それを幼い少年が目にした時、すでに死んでいると思った。
少年――月島基の石置き屋根の襤褸家にはここ最近、見知らぬ女と幼い少女が訪れる。親子らしい二人は良さげな着物を着て、女の方は上品な物腰であった。少女は女の後ろにいつも隠れており、一度だけ女に紹介されたもののお互いに名前も覚えていないような関係だった。なにせ紹介の時も少女は女の後ろに隠れて顔を覗かせるぐらいで、声も発さなかった。月島は同年代相手に怖がられたり嫌われたりするのに慣れていたから、そういう態度なのだと思い、少女と最初から親しくするつもりはなかった。ただ、少女の整った顔に、こういうのが自分と異なり、人に好かれる顔なのかもしれないと思った。
女は、数々の噂話と行動から島中から忌避されている男に対して、随分親しげに接する。そして男は、その女が訪れるようになってから少しだけ――本当に少しだが――暴力を振るうことが少なくなった。けれど、月島は女が自分の足元から離れない少女を、わずかに震える手で撫でているのを見た。なので、本当は女が男を恐れているのだと知っている。それなのにどうしてここにやってくるのか。月島は理解できなかったが、暴力がマシになった現状に、少しだけ安堵していた。
それが変化したのは女がやってくるようになってからひと月後のこと。
月島を悪童と囃し立てた島の年上相手に喧嘩をして、何度か殴られはしたもののどうにか殴り勝ち、月島が家へ戻ってきた時だ。
「あの売女! クソッ!! ぶち殺してやる!!」
よく聞く怒声を家に響かせた男が、玄関から飛び出してくる。月島を突き飛ばしたが、それにも気づかずに大きな足音を鳴らして歩き去っていった。地面から立ち上がり、手についた砂を落とす。ああいうのはよくあることであったが、なんとなしに胸がざわついた。
いつもなら、この時間にはあの親子が訪れているはずであった。月島は開きっぱなしだった玄関から土間に入る。そして開かれている奥の戸が目に入った。その部屋の片隅に、何かが転がっている。
襤褸雑巾のような、茶色の布とそこにくっつく肉団子のようなもの。肉団子からは絹のような黒糸が幾多も伸びていたが、かき混ぜたように絡まり合って、床にベシャリと垂れていた。
月島はゾワリと首元に怖気を感じながら、足音を潜めてそれに近づいた。
近づいてみてみれば、転がっていたそれは自分と同じほどの大きさで、少し質の良い茶色の着物を着て、顔を泡のように膨らませた、あの女の足元に張り付いていた少女であった。
顔は血と涙と、そのほか少女から流れた様々な体液でぐちゃぐちゃで、一回り以上腫れ上がった容貌からはあの少女だとはとても思えない。だが、そのほかは彼女の特徴と合致していた。
呆然と眺めていれば、その塊がピクリと動いて月島はギョッとした。まだ、生きているようだ。
死んでいると思い込んでいた月島はまだ息があるのを確認して、ふとあの女が目に口にした言葉が脳裏に蘇ってきた。
『こん子、人見知りなんよ。だすけん、なんかあったら助けてあげてちょうだい』
何が『だから』なのだろう、とその時は思い、月島は何も言わなかった。しかし、常ではかけられない優しげな声色だったから、その言葉は覚えていた。
助けてあげる――何をすればいいのか、具体的には分からなかった。だが、このまま放っておけば本当に死ぬことは彼にも想像がついた。
そもそも、こんな状態で助けてあげられるのだろうか。そこまで月島は考え、自分は誰かに手を伸ばされたことはないなと考える。父親から投げられて腕が動かなくなった時も、島の奴らから石を投げられて血が出た時も、どんな時も助けられたことはない。
少年はそういうものだと思っていた。それが彼にとって常識だったからだ。
けれど――本当にそうだろうか? と目の前の少女を見て純粋に疑問が湧いた。こんなものを見て、声さえかけないのは当たり前なのか。
少女からは、月島は何もされていない。罵声も暴力も、そもそも挨拶だってろくに交わしていない。
何もされていないから、月島は手を伸ばした。
「おめ、いきとるか」
意識はあるか、と問いたかったが、そういった意味の言葉を思い出せずにそう尋ねた。
ぐったりとしているそれの、おそらく耳部分に手を置いた。目が見えていないだろうと思ったためだった。
少女は月島に気付いたのか、少しだけ口元を動かした。口の中で折れたらしい小さな歯がこぼれ落ちる。
同じように殴られて歯が折れた経験のあった月島は、思わず顔を顰めた。あれは痛いし、痛みが長引く。
可哀想、という感情が彼の中でふつりと湧きあがった。自分より弱い子供が、自分よりもっと酷い目に遭って、死にかけている。
助けてあげてほしいと言われた。そしてここには、少女を助けられるのは自分一人しか存在しない。
助けてやれるなら、助けてやりたい。と心の底で誰かが囁いた。
変な色合いをしていない方の手を、気持ちが強いるままに握った。
「あちことね、たすけてやる」
大丈夫だと、心配いらないとそう声をかける。大丈夫も何も、全ての未来が不明瞭であったが、そう言うべきだと思い、そう告げた。
少女の赤黒く腫れた目元から、赤い雫がたらりと流れる。少しだけ、瞼と思われる部分が動いた。その奥からは、茶色がかった瞳が月島を見つめていた。
「ぁ、りがと……はじめ……」
――最初なんと言われたか分からず、唖然として、それからお礼と名前を口にされたのだと気が付く。
こんなにもぐちゃぐちゃなのに、声は鈴を転がしたような音で、ひどく弱々しかったがしっかりと聞き取れた。
彼が覚えている限り、自身に向けられた初めての感謝の言葉だった。そして、こんな声色で名前を告げられたのも。
月島は少女の名前を覚えていなかった。けれども彼女は覚えていた。そうして月島を認識して、震えるように、囁くように、噛み締めるように名を口にした。
それに、静かに唇を噛む。鳩尾の少し上あたりがぎゅうと掴まれるような、首裏がカッと熱くなるような不可思議な感覚がした。
少女の名前が知りたいと思った。
「みなと。苦崎、畢斗だよ」
痛々しい顔に布を巻き直している時、少女は目を細めながらそう月島に教えた。
少女――苦崎畢斗(くざきみなと)の傷の治療のため、月島は拙い知識でどうにか治りが早くなるように努力した。
島で見た怪我人が、怪我をした場所に布を巻いているのを見たので血だらけの顔に布を巻いてやって、口の中も痛いだろうと食べ物はできるだけ小さく柔らかくして与えてやって、家の中で安静にさせてやった。
そして彼女が痛みに体を震わせる時は背を撫でたり、手を握った。そうすると気が紛れるのか、彼女の細く痛みを訴えるような息が、ほっと和らぐからだ。
少女は顔から血を流し、か細くお礼の言葉ぐらいしか口に出せず、指を動かすのにも痛みを伴うようだった。
自分では何もできず、ただ与えられることに礼ぐらいしか言えない彼女は、あまりに痛々しく、あまりに可哀想だった。
だから、月島はいつしか自然と「まもってやる」という言葉が口からこぼれていた。
これ以上痛い思いをしないようにしてやりたい。あのクソ親父から守ってやりたい。月島は自分よりか弱く小さな存在に強くそう思った。
自分のような、怯え、耐えるだけの日々を送って欲しくない。この、唯一自分を邪険にしない少女に。
月島の言葉に、顔の傷に布を巻かれた彼女は少しの間、口を閉ざしていたが、その後に僅かに声を張ってこう返した。
「な、ら……なら、わたし、はじめを、しぁわせに、する」
幸せの意味が幼い月島にはわからなかった。ただ、血を吐き出すかのように懸命に告げられた言葉に、ならやはり、自分は彼女を守ろうと決めた。
少女が月島の家へやってきて数週間が経っても、彼女の傷はまだ酷く、熱に浮かされて意識が無いことも多かった。そんななか、碌でもない父親が暴れ出した。月島は彼女が殺されてはたまらないと、怪我で動けない少女を引っ張り、岩陰まで連れて行ってやった。
「波の、っ……は、ぁ……音が、する」
海の潮風に晒されて、少女が全身の痛みに苦しんでいる。
しかし月島には、何もできない。守ってやると幼心に決めたのに、あの男を家から追い出すことも、彼女をあの家の中で守ってやることも。まだ何も。
少しでも痛みが紛れればいい、とその小さな手を握った。
「おめのかかやん(母ちゃん)が迎えにきたらええのに」
と、月島はいつの間にか呟いていた。
慰めではなく、ただ思ったことを口にしただけだった。
彼女にとっては、多分それが一番いい。月島にはなぜ苦崎の母親が、あの家に彼女を置いてどこかへ行ってしまったのかは分からなかった。だがそれでも包丁のような男よりは良いはずだった。
苦崎は静かに静かに息をして、そうして言葉を返した。
「きっと、来ないよ」
声の震えもなく、落胆もなく、ただそう彼女は告げた。
体の痛みから切り離されたような声を出す彼女を、月島は守るように抱擁する。
家で暴れた父から逃げて、海近くの岩陰に隠れたその日。未だ治り切らない痛みに耐え、海風の寒さに震える彼女の体を抱きしめた日を、なぜか月島は鮮明に覚えている。
そうして、人の看病という初めてづくしの日々は通り過ぎていった。徐々に苦崎の体は動くようになり、腫れは引いてゆき、痣は薄まって、一番怪我の酷かった顔も、奇跡的なほど傷が跡形もなく消え去った。
「ねぇ基、これって何?」
「そりゃあトンボってやつっちゃ。釣りの時に使うんじゃ」
「へぇ! 基って物知りだねぇ」
すっかり傷の治った苦崎を引き連れ、海に近い岩場を辿る。途中、岩の隙間に挟まった、漁師が捨てていったらしい釣具について説明した。
それほどない知識の中から正解を導き出せば、畢斗がパッと華やぐように笑う。といっても、月島からその顔は見えない。見えるのは、その中から覗く瞳のみだ。
体を動かせるようになり、ようやく一人で出歩けるようになった時、一番怪我の酷かった顔面がまだ治りきっていなかった。そんな彼女に、島の子供が化け物だと石を投げたのだ。それによって血を流した苦崎に、月島は顔を隠すための大きな襤褸布を贈った。それは別に、彼女の顔が醜いからと言うわけではなく、心無い連中にふざけた物言いをさせたり、そいつらによって彼女の傷の治りが遅くなるのが許せなかったからだった。
(いっこも汚いもんか)
石を投げた連中は、月島が下駄で顔面をボコボコにした。そうして石を投げられて、自分達がどれほど醜いことをしたか理解すればいい。
月島が彼らを叩きのめしたときに近くにおらず、そんなことを知らない苦崎は、無邪気に「じゃあこれは?」と嬉々として月島に尋ねている。
苦崎は顔の傷が治っても布を外すことはなかった。彼女は元に戻った自分の顔を見て、ひどく驚いた後に、月島に己の顔が整っているかどうか聞いてきた。そういえば、と思い月島が肯定すると、難しそうな顔をして布を被り続けると決めていた。
人に好かれそうな顔なのになぜ隠すのだろうと思う。だが、自分の贈った布が使われ続けることと、家の中では布を外して、自分の前では素顔を見せると言うのがなんとなく悪くないような気がして、特に何も言わなかった。
苦崎がこうして元気にはしゃぎ回れるようになるまで、月島は彼女がいつ死ぬのかと不安を抱えていたが、同時に徐々に良くなっていく姿に己も元気になっていくような、今まで感じたことのない充足感を感じていた。
そうして蛹から蝶になったかのような苦崎は、母の後ろに隠れていた時や怪我人だった時からは想像もつかないような活発な子供となった。月島の名前をよく呼んで、助けてくれたことを感謝して、あれはなんだこれはなんだと駆け回る。
「はじめー!」
高らかに名前を呼ぶ少女はろくな親のいない月島よりも世間知らずで、けれど月島が時折理解できないぐらい物を知っている。
佐渡島で生まれたというのに佐渡の言葉をあまり口にせず、島の外から来た人々の言葉を使う。知らぬ単語を使って、こういう意味だと教えてくる。自分達だけの『ひみつのきち』というのを作って、ここで遊ぼうと笑う。
彼女が普通に喋れるようになり、いつまで家にいるのかと月島が聞いた時、苦崎が言っていたのは、「戸籍上は基の父の子供になっている」であった。
戸籍――というのは月島にはよく理解できなかったが、言葉をそのまま受け取るのならば、苦崎も月島の家族となったと言うことだ。家族というのは同じ家に住むと月島は思っていた。なので、苦崎はずっと家にいるのだと知って、ほっと安堵した。
月島が幼い頃に消え、記憶も定かでない母と、理性のない化け物のような父親。そこに突然花のような少女が家族として顔を出した。
月島は、姉だろうか、妹だろうかとふわふわとした頭で考える。
物知りで頼りになるが、同時に世間知らずで頼り甲斐がない。そもそも、月島が彼女から聞いた生まれ年は同じであった。年が同じであれば、上や下はないのだろうか。それとも、そもそも生まれ出た親が違う場合はそのような枠組みがないのだろうか。
分からないことだらけであったが、いつか知る日が来るのだろうと、変なところで物知りな少女と共にいると思う。この疑問を忘れたいつかで、ふと彼女が「そういえば」と口にする。
その日が勿体無くて、月島はわざわざ聞くことはしていない。
「基! 見て見て、綺麗な石」
そう言って、苦崎が道端に落ちていたらしい丸い石を見せてくる。「そうけ?」と首を傾げると、「基の頭の形にそっくり!」と嬉しそうに石を撫でるので、思わず月島は自分の頭を触ってしまった。ただの小石に、こんなにも喜ばしげにする少女を見ていられず、自然と彼女から目が逸れる。
ただ暴力や雑言、空腹や惨めさに耐えていただけの日々。それが光を受けた水面のように輝いて、見える風景があまりにも違って困惑する時もあった。
胸がいっぱいになって口から言葉が出ないことや、屈託もなく笑いかけてくる少女の手を急に取りたくなることもある。何かしてやりたい、もっと世話を焼いてやりたいと、考えたこともなかった事が頭に浮かぶ。
――例えばそう、こんなこともあった。
「はじめの誕生日って、いつ?」
少女の顔の傷が徐々になっていき、柔らかな肌が見え始めたとある日にそう尋ねられ、月島は首を傾げた。
『たんじょうび』という単語を初めて聞いたからだ。
「たんじょうびってなんや?」
「生まれた日ってことだよ!」
意味を聞いて月島は少し納得がいかなかった。なぜ誕生日という言葉があるのだろう。生まれた日ではダメなのだろうか。そう思いつつ、出てきた答えを教えてやる。
「知らん」
「……え! え、ほら、四月とか、一日とか! 歳をとる日!」
「としとるのは年明けやろ」
「……そ、うだね!」
息の詰まった苦崎に、眉間にシワがよった。何を知りたかったのだろう。教えて欲しいと請われたものは、ケンカの仕方以外なら教えてやりたかった。しかし苦崎はそれ以上尋ねてくることはなく、グッと拳を握るのみだった。
「基! 見つけた! あった!!」
後日、家の収納をひっくり返した苦崎が、何かの紙切れを渡してきた。月島としては家の状態に引いていたが、渡された紙も気になって手に取ってみた。
そこには文字が並んでいて、月島には読めないものだった。だが、目の前の少女は文字が読めると月島は知っていた。
「ほら、ここに『出生、四月一日』って書いてある!」
「しゅっしょう?」
「生まれた日ってこと! まぁ、出生届の写しみたいだから、本当の生まれた日とはズレてるかもだけど、誕生日はこの日ってことだよ!」
また生まれた日の別の言い方だ。ややこしいと月島は内心でうんざりした。
やはりよく分からない所で物知りな少女は、きゃいきゃいと紙を指さして大喜びしている。月島はなぜ苦崎が己の出生日が分かり、こんなにも喜んでいるのかが理解できない。生まれた日も誕生日やら出生日やらと複数あり、分かりづらい、と思う。思うが、苦崎が喜んでいるならいい、と最後には着地した。
「名前の漢字も載ってるよ!」
「かんじ?」
「そう、ここの文字」
月島基――そう書かれた文字に、貝のような爪が乗る指が、最後の漢字を指し示す。
「……よこのぼうが多いっちゃ」
「そうだね!」
自分の名前の漢字、と言われてもピンと来ない。「はじめ」と呼ばれて目の前にいる少女を見る。家の中にいるためにさらけ出された顔が、にっこりと蕩けるような笑みを浮かべている。
「素敵だねぇ」
何が、と聞いてもたぶん嫌な顔をせず教えてくれるのだろうと感じた。しかし尋ねなかった。心の底で、なぜこんなに喜んでいるのか分かったような気がしたからだ。
少女が笑って、大事なのだと態度で訴えるから、月島はだんだんと自身を構築するものが、もしかしたら価値のあるものなんじゃないかと思えた。
苦痛の中を、ただ耐えるために生きている。
月島のそういう生き方が、突然現れた花のような少女によって変えられていく。
いつの間にか過去に意識を移していた月島は、耳に入った声にふと意識を取り戻す。
はじめ、と名前を呼ぶ声がした。波の音に混じってコロコロと転がる柔らかな声色は、朝に聞く小鳥の鳴き声にも似ている。
頭に浮かんだ可愛らしい茶色の小鳥を頭を振ることで飛び立たせ、岩場をピョンピョンと跳ねて苦崎の前まで移動する。慣れた調子で浜に着地した月島だったが、最後の最後にゲタが思ったよりも砂にめり込んで後ろへすっ転んでしまった。
わぁ、と驚いた声がして、ひょいと襤褸布が彼を覗き込む。袋の奥で、大きな瞳がにゅっと細まった。
「んふふ、可愛い」
バカにしてるのかと睨みつけそうになったが、月島が何かを失敗しても、彼女が揶揄しないことは知っていた。
その目と口が如実に語るからだ。「可愛い」「好き」そう言って隠そうとしない。苦崎は月島に対して、よくその二つの単語を使う。
以前、苦崎が月島に対してよく口にする「かわいすぎる」という言葉の意味を聞いて「大好き」という意味だと伝えられた時はひどく驚いたし、何が恥ずかしいのか忘れるほど恥ずかしかった。少しして直接的にはそのような意味でないと理解しても、少女の中ではそうなのだ、と何度も何度も目で語られて、月島は納得せざるを得なかった。
証拠というように、苦崎は倒れた月島に手を差し伸べてくる。そして取られた手を、嬉しそうに引っ張り上げるのだ。
「あはは! 軽いけど重い!」
「どっちじゃっ」
「どっちも!」
結局、力のない少女もすっ転んで、砂の上に二人で座り込んだ。
自分も砂まみれになったのに、大層嬉しそうに目を細めている。
(かわい(・・・)つうのは、こいつみたいなもんじゃないんか)
そう、ぼうっとその顔を見つめれば、苦崎がぐっと顔を近づけてくる。
「基? どうしたの? もしかしてどこか痛い?」
心配そうに顔を尋ねられ、首を左右に振った。
「なんでもね」
「本当? 頭打ってない?」
「あちことね、それより、海に行こうや」
「海? うん、いいね!」
パッと立ち上がった月島に、心配顔を引っ込めた少女が賛同する。
少女は海が好きだった。海というより、波の音だろうか。聞くと安心するとかで、それに応じて海で遊ぶことも好んでいた。「海、全然嫌いにならなかった!」と水面を蹴りながら笑っていた言葉の意味を月島は未だ教えてもらえていなかったが、嫌いでないなら海に誘えるから良いと思った。何せ故郷の島では海がいつでも見えるほどだったから。
駆け出した月島に、少女が砂を蹴って追いかけてくる。引き離さないように走る速さを調整しながら、横目で後ろを見遣る。
顔に被った布が、大きく体を動かした衝撃でふわりと浮かぶ。紐での締めが甘かったのか、布がそのまま後ろへ落ちそうになっていた。それを両手で苦崎が掴む。晴天に浮かぶ雲のような白い肌が、淡く桃色に色づいている。彼女が、これ以上ないほど楽しげな笑みを浮かべているのを目撃して、月島は足から力が抜けて、また転びそうになってしまった。
幸せというのもがなんなのか、幼い月島は全く想像がつかない。けれど、少女の手を取ってから、それまでの自分が何をしていたのか思い出せないほどに視界は色とりどりで、陽は暖かで、海は冷たく気持ちよくて、人の頬は柔らかくて、知らないことや分からないことだらけで――胸躍る出来事が溢れかえっていた。