- ナノ -

ぐちゃぐちゃ12
判然としない視界の中で、美しい女性が私を慈愛の瞳でこちらを見つめている。
ただ美しいというのがわかるだけで、その眉の太さや鼻の高さ、唇の形も分からない。けれど花のような美しさを覚えた。

『畢斗はつやつやのどんぐりが好きなのね』

声は聞こえないのに意味は伝わってくる。優しげな音色は、ただその愛だけを含み目の前の私を喜ばせた。

『カカが作ったこれに大切なもんを入れなさい。大事に持っておくんだよ』

そっと手が伸ばされる。着物の裾を捲った腕に、星座のような三つのほくろが見えた。
色白のそこに浮かぶ黒点に母だと確信して、手に乗せられた蜜柑色の巾着にその色を移したように胸が温かくなる。

『ありがと、大好き。カカ』

――そうか。
私はあの人のことが、夢に見るぐらい大好きだったのか。



波が岸壁(がんぺき)を叩きつける強烈な音で目が覚めた。急かされるように飛び起きて、周囲を見渡す。
すでに日は登りつつあり、周囲は陽の光に照らされてきている。薄暗いのは少しの間だけだろう。
基は隣で横になっていた。ただ慌ただしく起きたせいで、物音に反応して「うーん」と声をあげ、薄めを開く。

「どした?」
「……いや」

掠れた声に、唾を飲み込んで返す。
なんでもない、はずだった。

母の夢を見た。彼女と別れの言葉もなく会わなくなってから、初めて見た夢だった。
悪い夢ではなかった。陽に干してひどく柔らかくなった布団のような心地で、安堵と懐かしさが胸を占めた。
ただ、起きる寸前に耳にした岸壁を砕くような波の音が、なんだか嫌に恐ろしかった。
寝入った基地は海の近場ではなく、波の音は荒れている時に耳をすまさなければ聞こえないぐらいだったのに。
今日の海は、とても静かだ。

何がそんなに胸を騒がせるのかもわからぬまま、基と朝食を撮りに釣り竿などを用意して基地を出た。
海に向かって歩いていく間、木々が風に揺れる音や土を踏む音が耳に響いて頭痛がしそうだった。

「海も大人しいし、今日は奥の方へ行くか」
「ああ、そうだな」

かけられる言葉に返した時、視界の隅に島の大人が目に入った。いつもはこちらを見て「ああ噂の」「悪童らだ」と囁く奴らが、こちらを見向きもせずに何かを話している。聞き耳を立てなくとも、変に敏感な耳がその大きめな声を集めてくる。

「えらい別嬪だったな」
「よそもんだよなぁ、何しにきたんや」
「さぁな。どこぞの金持ちの妻なんじゃねぇか」
「だなあ、色白で、黒子が色っぽかった」
「しかし、あの顔に似てるのを、どこかで見たことがある気がすんな」
「おめえもか? あの、綺麗な顔……ああ、そうだ、あの顔は」
「そうだ、ほら」

「ちょうどあそこにおるぞ」

斜め前に基の背が見えて、いつの間にか動きの鈍くなっていた足の速度を上げる。
この島は金鉱山があり、外からやってくるものも少なくない。その中に、金持ちの妻がいたのだろう。

「しかしあん別嬪、昨日こっちにやってきてたが、今日はまだ見てねぇな」

高波が砕く、岸壁の悲鳴が耳に響く。

足を無心で前へ進める。体調が悪いかもしれない、風邪だろうか。少し温かくなってきたからといって、やはり基地の小屋はまだ少し寒かったかもしれない。腕をさすりながら、海を目指す。
その道すがら、向かいから男が歩いてきていた。見知った着物、見知った容貌。
基の顔が歪んで、肩がわずかに怒る。普段は私もそうだ。外で難癖をつけられることは少ないが、それでもその機嫌によって頭のおかしなことをしてくる相手だった。けれどなぜか今日は警戒する気にならず、向かってくるその男を注意深く観察する。
何年使っているかわからないよれて汚い着物、やたらめったらに生えた無精髭に、脳天のはげた頭。年よりずっと老けている容貌は眼窩が穴になったいるかのように深く窪んでいる。下駄を引きずるように歩く男は、岩のように拳を握っていた。

「……怪我をしていた」
「あ? ……あいつのことか?」
「……手に、血が」

すれ違い、その背が物陰に隠れた後に、ようやく声を出した。
怪訝そうな基に、それ以上なぜか言葉が出なかった。
いつもなら目も合わせないようにしているから気づかなかっただろう。その拳に傷がついていたことを。
けれど今日の私はなぜかあれをよく観察して、その拳の骨の出っ張りが裂けるように傷ついているのを見た。
私も数えきれないほど喧嘩をしてきたから分かる。
あれは、人を殴ってできた傷だ。

「あ、あぁ、俺、家に用事を思い出した」
「うちに? けんど、今はあいつが戻って――」
「家に戻る。家に戻る、すまん、家に戻る」
「おい、畢斗!?」

気づいた時には釣りの道具を放り出して走り出していた。
転びそうになりながらも走り続け、いつの間にか家についていた。中に誰がいるかとかは頭から抜け落ち、乱暴に戸を開ける。
壊れるほどに音を立てて開いた先は、変哲もない、寂れたボロい室内であった。
あの男の下駄はなかった。すれ違った後、家には戻らなかったらしい。だが、行き先などどうでもよかった。
土間から這うように上がり、そのまま戸が閉まった奥の部屋を開ける。火鉢があり、煎餅布団が敷かれたままになっていた。
ギョロギョロと周囲を見渡して、家にある収納を片っ端に開けていく。
何もない、金にならないようなものしか置いていない。それはそうだ、それでいいんだ。
ひどく寒い気がして、腕をゴシゴシと擦る。肌が赤くなって、フツフツと赤い斑点が浮かんだ。
収納を全て見終わり、便所まで確認して、部屋の中をウロウロと腕を擦りながら歩き回った。三周したところで、耳に今まで入っていた音を無意識に無視していたことに気づく。
歩くたび、床板がギィギィと軋む。ボロい建物なので、床板が傷んでいるのだ。
そうだ――私は、それを確かめるために来たんじゃなかったのか。
逃避していた行動を、膝を床につけてそっと始めた。床の板を一つ一つ確認していく。音が出る場所がどこか、外れる(・・・)場所がどこか。

一つ、床板が動く場所があった。煎餅布団が引かれている、その下の板。
隙間に指を突っ込んで、力を込めると床板はガコッとひっくり返るように取れてしまった。
砂埃が舞って、咳き込む。隣の板も同じようにして取れた。

「……床……床下……」

――どうして親父の家の下から見つかるんだ!!

落ち着け、
何を考えてるんだ、
何を、何を、

漫画の知識を過信するな、頼りすぎるな、噂に惑わされるな、勘違いで早とちりするな。
熱が、ある。頭が割れるように痛む、胃の中のものが吐き出されそうだ。床板を取った後に手にした鋤を強く握った。
頭に満ちる痛みを吐き出すように、鋤を振りかぶり土へ叩きつけた。

「畢斗、なんしてんだ」

顔を歪めた基の双眸が、こちらを見ている。
ずっと土だけを見つめていた目が、徐々に周囲を映し出していった。周囲は土が散乱してひどい有様になっていて、私が掘ったらしい床下は丸く、広く浅い穴が出来上がっていた。土は、固かった。何かが埋められたあとはない。

「なんか、あんのか」

顔を固くして尋ねる基に、笑みを向けた。

「何もなかった!」



ただの勘違いだった。
漫画での出来事や知識と、現状がパズルのピースのように合致してしまい、ありもしない図を茹った頭が妄想してしまった。
困惑し切った基に床下から引き上げられ、熱があると見破られて、その後は荒れ切った家をどうにか整え寝かせられた。
それから三日ほど記憶が曖昧だった。体が重く、頭も体の節々も痛みを発する。もしやこれはインフルエンザかと思い、世話を買って出てくれた基には本当に申し訳なかったが、私たちが直前まで使っていた基地以外で過ごしてくれと頼んで家から追い出した。
その後は必死に何かを口にしたり、水を飲んだり、ひたすら眠ったりしていた。途中でクソ野郎に蹴られたり殴られたりした気もしたが「うつって死にたくなかったら失せろ!」と叫んだらいなくなっていた。
実際、結核などだったら死ぬことも大いにあり得る。今回のものは違うだろうと思うが、病院などかかれるわけもないのだから、気をつけなくてはいけない。

「迷惑かけたな、すまんかった」
「本当や。もう体はええんか?」
「あぁ、すっかり良くなった。時々飯置いてくれてただろ。ありがとな」
「……追い出しておいてよくゆうっちゃ」
「移ったらお前も大変な目に遭ってたんだぞぉ」

そう言えば、小腹を肘で突かれた。結構強めにきたそれに、ゲホ、と咳き込む。文句は返さなかった。
四日ぶりにやってきた小屋で、ようやく一息つく。あの家は寒さからは身を守れるが、他の障害が多くて――実質一つであるが――かなわない。
しかし、なんというか。私は思ったよりも母を好いていて、信頼していたのだなと痛感した。
でないと普通、熱があったとしてもあそこまで取り乱さないだろうし、そもそもあの人がこの島に戻ってくると思わないだろう。
漫画で、基の恋人――つまりちよのことだが――が、基の父親の家の下から見つかった。とされる部分があった。つまり、ちよが父親に殺され、家の床下に埋められていた。というものだ。
結局それは鶴見による虚言であったとされている。父親殺しの罪で牢獄にいた基を釈放するために鶴見が作った嘘だと。私も漫画を読んでそう思っていた。実際、主人公である杉元の過去編で、東京で暮らすちよらしき人物が描写されているためだ。
だが――本当にそうだとは、明言されていない。
基や父親、鶴見、ちよのことを考えていることが多かったせいか、頭にその情報がこびりついていたのだろう。情報が歪に繋がって、咄嗟に母が殺されたと思い込み家へ来てしまった、のだと思う。あの時のことは、少し記憶が曖昧だった。
けれど、殺されたと思ってあそこまで焦ったのだから、私は母が好きなのだろうなと感じた。他人事のようだが。
そして、私は前提として、母がこの島に戻ってきたと無意識に思っていたわけだ。だってあの人は私を愛してくれていたから、愛しい子供を放っておける人ではない、どれほど年月がかかったとしても、生きているならば会いにきてくれるだろう――と、多分思っていたんじゃないだろうか。
そう、彼女の愛を信頼していた。生きているかもわからないのに。子から親への愛は強いのだなぁ。これも他人事のようだ。

しかし、そう思うとこれを後生大事に持っている理由もわかる気がする。
懐から随分と色褪せた巾着を取り出す。中身は何も入っていない。ただ、もうそれ自身が色々な思い出を吸い込んで、大事なものになっていたのかもしれない。

「そいは……」
「カカにもらった巾着だ。女々しいよな、いつまでもこんなもん持っててさ」

紐部分を持って、ぷらぷらと揺らす。振り子のように触れるその奥に、基の顔が見えた。

「んなことねぇ」
「……」

土の茶色とポツポツと浮かぶ赤黒さに汚れたそれを、そっと掴んで手にうちに閉じ込めた。
幼い頃は手の内から溢れていたのに、今では包みこめてしまう。

「いつか」

私の生きる意味は、目の前の子しかいない。それだけでめいっぱい生きていける。そう四歳の時、本当に、心底思った。
それが嘘偽りない事実であることに変わりは無い。
けれど、

「カカに見せてぇな」

彼女にこれを見せて、
巾着をくれてありがとうと、言えたら。
なんて、贅沢な人生なんだろう。

「そうすりゃええさ」
「……そうだな」

少しだけぎこちなく、けれど優しく微笑む基に、この子の隣にいられて、心からよかったと巾着を柔く握りしめた。



「今日は俺が魚を釣ってくる」
「おう、でかいの頼むっちゃ」
「ははっ、わかった!」

数日間空けてしまったので、その詫びも兼ねて大物を釣ってこようと意気揚々と基地を出た。
釣り道具を手にして、海へと歩く。踏み締めた足はどっしりしていて、しっかり青年の足だ。
海は凪いでいる。魚も釣りやすいだろう。聞いた限りでは寝込んでいた間は荒れていたらしいが、タイミングがいい。
そのまま海辺へと辿り着くと、ちょうど針を垂らそうと思っていた場所に人だかりができていた。
何事だと少し距離をおいて眺めていると、どうやらホトケが上がったようだとわかった。
ホトケ、いわゆる水死体だ。またどうして釣ろうとしていたところで、と思いながら、なんとなく気になりそっと近づいた。

「島のやっちゃねぇな」
「どっかから流れてきたか」

水死体は定期的に上がる。漁業中に溺れた者だったり、全く別のところから流れ着いたものだったり、波に揉まれすぎて何がなんだか分からなったりする。島のものだったらその親族が埋葬するが、そうでないなら見つけた漁師がそういうものを埋める場所に埋めているらしい。
被っていた頭巾を深く被り直して、さらに近寄る。五人ほどが集まっていて、その後ろからちらと覗き込んだ。
水死体は、なかなかの損傷具合だった。まず、波に揉まれたらしく服が破け放題で、おそらくそれなりの着物を着ていたのだろうにボロ切れのようになっている。それから肌が水膨れのように膨らんでいて、顔の判別は出来なさそうだ。ただ、身体の特徴的に女だと言うことは知れた。漂白されたような真っ白な肌。

「あそこに埋めるか」
「ああ」

なんとなし(・・・・・)に興味をかられた。
水死体を包むための道具を取りに漁師たちがそれから離れた隙を狙って、ひょいと近づく。
私に気づいた島民が「うわ!」とか「何してる!」とか煩くなったが、それを無視してホトケを眺めた。
さらに距離を縮める。強い潮と――腐った鼻をつく臭い。
膝をかがめて、着物が千切れて顕になっている腕を見つめた。
そこに、黒い点を発見する。

そう、綺麗な、三つの――星のような。

漣が、耳の奥に響いた。



場所を変え、釣りをした。海が穏やかなおかげか、魚も大きいものが釣れたし、潜ってタコを捕まることもできた。
重くなった魚籠を揺らしながら、秘密基地へと戻る。
胡座をかいて、前に私が基地に置いていた本を眺めていたらしい基がこちらに気づいて、どうだったとイタズラ小僧の面持ちで聞いてきた。

「大量だったぞ!」
「おおっ、見せてみい!」

魚籠の中を見せながら、自慢するように成果を語る。
驚いたり、喜んだり、興奮した表情を見せる基を見つめながら、決めた。

(あいつを殺そう)

もう、迷いはない。

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