- ナノ -

ぐちゃぐちゃ17
苦崎は喧嘩が好きだ。少なくとも、月島はそう認識していた。
月島が喧嘩に勝ってきたと言うと、手放しで喜んでかっこいいと褒めるし、喧嘩をしている最中もやいのやいのと応援をしてくる。だが「喧嘩をすること」も好きなのは、月島にとって頭痛の種だった。
細く小さな体躯で、喧嘩を売ってきた相手に突っ込んでいく。布を被っているから視界が狭いという枷もお構いなし。嬉々として走っていくのを見て、何度肝を冷やしたか分からなかった。その度に加勢したり、引き離したり、喧嘩の後に怒っても苦崎は「だって強くなりたいんだもん」と聞く耳を持たない。それどころか「ケンカの仕方を教えて!」とまでのたまう。苦崎のことは知りたいと思っている月島であったが、こんなのは知りたくなかったと幼いながらに頭を抱えた。
そうしてこの日、襤褸布に赤い色を纏わせて帰ってきた苦崎に、喉が詰まって息ができなくなる感覚になった。

「聞いて聞いて! 今日ね、三人相手に勝ったんだよ! すごいでしょ!」
「……そいは、血か?」

ピョンピョンとカエルのように跳ねて報告してくる苦崎に、震える指で顔の布を指し示す。
苦崎は今気づいた。というように「あ、布汚れちゃったんだ」と言って、袋を頭から取った。その下から現れたのは、目元が腫れて、額と鼻から流れた血の跡を残している面持ちだった。腫れた片目は瞼を押して目元を歪にしている。赤くもなっていて、当然痣になるだろう。
それなのに、苦崎は上機嫌に鼻下を擦っている。乾いた血がポロポロと地面に落ちた。

「ッ! おめぇっ、なん考えとるんや!」
「うわっ、そんなに怒らなくても」

飛びかかるように苦崎に近づいた月島に、一歩後退しながら、どうどう、と言って手を前に出す。
怒ることは予想していたのか、ようやく苦崎は気まずげに眉を下げた。

「えへへ、私もちょっと頑張りすぎたかなぁって……でも勝ったから!」

勝ったから何だというのか。月島は口の中で砂を噛んでいるような、何かを壊したいような、ひどく不愉快な気分になる。
苦崎は月島を置いて、勝手に一人で歩き回ることがあった。別に、それ自体は悪くなかった。しかし送り出して、帰ってきた姿を見て血の気が引いた。苦崎はその見た目――襤褸布を被った姿――のせいで、気味悪がられている。そんな苦崎にちょっかいをかけてきた相手に、喧嘩をふっかけていた。着物は土だらけで、手や足に擦り傷ができていた。勝てずに逃げてきたという苦崎に、そんなことがあったら自分を呼べと何度も言ったのに、彼女は絶対に月島を呼ばなかった。言うことを聞かない彼女に、月島はそれならばと苦崎が外に出るときはできるだけ着いていくようにした。その先でちょっかいをかけられたら猪のように突っ込んでいく苦崎に加勢し、できるだけ彼女を引き剥がし、自分が相手をする。それで解決だと思ったら、今度は苦崎は月島に何も言わずに外に出るようになった。曰く「基と一緒にいると喧嘩ができない」。

頭がズキズキと痛むようだった。どうして彼女は分かってくれないのか。喧嘩をしてほしくないのに、怪我をしてほしくないのに、痛い思いをさせたくないのに。――守ってやりたいのに。

「なんでそんなアホなことしてるんじゃ!」

怒鳴った先で、苦崎が珍しく、しゅんと肩を落とした。思わずそのまま吐き出しそうになっていた言葉が止まる。

「確かにちょっと無謀……むちゃだったかも……。でもさぁ……」
「でも、なんちゃ」
「ムカついたの!」

堂々と言い放った苦崎に、月島の眉間に深いシワが刻まれる。それを見て、彼女は慌てて懐から何かを取り出した。

「突き飛ばされた時に、地面に落ちちゃって」
「……巾着か」
「そう。でね、踏まれちゃって」
「……」
「あ、中に入ってた貝殻は無事だよ! けど、ほんと頭にきちゃって」

そう言って怒りを思い出したのか、頬を膨らませた苦崎が、いたた……と口元を抑える。切れた唇から血が滲み出ていた。

「なので! これは正当防衛だから! ね?」

媚びるように首を傾げる苦崎は、もう月島から怒りの目を向けられたくないのだろう。怒られてもケロッとしている割に、月島が不機嫌になり冷たい態度を取ったりすると、困ったように彼の周囲をウロウロとするのだ。
苦崎が取り出した巾着は、少し土で汚れていた。巾着の端が特に汚れていて、踏まれた場所が分かる。みずみずしい蜜柑色だったそれは、少し色が澱んでしまっていた。砂が擦れた跡に、月島は彼女が必死に土を払おうとする光景が浮かんで、それ以上怒りを持続させられなかった。
『せいとうぼうえい』というのは何か分からなかった。だが、彼女は大事なものを踏まれて、おそらく月島が考えるよりずっと怒ったのだろうとなんとなく思う。苦崎は喧嘩は好きだが、引き際は弁えていた。いくらひどい悪口を言われようと、勝てないと思えば引く。そういう冷静な思考の持ち主だった。その彼女が、三人相手に血を流してまで勝ちを奪ってきた。
――その場に自分がいなかったことが、月島はひどく嫌になった。
もちろん月島が悪くないのは彼自身わかっていた。此度も苦崎は勝手に一人で外に出かけたのだ。月島は彼女から声をかけられなかった。
それでも、彼女にそんな思いをさせてしまったのが、どうしようもなく嫌だった。

「えっと、怒ってる、んだよね……?」

俯いてしまった月島に、苦崎が戸惑ったように顔を覗き込んでくる。
怒っているのか、月島には自分の感情がわからなかった。ただ、それが怒りだとしても彼女に対してではないことは確かだった。

「怒ってねぇ」

だからそう言って視線を逸らした。
それに、機嫌を損ねたと思ったらしい苦崎が、困ったように体をフラフラと揺らし始める。不安がっている彼女に、またよくわからない感情が沸々と泡のように底から湧き上がった。
揺れている手にも怪我をしている。手当をしてやらなければと思いながら、月島は自分の手を強く握った。
もう、こういう姿は見たくない。自分の思い通りにならないのが腹立たしい、というわけではなかった。形容し難い想いを消化できず、ただじっと耐える。「基……」と細い声で声をかけられる。そんなふうに不安になるなら、最初からしなければいいのに。けれど、それができないのが、苦崎という少女だった。だから、月島は「次からぜったいにおれも一緒に外に行く」とだけ、呟いた。





「『実はお殿さん、姉娘のおふじより、妹娘のおしずの方が、よっぽどりこうでござぇます』とまことしやかに答えました」

苦崎が月島の元へやってきてから一年以上が経った。
彼女は、どこからか見つけてきたのか色々な話が載った本を持ってきて、それを読もうと月島を誘ってきた。苦崎は文字が読める――漢字さえも読める――が、月島はそうではない。難色を示した彼に、一緒に読もうと苦崎がぐいぐいと押して、時間がある時に彼女が音読する形で物語を二人で読み進めていくことになった。
苦崎曰く、民話が集められた本――そもそも民話というのが月島にはわからない――は、難しいだけだと思っていた月島の想像に反して、胸がドキドキと高鳴る面白いものだった。もちろん、月島には理解できない話もあったが、できるだけ苦崎が注釈を入れ、難しい言葉は解説しながらゆっくりと進めてくれた。
月島がお気に入りなのは『隠れ蓑笠』という話で、口がうまくずる賢いばくちこきが、天狗の持っている隠れ蓑笠という、被ると姿が消える笠を騙し取る話であった。最後までばくちこきの嘘がうまく通って、のうのうと逃げおおせるさまは痛快だ。物語がこんなに面白いのかと月島は驚いて、その感覚が気に入っていた。
とても気に入っていたので、何度も苦崎に読むように月島は頼んだ。苦崎は嬉しそうに朗読してくれ、そうして何度も聞いているうちに内容をほとんど覚えてしまった。本はいつでも読んでいいと彼女から言われていて、『隠れ蓑笠』は文字を目で追うと、幼い少女の声で再生されるぐらい頭に刻まれている。
それでも苦崎と本を読むとき、この話を月島は注文した。何せ、彼女の読み方は気持ちがこもっていて何度聞いても面白さが倍増するし、好きな話を彼女に読んでもらうと言うのが、なんとなく心躍ったから。
しかし、その日の夜は苦崎が他のものも読みたかったのか、断られてしまった。それに大人しく引き下がる。断られた上で何度も頼むほどではなかったし、他の話でも苦崎の読み方はうまいので、例え難しくわけが分からない内容だったとしても、月島は彼女の朗読だけで楽しめる。
月光が隙間を縫って差し込んでくる家の中で、扉の向こう側に父親がいた。暴力の塊から隠れるように、床に敷いた薄い襤褸布と襤褸布の間に横になって、身を寄せ合うように月明かりで本を読む。極めて静かに朗読する苦崎の横顔は真剣だった。

「殿さんは、にやりと笑っていいました」

月島は紡がれる物語を、ドキドキとした心地で聞いていた。不安からくる心拍の速さだった。
苦崎が読んでる『さらちゅう山』と言う話は、仲の良い腹違いの姉妹が出てくる。そのうちの姉を、偉い人間が引き取ろうする話であった。話は進み、頭がいい姉を引き取ろうと偉い奴が家までやってくる。母は妹の方が利口だと推している。
月島は話の流れに、なんとも言えない居心地の悪さを感じていた。なぜこの母親はこの『殿』とやらに自分の子供を引き取らせたがっているのかがわからなかった。邪魔なのだろうか。しかし、片方だけ引き取られても、仲の良い二人は離れ離れになってしまう。

「『うん、そうか、それじゃァ、娘二人のちえだめしをしよう』」

不安と好奇心で続きを待っていた時だった。暴力の塊が凶器を投げつけてきたのは。
雷鳴のような音が二人のすぐ近くで響き、弾けた木材が勢いよく降りかかる。隣の部屋とつなぐ扉が破壊され、そこから飛び出した釣瓶が壁に打ちつけられ、土間に転がった。身を伏せてそれを目にした彼らに、怒声が降りかかる。

「うるせぇぞ!! 蛆虫ども!! 口を閉じることもできねぇクソガキが、息を止められてぇのかッ!!」

その後にも続く叫び声に、慣れたように二人で息を潜める。
ああして暴れ出した時、できるだけ気配を消して息を潜めるのだと苦崎へ教えたのは月島だった。苦崎は素直に従って、今も物語を語っていた口を閉じてじっとしている。その髪に戸が壊れた際に散った小さな木片が乗っているのを見て、月島は耳に入る騒音がますます煩わしくなった。
父親というものは、月島にとって忌々しく、そしてあまりにも理解できない恐怖の対象だった。顔色を窺って、父にバレないように行動して、振るわれる拳に耐えて、お前さえいなければという言葉をそっくりそのまま男へ心の中で返していた。それでも小さな体では逆らえるはずもなく、逃げ出すこともできず、ただ耐え忍ぶ。
それしかないと思っていた。けれど、それではもう。
汚い怒声が止み、静かになった暗闇の中で、音を立てないようにゆっくりと本を閉じた苦崎と目が合った。その視線から寝ようという合図を受け取り、月島はぐるぐると回る感情を抑えるように目を閉じた。
月島は苦崎を守ってやると決めた。けれど、あの嵐のような男に好き勝手をさせて、同じように耐えさせる日々を、守っているというのか。
瞼を押し上げると、そこにはすでに目を瞑った彼女がいた。長いまつ毛が少しだけ揺れて、まだ起きているのがわかった。その黒髪に乗る小さな木片だけでも取ってやりたかった。だが、腕を大きく動かしてしまうと、衣擦れでまたあれが暴れ出してしまうかもしれない。
そうやって、父親を気にして何もできない自分がひどく小さくて、いてもいなくてもどちらでもいい存在に思えて、月島は強く歯を噛み締めた。
月明かりに照らされる苦崎の姿を見つめ、閉じ込めるように瞼を閉じる。月島はそっと音を立てないようにゆっくりと手を動かして、近くにある彼女の手に触れて、そのまま確かめるように握った。驚いたようにピクリと動いた指をそのままに握り続ける。

(……守ってやりたい。おれが、みなとを好きに生きてけるようにしてやりたい)

あの暴力の塊からも、島の嘲笑からも、守ってやりたい。好きな格好をして、好きなことをして過ごせるようにしてやりたい。無茶をして怪我をしたら手当てをしてやって、お腹が空いたら好きなものを食べさせてやって、笑って過ごせるようにしてやりたい。
二人で一緒に、大人になるまで、大人になっても二人で隣を歩く。苦崎が月島の手を引っ張って、月島が苦崎が転びそうになったら助けてやる。
そうやって、二人でいられたらいい。そうしたい、そうしていきたい。

(だって、そうでねぇと、おれは――)

胸を覆う苦々しい靄の向こうに何かが見えかけた瞬間、手を柔く握り返されて靄が霧散する。

――靄が晴れた先、月光に照らされた素顔の少女が目を閉じてそこにいた。小さくまつ毛を震わせると、そっと瞼を持ち上げる。栗皮色の瞳が現れて、少年の姿を映す。そうして、花が綻ぶように頬を桃色にして、蜜の香りがする笑みを浮かべる。
少年にとってそれは、よく見る表情だった。そうしてそれを見るだけで、胸の奥が溶けるような心地になる。
いつの間にか握られた手から熱が伝わる。優しくて暖かくて、絶対に離さぬように強く握った。
ずっと、一緒にいられたら、きっと――繋がれた熱から溶けるように、彼の意識は解れた。

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