- ナノ -

ぐちゃぐちゃG
そんなこんなで五歳は終わりを告げ、年が明けて私たちは六歳となった。
六歳になったらやりたいことがあった。そう、勉強である。
しかし小学校近くを探しても、捨てられた教科書など都合の良い教材は見つからなかった。だが、本が一冊転がっていたのを発見した。
民話が集められたような薄い本であったが、文字はしっかり書かれているし、むしろ六歳にとってはこれぐらいがちょうどいい。
誰かが捨てたのか、それとも落としたのかは知らなかったが、持ち主が近くにいない時点で所有権はないと言うことで、さっさと懐に入れた。悪い子供になったものである。まぁ子供相手に本気で喧嘩してる時点でかなり悪いのだが。

「なぁ、隠れ蓑笠がよみたいっちゃ」
「お昼に読んだじゃん。新しいの読もうよ」

布を敷いた上に寝転がりながら二人にしか聞こえないぐらいの音量でヒソヒソと話をする。月明かりで紙を照らしながら、中に書いてある文字を確かめた。
基は隠れ蓑笠という話が好きで、初めて聞いたときは大笑いしていて、よく読みたがる。けれどまだ文字がきちんと読めないので、私が音読していた。可愛らしくて言う通りにしたくなる。が、同じ話を何度もするのもいいが、せっかくだし他の話も聞かせたい。

「これにしようよ。さらちゅう山ってやつ」
「おもしぃ(面白い)んか?」
「どうだろ。読んでみよう」

寝そべって、二人で本をのぞき込み、文字を追い始めた。

「『むかし、あるところに、おふじ、おしずという、腹違いの姉妹がおりました』」
「はらちがい」
「お母さんが別ってことだね」
「そいのんか(そうなのか)」
「うん。じゃあ続きね。『ある朝。浜へ出て、二人仲良くわかめ拾いをしていました』」
「はらが空いてきた」
「明日わかめ拾いに行こうよ」
「おう」
「『海は、青いねり絹のように、のたり、のたりと、のた(波)うっておりました』」
「おめの好きなのた(波)が出たっちゃ」
「のたりっていう効果音なのか……」
「こうかおん?」
「んーん。のた(波)が出たね。基はねり絹って知ってる?」
「知らん」
「私も。絹の種類かなんかかな。『そこへ、お国まわりの、お殿さんが馬に乗って通りかかりました』」

時々話が逸れたり、意味を考えたりしながら物語は進む。
腹違いの姉妹のところへ通りかかったお偉いさんは、試しに子供たちに知恵試しをしてみようと思いつく。しかし結果的に、姉がすこぶる利口だったので、お偉いさんは自分で育ててみたくなった。家に訪れて引き取っていいかを尋ねると、継母は自分の娘をと考えて、妹の方が利口だと売り込もうとする。

「『うん、そうか、それじゃァ、娘二人のちえだめしをしよう』」

ざっと三ページほど。そんなに長い話ではない。そろそろ佳境かというところで、ものすごい音がして頭上に何かが吹っ飛んでいった。
壁に跳ね返り土間に落ちたそれを視れば、井戸の水汲みに使う釣瓶が転がっている。それを確認した直後に、耳を塞ぎたくなる大声――私たちがうるさいことへの苦情だった――が隣の部屋から飛んできて、釣瓶を投げて開いた戸の穴から遮るものもなくこの部屋へ貫通してきた。
荒々しい気配に、家から出た方がいいかと思案したが、ここで外に出るために音を立ててしまうと、その音に更に憤って追いかけてくるであろうことはこれまでの経験から想像がついたので、二人でじっと息を潜める。
しばらくすると忌々しい声は鎮まり、いったんの静寂が訪れる。
今日の読み聞かせはここまでのようだ。音を全くさせないように本を閉じて、基に目配せをする。彼も慣れた様子で承知して、そのままの体制で瞼を閉じた。
あのクソ野郎は腹立たしいが、ここで憤っても仕方がない。私も寝ようと目を伏せると、布に被さった手がぎゅっと握られて少しだけ瞼が開く。子供の柔らかな手に、怖かったのだろうと胸が痛くなった。慣れたとしても、加害される恐怖は常にある。今回だって、横になっていなかったら釣瓶で頭が割れていたかもしれない。
そっと指を握り返して、今度こそ瞼を閉じる。
ああ、私に勇気さえあればなぁ。





私に勇気さえ――覚悟さえあれば。
道理は与えられているのに、恐怖に飲み込まれて箸を握った手を振りかぶることさえできない。

「みなと!!」

叫ばれた自分の名前に、また助けられたのだと気づいた。
やっぱり、君は私の天使様なのか。

その日は基と秘密基地へ出かけていた。家にはここ最近、最高に機嫌の悪い最悪なクソ野郎がいたので、秘密基地に数日避難しようという話をしていた。そうすると、少し食糧が足りない。流石に自分達で得たものだけで数日を過ごすのは難しいと結論づけて、二人で食料を調達することに決めた。私は家へ取りに行くことにして、基は海で何か食べれそうなものがないか探すことになった。基は少し渋ったが、あの状態のクソ野郎に近づかせたくないと半ば言い逃げのように家へやってきた。
開いた戸の穴から見えた男は、その日の朝と変わらず汚い煎餅布団の上に横になっていた。なるべく音を立てないようにしつつ、台所にある大根を取る。その他にもいくつか手にとって、立ち上がった時だった。開いた戸の穴からずるりと腕が伸びてきたのは。
肩を骨が折れそうなほどに掴まれて、逃げが頭に浮かんだが手がどうやっても離れない。すぐにもう一つの手が伸びてきて、戸が開けられてその隙間から奥の部屋へと引き摺り込まれた。
その後は正直思い出したくもない。パニックになって、ひたすら叫んでいたような気がする。暴れる体を抑え込められて、咄嗟に台所で掴んできていた箸を握って、男に突き刺そうとした。
顔が近く、思い切り眼球にでも突き刺せば殺せそうな距離だった。着物の下に手が伸びてくる。クソ野郎がしようとしているのは、暴力は暴力でも性暴力の方だと嫌でもわかった。下品な顔に突き刺してやらなければ。そうしなければ、自分は犯される。
だっていうのに体も手も歯も震えてどうしようもなかった。怖かった。恐怖で金縛りにあって、動けなかった。想像もつかない屈辱を与えられるかもしれないという恐ろしさと、人を殺すことへの怯えで私は何もできなかったのだ。

自分に絶望しそうになった時、彼が現れた。
あの日のように、私を救い出してくれた。戸が開いて、あの子の声がして、小さい男の子が暴漢へ飛びかかる。私があげた棒で男の頭を殴って、棒のほうがバキリと折れた。衝撃に暴漢が狼狽えた隙に、震える体の尻を叩いて男の下から抜け出した。彼の伸ばしてくれた手を必死で掴んで、そのまま顔を覆う袋を付け直すことも忘れて外へと飛び出す。

背中に羽が生えたようだった。地獄のような家を出て、二人で砂利道を走った。
ああ、また助けられた。
酷く嬉しくて、酷く自分が情けなくて潰れてしまいそうだった。

「どこ行くの」

駆けていった先は秘密基地ではなかった。走って走って、二人で息が切れて歩いて歩いて、行先がわからずに口を開く。
前を歩いていた基の足が止まり、私の足も止まった。
それなりの時間が過ぎたはずなのに、まだ頭の中はかき混ぜられたように混乱していて、ふとした時に体が震えそうになり息を止める。
彼からの返答がないのを見て、ただ逃げてくれていたのだと気づいた。

「さっきは、ありがとう」

そうどうにか震えを抑えた声で伝える。本当はこの小さくも頼もしい背中に抱きついて怖かったと泣き叫びたかったが、あまりにも情けなくて強引に抑え込んだ。
ろくに抵抗もできず、危害を加えることもできず。
惨めだった。
私はずっと彼に助けられ続けるのだろうか。彼もまた暴力に怯える小さな子供だというのに、彼を天使と崇めて讃えて、そうして救いを得るだけの豚になるのだろうか。
そんなのは許せるはずがなかった。私は彼を幸せにする。一度目に助けられた時にそう誓ったはずだろう。そのために生きるのだと決めた。

あの子が振り向く、その時にふと自分の口元が汚れていることに気づいた。そこだけではなかったけれど、すぐ見える場所はそこだった。
慌てて濡れている口元を拭う。気づいてしまえば汚くて臭くて仕方なくて、着物の裾をゴシゴシと擦り付けた。

「だいじょぶか」

繋がれた手を少しだけ引かれて聞かれたそれに、ぐっと喉仏を抑える。
笑って大丈夫だと言った。

「なんされた」

こちらに向く視線に、海に飛び込んでしまいたい気分になる。
惨めさと恐ろしさと怯えに飲み込まれそうになり、耐えるように体を固めた。
そうじゃない、そんなんじゃダメだ。鼻の奥がツンと痛む。いけない、涙を見せてはならない。
弱いままではいけない。喧嘩だけじゃない、心も強くなくてはならない。
ここはああいう環境なのだ。あれは大人になった彼が躊躇なく殴り殺せるぐらいの男で、息子の恋人を殺したと流布されて住民が信じるぐらいのクソ野郎なのだ。そういうの(・・・・・)が、彼のそばにいる。怯えている暇はない、恐ろしさに震えている暇も。
そう分かっているのに、惰弱な心はすぐに決心を持つことができなかった。震える胸が、覚悟を拒む。
それでも負けられなかった。だから、巾着で学んだトリガーに手を伸ばして、勢いよく引いた。

「――あの人殺しのクソ変態野郎に犯されかけただけだよ」

ピキリと、自身の額と首筋に血管が浮かぶ。
――そうだ。どうして私があんな目に遭わないといけないんだ? 顔はこんなだが私は男だぞ。クソ変態野郎が、あの調子だと人殺しも本当なんだろうな。汚い手で触りやがって、基が助けに来てくれたからよかったものの、犯されて病にでもなったらどうしてくれるんだ。生きている価値もないカス野郎が。
体を覆う悲しみや恐れを凌駕して襲うのは、理性を手放すほどの憤怒だ。
防御本能なのか、心臓の痛みが発火する脳にかき消される。
恐るな、怯えるな、それなら怒れ。尻込みして心が負けるぐらいなら、全てを怒りへの松明にして燃え上がらせろ。弱い心に甘えるな。
私は、私はこの子に救われるために生きてるんじゃないだろう。

(……あれ)

はた、と基が何も返事をしないことに気づいて、目を瞬かせる。
繋がれていた手が、いつの間にか離れていた。
怒りに任せて――しかし簡潔に何をされたかを答えた。その後、感情に流されて何かを言った気もしたが、あいにく頭に血が上り過ぎて覚えていなかった。しかし少しだけ不安になった。怒りのせいで口が悪くなり過ぎたかもしれない。幼い彼に、あまり悪い言葉を覚えてほしくなかった。

「ごめんね、忘れてね」

そう言い訳のように告げた後に、空気を変えようと努めて明るく「海に行こうよ」と誘った。塩水でもなんでもいいから、体を洗い流したくて仕方がなかった。
基は少し黙ってから、「うん」と言ってくれた。

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