思えた。彼女にとっても――自分にとっても。
けれど――どこへ走っていけばいいのだろう。

「どこ行くの」

ただ遠くへと走って、息が続かなくなり、足が緩んで歩き始めた。当てもない逃避行を止めたのは、後ろを歩いていた苦崎だった。
どこへ行くなど決めていない。自分一人では考えられない。彼女と相談して、決めないと。きっと自分では考えつかなくとも、彼女なら何か思いついてくれると、そんな気持ちがあったから。

「さっきは、ありがとう」

どこか平坦な声が感謝の言葉を告げる。月島が振り返ると、繋いでいない方の手で強く口元を拭う苦崎の姿があった。着物の裾で擦っていて、赤く腫れそうな勢いのそれに思わず掴んでいた手を引いた。

「だいじょぶか」
「うん、大丈夫だよ」

解放された口元は、赤らんでしまっていて痛々しい。
大丈夫だと言って笑った表情に、月島は強い違和感を覚えた。襤褸布がないため陽の光に照らされている面持ちは、どこか硬くて、氷のようだ。
大丈夫じゃないのだ、と気づいた。初めて見る苦崎の表情だった。背中に冷たいものが流れる。どうして大丈夫ではないのに、嘘をつくのだろう。

「……なんされた」

月島が見たのは、動けないように馬乗りになられている苦崎の足元と、父親の背中だけだった。
暴力を振るわれていると思っていた。けれど不思議なほどに苦崎の肌には殴られたあとはない。手首に抑え込まれた跡はあるが、見てわかるものはそれぐらいだった。けれど、まだ何もされていなかった――と思うには、あまりにも苦崎の態度が冷たかった。
月島はわかってしまう。酷く傷ついた時、自分でも処理ができない時、痛む傷を誰にも触れられたくなくて、自分の殻に閉じこもる。
それに触れていいのかわからなかった。だが、月島は半ば衝動的に触れたいと思った。彼女の負った傷ならば、自分が手当をしてやりたかった。
苦崎は何も言わず、しばらく黙った。そうして徐々に、沈むように顔を伏せていく。荒んだ黒髪が顔にかかって、表情が見えない。
そして、少しして顔が上がった。張り付いた笑みに、血管が浮かんでいた。

「あの人殺しのクソ変態野郎に犯されかけただけだよ」

月島には――よく、意味が分からなかった。
単語ごとの意味は、分かるものもある。あの人殺し――父親のことだろう。人を殺したという噂がある。けれどそれを今まで苦崎が口にしたことは無かったと漠然と思う。その後が段々と、意味がぼやけていく。ただ、全て悪い意味なのだろうということと、彼女は『おかされかけた』らしいことしか分からない。
分からないところを尋ねれば、いつも嫌な顔ひとつせず苦崎は答える。けれど、これは――聞いてはいけないのだと、どこを見ているか分からぬ澱んだ瞳に理解してしまう。

「本当に気持ちが悪い、あのクズ野郎。私が男だって分かってるだろうに、女の代わりにしやがって」

歯止めが壊れたように動く口に、月島はどこか目の前に透明な壁があるような感覚になる。
すぐ近くにいるのに、触れているのに苦崎が遠くにいる。眼前の子供がよく知った彼女ではないような。
それを確信づけるように、彼女は自分を男と言った。しかし月島はふと思う。苦崎は自分のことを女と言ったことは一度もないし、月島も苦崎に確認したことがない。
柔らかな雰囲気や口調、少女のような容姿から、月島が勝手に女だと考えていただけだ。思えば、最初から着ていた着物も、女物にしては落ち着いた色合いだった。
苦崎は、目の前の月島の存在を分かっているのかいないのか、口元を歪ませて言葉を続けた。

「本当に、ガキの、しかも男相手に、どんな色欲魔だって話だ。犯罪者、気色悪い、殺してやりたい」

じわり、と手のひらに冷えた汗が滲んだ。
彼女――いや、彼の口から出てきたことの無い単語が嘘のように飛び出てくる。
やはり分からない単語もあったが、ほぼ理解出来た。つまり苦崎は――あの父親に対して、殺したいほど怒っている。
それは、子供の、男である苦崎に何かをしようとした為だ。
背筋に背や汗が流れ、月島は汗に濡れた自分の手が汚いように思えた。砂だらけでも、傷だらけでも何も考えずに握ってきたのに、どうしてか触れていられずに手を離す。

――汚い、きたなくて、気持ちが悪い。

そんなこと、月島は苦崎から言われていない。濁った双眸はこちらを見ていても、その先はあの父親を見ているのは明白だった。それを分かっても、月島の胸は何か大きなものに踏み潰されるような感覚になる。
彼の恐ろしいとも見える側面を垣間見ても、苦崎に抱いている想いに変わりはなかった。苦崎畢斗は月島にとって守ってやりたい相手で、家族で、そうしてただ、一緒に逃げてやりたいと、ずっと共にいたいと思う相手だ。そうしてそれは、『彼女』が『彼』であると分かっても同じだった。けれど、家の隙間から凍えた風が入ってくるように考えてしまった。

最初から苦崎が『彼』だと分かっていたら、自分は同じ気持ちを抱いていただろうか? と、

そうでないとしたら、
それは、なんだか――気持ちが悪いんじゃないだろうか。

『女の代わりにしやがって』

傷ついた瞳の先、父親よりももっとその先、そこに自分がいるようで、月島は、その目から視線を離せない。

そんなのじゃない。
代わりになんてしていない。月島は、「彼」を苦崎畢斗と思って、隣にいた。男とか女とか、関係なんてない。
そう、だから、
彼女が彼であったら抱いていなかったかもしれない気持ちがあるのなら、
その存在してはならない心は潰さないといけない。
そうでないと――月島はあの男と同じになってしまうと思った。

苦崎が何か言っている。しかしそれらの意味は全く分からないものになってしまっていた。そもそも、その言葉の意味を考える余白も、もう月島にはなかった。
暖かな何かだと思っていた、実際は腐った魚のようだったらしいモノが、じっくりと踏み潰されて形を崩す。中から何かが弾け飛んで、どろりと広がる。虫の中身のようなそれは、もっと入念にすり潰される。

ふと、瞳に光の戻った苦崎が目を瞬かせてこちらを見ていた。それから、眉を下げた笑みを浮かべて「ごめん、忘れてね」と言った。彼の言葉はほとんど理解できなかったから、忘れるも何もなかった。

「海に行こうよ」

カラリと笑って彼が言う。それに、月島は手のひらを握りしめて、うん、とだけ返した。

(なぁ、みなと、)

太陽の光に照らされて、彼の笑みが海の水面のように輝く。
だからこそ、口元の擦った赤が、手首に着いた赤黒い痣が、酷く痛々しい。
潰れ果て、毟られた花のようになったモノが、喉に詰まって声が出なかった。

(おれは、そんなんやない。
だすけん、家族でいようっちゃ)

その声は、幼い胸中にだけ響く。

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