- ナノ -

ぐちゃぐちゃC
一歩、一歩、基に手を引かれ、どうにか進む。
数日経って、ようやく歩けるようになった。と言っても基に支えてもらわないと進めない。一歩踏み締めるだけで体の皮膚と内臓と骨がそれぞれ痛みを奏でて三重奏のようになり、膨大な音響のせいで頭がおかしくなりそうだ。本当は動きたくないのだが、あのクソ野郎が暴れ出したため推しが家から連れ出してくれたわけである。ああ、何度も命を助けられている。人生をかけて推しに恩を返さねばならぬと再度固く決意した。
基は私が息を荒げていると、近くの岩の木陰に座らせてくれた。布に覆われた耳の隙間から、波の音が聞こえてくる。海が近い。

「波の音がする」

むしろそれしか聞こえなかった。大きな波の音が鼓膜の内から響いてくるようだった。
彼と、今の私の故郷である、新潟県にある離島。佐渡島。現代では観光地として名前を聞くが、今はどうなのだろうか。疑問を波が攫う。
握られていた手に力が篭ったのが分かる。体が弾けるような痛みが、その暖かさだけで繋がれているようだ。
やはりというべきか、クソ野郎――所謂彼の父親なのだが――は、全く子供の世話をしないネグレクトドメスティックバイオレンス野郎であった。時代が時代ならば即児童相談所案件であるが、残念ながらここは明治であり、児相など存在しない。

数日、家で耳を澄ませてわかったことがいくつかある。
父親は静かな時もあるが、大体ぐちぐちと何かに対する不平不満のようなものを口にして、時折発作のように暴れる。基は家ではあまり大きな声を出さない。食べ物はどうやら家のものを盗むようにして食べていて、私の分も持ってきてくれている。
一刻も早くあの父親から離れさせたい状況であるが、やはりそうは問屋が卸さない。
握ってくれた手が暖かくて、痛みを忘れていく。けれど体はピクリとも動かず、静かに息をすることしかできない。
ああ、推しに悪いな。と思いながら、体育座りのような体制で考える。
どうすれば基を幸せにできるだろうか。

(まず……)

目先の問題はあの父親だ。まずは、どこか避難できるような場所を作ろう。
誰かの助けを借りられたらいいが、漫画では「悪い噂のある父親のせいで、悪童、人殺しの息子などと言われ、名前すら呼ばれない」とのことだった。彼を取り囲む環境は劣悪であった。あまり周囲に助けを求めるのはあてにしない方がいいだろう。私も、経緯はどうであれあの父親の子供となってしまったのだし。
どこか、人目から隠れられるところに秘密基地を作るのはどうだろう。ゴールデンカムイでヒロインのアシリパが作っていた狩猟小屋のような、小さな小屋を作るのだ。
だが、そこで生活までとなると流石に厳しい。家はやはり生活の拠点となるだろう。なら、あの父親に抵抗できるようにならないといけない。
今はまだか弱い四歳児だ。だが私も成長する。確か基は島でよく喧嘩をしている描写があった。私もあれに倣おう。たくさん喧嘩をして、強くなって基を守れるぐらいになる。漠然としているが、今後の成長に期待だ。
あとは、そう。私の中身は現代人であり、体についてはついこの間までは母親に依存して生きてきた幼子だ。生きる手段を学ばなければ。これは基の方が詳しいだろう。元気になったら教えを乞わなくては。

とりあえず、当面の大雑把な目標は決まった。まずは元気になり、秘密基地を作り、喧嘩に強くなる。四歳児の目標かな? まぁ体年齢はその通りなので問題はない。

(少しずつ、進んでいけばいい)

さて次に中期目標である。こちらもかなり重要だ。
最終的な目標は月島基を幸せにすること――言葉では簡単だが、実行に移すにはかなり手強い。
彼の漫画における人生の概略はこうだ。
碌でもない父親の元に生まれ苦労の多い幼少期を過ごすが、その中で運命の少女と出会い、仲を深めて駆け落ち間際まで行く。しかしそれをよく思わない彼女の親族の手により月島は徴兵された先で死亡したと噂を流され、それを信じた相手は身投げをした。噂の元が自分の父親だと気づいた彼は、衝動のままに父親を撲殺。
父親殺しは尊属殺人と言って当時では終身刑か死刑であり、そのまま破滅かと思われたところに兵士時代に上官であった鶴見という将校がやってきた。そして実は彼女は死んでおらず、彼女の両親の策略で金持ちに嫁ぎ、父親は金を握らされ嘘を風潮していたのだと告げる。その後は彼女の安否を教えてくれ、さらには牢屋から出してくれた鶴見に従い、数年間兵士として過ごす。
しかし日露戦争の折に、彼女は自分の父親に殺されていたという事実を知る。嘘を教えた鶴見に対して憤るものの、その後さらに父親に殺されたというのは嘘で彼女は生きており、その話は彼を無罪放免にするための作り話である、と伝えられる。愛する彼女についての嘘に長年翻弄され続けた月島基は、真実を知ることを放棄して命を拾われたという事実を持って、鶴見に忠誠を誓うこととなる。

――うーーん、眠れぬ夜に思い出した漫画での内容を、できるだけ簡略化したつもりだったが、それでも濃すぎて胃もたれしそうな人生である。それに、ところどころ正しいのか分からないところもあるし。ゴールデンカムイという漫画は登場人物が全て本当のことを言っているとは限らないのだ。特に鶴見中尉というキャラクターは。私の記憶や分析も曖昧なところがあるし。
しかし、そこを深く考えるのは後にしよう。記憶や分析はまだしも、あのキャラクターの考えていることなど、凡人には到底想像がつかないのだろうし。

ここで、月島基の人生に深く関わる登場人物をあらためて挙げてみると、三者が浮かび上がる。父親、ちよ、鶴見である。
幼いうちに関わりがあるのは父親とちよだ。鶴見は従軍後であるので、二十歳を過ぎてから関わりが発生する。当分の間私が干渉できるのは前者の二つであろう。だが、彼の人生が大きく動き出すのは従軍後――鶴見と関わりを持ってからだ。
私にできることは、二十歳までに彼の人生がうまく行くように下地を整え、従軍後も彼が鶴見の罠に掛からないように見張ること、であろうと思う。
下地と言っても、彼は父親のことを除けば漫画でもちよとうまくいっていた。ちよとの仲が裂かれた原因も、基の従軍中に発生する事柄だ。彼が従軍するのに私がしないなどという選択肢はないので、共に戦場へ行くことへなるが、そうなると私がやれることはちよへの働きかけだろう。
漫画ではちよは自殺したのかしていないのか、曖昧な部分も多かったが主人公の過去編で彼女らしき人物が東京に嫁ぎ幸せに暮らしているような描写があった。おそらくあれは事実だろうから、自殺はしていないが基の戦死を信じて嫁いでいったのだろう。まぁどちらにせよ話は早い。ちよが戦死を信じないようにすれば良い。

それには――

(父親が邪魔だなぁ……)

はぁ、と熱い空気だけが喉からこぼれた。

戦死の噂も基の父であるあの男が風潮し始めたから皆信じたのだし――そりゃあ肉親が言い出したら信じるだろう――その後、報いを受けて殺されたはいいが、実行した基は囚人となってしまう。すでにいても邪魔なだけなのに、生き続けると彼の足を引っ張り続ける。
折を見て、排除できれば一番いい。正直なところ、物騒な話ではあるが殺すのが一番手っ取り早い。近くには海があり、死体の隠滅も容易だ。が、流石に……ちょっと無理だ。色々な意味で。
まず、殺したとして流石に幼子二人だけで生き残るのは難しい。ならタイミングを測ればいいだろうと言う話になるが、海に廃棄して打ち上げられたら困る。死体が海の藻屑になるという保証は無いのだ。それにタイミングを測って殺したら、私が殺したと特定されるかもしれない。別に自分が捕まるのはいいが、基にも疑いが向けられては最悪だ。
それから――流石に人殺しは、したくない。戦場に出るのだから、いつかはしなくてはいけないことだとは分かっているが、現代人の倫理観が邪魔をする。あんなクソ野郎であっても。
そういった事情から、殺しは除外されるが、ならどうするかと言うとこれまた難しい。適当に罪を擦り付けて牢屋にぶち込んでやりたいが、失敗して私だけ牢屋に行ったり、クソ野郎に殺されたりしてあいつと基が二人きりになってしまうのは避けたい。
そういった事情から、クソ野郎の排除は行いたいが実行できない項目である。クソ野郎はちよの件での障害になるが、そこは彼女に戦死の噂を信じさせないように私が手を回すしかないだろう。それならいくらでも考えようがある。

(最後が強敵だ)

潮を含んだ風に、喉が痛んでかふ、と霞んだ息が出る。
そのすぐ後に、まるで体全てが湯に浸かったような感覚が身を包んだ。全身の引き攣りが緩和されて、思考がスムーズに進むようになる。なんだかわからないけれど、考えやすくてありがたい。

さて最後に――長期目標だ。
これは分かりやすい。鶴見対策である。
基を、彼から守らなければならない。正直に言って基の心の傷の半分は担っている男である。憎々しい。頭かち割ってやろうか。
――と、冗談でも初めて思ったな、鶴見中尉にそんなこと。今までゴールデンカムイのキャラクターは皆好きで、強いて言えばお気に入りは主人公コンビだった。鶴見に対しても敵役であるとは認識していたが魅力的なキャラクターだと思っていたというのに。
また、月島基に対しても、好きではあるが特別推しという感じでも全くなかった。見る目がなさすぎる。過去の自分頭かち割ってやろうか。おっと、また物騒になってしまった。
これも生涯をかける推しが出来たからであろうか。自分にこんな側面があったとは……。
それはそうと、対策であるが――鶴見に基が目をつけられないようにする。ぐらいしか思いつかない。
ちよに関することを対処出来れば、鶴見が基に付け込む要因は無くせる。そこで解決できればいいのだが――正直鶴見がどこから基に目をつけていたのかが分からない。当然初対面は従軍後なのだからその後からだろうが、日清戦争中から狙われていたのならかなり面倒だ。
基が父親殺しとして牢屋に入れられて、基から投獄までの経話を聞いて都合がいいと懐柔しようとした、という順序ならちよの件を解決して終わりだ。
だが日清から目をつけられ、ちよの件も最初から――ちよが金持ちから気に入られるところから――手引きをしていたのなら。
そこまでするか? 有り得ない、別に漫画でもそんな描写はなかった――とは思うが、あの鶴見である。本気で日清戦争の頃から本気で欲しがっていれば、やりかねないと思う。なにしろ誘拐事件を企てて、そのヒーローとして自分を仕立て上げるような男だ。

なら、どうするかといえば――自分が月島基の代わりになれば良い。
ちよの件を解決して、鶴見が基に目もくれなければ万事解決。日清で目をつけられていたとしても、そこを私がかすめ取ればいい。
鶴見は日清戦争中は第二師団に所属しており、日清戦争後に第七師団へ左遷される。漫画ではその際に月島基を第七師団へ連れて行くのだが、私に目を向けさせられれば基は第二師団のまま、日露戦争でも多くの犠牲が出た第七師団への転属も防ぐことができる。
基が第二師団に残るのが理想であり、同時に必ず成し遂げなければならない最重要事項であろう。その後に満期除隊してくれれば最高だ。

鶴見のお眼鏡にかなうような兵士になる必要がある。基よりも従順で躊躇なく、上官に尽くすことに疑問を持たないような。彼が欲しくなるような兵士に。
体力をつけて、知識を叩き込んで、戦いに強くなるために努力をするのだ。

(なんだかなぁ)

……基のためなのに、鶴見のために頑張ることになってないだろうか。不服である。

これも、実はもっと簡単な解決方法がある。クソ野郎の時と同じだ。存在ごと排除すれば良い。
日清戦争で鶴見と関わるため、戦争中なのだから実行するのも楽だろう。何せ作中でも尾形というキャラクターが花形勇作というキャラクターを日露で殺している。
が、やはり私はできない。やろうとしてもいざという時に引き金を引けないのは想像に難くない。
だから代わりになる。元より優れた代用品に。そんなことができるのかと自身に疑問が湧くが、それでもやるのだ。きっとできる、いや、やるしかない。それが推しへの幸せへの絶対条件なのだから。

まぁ、そもそも鶴見は日露戦争で二〇三高地へ国旗を突き立てた小隊長だ。当然、これも私の世界の史実とは異なる。鶴見というキャラクターはフィクションだからだ。逆を言えば、この世界では(・・・・・・)鶴見がいなければ二〇三高地は占領できていなかったかもしれない。引いては旅順攻囲戦でロシアに勝てなかったかもしれない。もっと言えば、日露戦争で日本が負けてしまうかもしれない。
彼は物語どころか歴史に深く関わりすぎている。変に触れるとこの世界の歴史が大きく変わってしまうかもしれない。
結局のところ、どう足掻いても殺せはしないということだ。

今後について、大まかな方向性が定まった。
短期目標としては、まずは元気になり、秘密基地を作り、喧嘩に強くなる。
中期目標としては、基が幸せになる下地を整える。つまりはちよが基の戦死を信じないように働きかける。クソ野郎については、歯痒いが保留。
長期目標としては、鶴見対策として、日清戦争で鶴見に基が目をつけられないように優れた兵士として自分を鍛える。

難易度は高いが、できないことはない。女だったらできないことだらけであっただろうが、ありがたいことに私は今生では男であるから、強くもなれる希望があるし、従軍もでき、自分を鍛えることもできる。

思索がひと段落して、ふぅと息をついた。頭を使ったからか、なんだか眠くなってしまう。幼子の体は大変だ。
ふと、漣しか聞こえなかった鼓膜に、大事なあの子の声が聞こえてきた。

「おめのかかやん(母ちゃん)が迎えにきたらええのに」

母が迎えにきたらいい、か。
幼子が告げたもしもの話に、しかしあり得ないだろうなと心で呟く。
母が迎えにきて、私と基を引き取ってくれればこれ以上の僥倖はない。だが、そんな都合の良いことは訪れないだろう。
私をクソ野郎のところへ置いていった母、私に畢斗(みなと)という名前をくれた女性――苦崎直子(くざきなおこ)さんという人は、悪い人ではなかった。
自我が不確かな記憶を思い出す前、あの人は私を愛してくれていた。
母は佐渡島の中では金を持っている家の一人娘であった。そんな彼女が佐渡島に流れ着いた男と出会った。その日を生きるのにも精一杯な、けれど優しい男と恋に落ちたのだ。駆け落ちしようと約束していたのだろう、しかし男は病か事故か、何かでこの世を去った。そして母はすでに男の子供を孕っていた。それが私だった。
どうにか私を産むことはできたが、家では不義の子として忌み嫌われ「なかったこと」にされそうになったこともある。その度に彼女は私を庇い、守ってくれた。そうして私は四歳まで生き延びることができたが、もう彼女に私は守りきれなかった。
だから、この島で一番手出しがされない場所に子を匿うことにした。人殺しの噂まである男の子供にする。家の連中もそんな男のところまで行って私に危害を加えようとはしないであろうし、逆にクソ野郎から自分達が危害を加えられないかと勝手に怯えるであろう。そういう奴らだ。
母は私を男の家へ残した後、きっと一人夜逃げしたのだと思う。私をクソ野郎の家に置いていく前日に荷物をまとめていたから。
もちろん、これらの話を母から直接聞いたわけではない。けれど分かるのだ。家の人々の噂話、母が語る昔の思い出、彼女が静まり返った部屋で隠れるように流す涙。愛しさを滲ませて頭を撫でる表情。綺麗な石やどんぐりを集める私に、蜜柑色の巾着袋を手作りした、色白で、星のように浮かぶ三つの黒子(ほくろ)が美しかったあの手。
分かってしまったから、私は彼女を憎めないし、そもそも憎むつもりもない。
どうか、逃げた先で幸せであってほしいと祈る。このご時世、女一人で逃げ出した先、何が待っているか、なんとなく想像がついたとしても。私を置いていくという選択をした理由がその想像通りであると分かっていても。元から行き着く先に、天国を選んでいたとしても。

「きっと、来ないよ」

どうなっていようとも、彼女は来ないだろう。
彼女が私に残してくれたものは、この体と、名前と、服と、蜜柑色の巾着袋だけ。
でもいいのだ。
私の母はいなくなってしまったが、私は新しい大事な大事な家族を手に入れた。
君がいてくれれば、私はめいっぱい生きていけるのだ。

そんなことを考えていれば、いつの間にか体を包む暖かさに痛みは溶けきって、ふつふつと途切れる意識はそのまま波に浚われてしまった。

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