- ナノ -

A
漣(さざなみ)の音が聞こえる。
その音色に耳を傾けながら、地平線へ消えていく陽を眺めるのが好きだった。茜色の空には月がうっすらと浮かび上がり、星が微かに息をし始める。
冬を抜けた暖かさの中、草むらに座って絵画のような光景を眺める。右隣には幼いくせっ毛の女の子。左隣には坊主頭の男の子。
当たり前の日常、当然の時間。誰も欠けてはならない、完璧な時間だった。



月島基と始めて対峙したのは互いに七歳の頃だった。
佐渡島で生まれた俺は、父と兄を船の事故で亡くし、母と二人暮らしをしていた。母の手伝いをしながら、前世分の人生を持ちながら普通の子供と同じように暮らしていた。最初は現代との違いに驚きっぱなし、ビビりっぱなしであったが、数年も生きていれば慣れてくる。父と兄が死んでからは「自分が母を守らなければ」「この世界で生きていかけなれば」という自覚が生まれ、友人も作り、小さいながら同年代の中では体格が立派だったこともあり、いつの間にか兄貴分の枠に収まっていた。
月島、という人物に関しては、出会う前から覚えがあった。しかしそれは漫画の知識などではなく、島に流れる悪い噂の一つとして、だ。
人殺しであるという噂――それは月島基へではなく、その父への噂だ。
しかし、現代より横の繋がりが強烈な田舎の村だ。噂は島の全ての人が知るもので、悪人の息子は同じモノ扱いだった。
人殺しの息子、悪童という呼び名を時折耳にしていた。俺はその少年と出会ったことはなく、ただ「あの悪童に殴られた」やら「人殺しの息子を三人がかりで袋叩きにしてやった」だの、そういう話を人伝に聞いていた。
俺は善人ではない。なので、悪童を懲らしめようとか、多勢に無勢を叱ろうとか、そういう気持ちは湧かなかった。ただ、自分は母の周囲に面倒ごとが起こらぬように、自分の周りにいる子供たちを程よく管理し、仲裁役を引き受け、益になることを行い、それなりの立場を維持しながら手に職をつけるようになるまで過ごす。そういった考えだった。
それに、心配事もあった。時は明治時代、記憶によれば日清戦争や日露戦争が起こる時代だろう。かつての日本は兵役があり、必ず戦地へと送られていたはずだ。そのような事態が待っていると考えると、家族のためにさらに慎重にならざるを得ない。
だから、その話が来たときは面倒ごとがきたな、と思ったのだ。

「やっちゃんが人殺しの息子に殺される!」
「殺されるだって?」
「そうだよ! 下駄で顔をタコ殴りにされてんだっ、死んじまうよぉ!」
「……それぐらいで人間は死なん」
「もう死んじゃうんだって! 早く助けに来てよ、ひぃ兄!」

今にも泣き出しそうな哀れ極まった声に、ため息をこぼしながらおもむろに腰を上げた。
ひぃ兄、というのは俺のあだ名だ。陽彦(はるひこ)という立派な名前があるが、陽が「ひ」とも読めることからそう呼ばれるようになった。親しみを込めて呼んでくれるなら読み方が多少違くても、認識できれば問題はない。
立ち上がった先、人殺しの息子と呼ばれている少年の名前はなんだったかな、と記憶から取り出していた。
報告に来た子供の跡を追って走っていった先、海の近場で繰り広げられる乱闘を見つけた。
すでに二人が地面に倒れ伏しており、頭やら腕やらを腫らして呻いている。残りの三人はちょうど下駄を持った子供に勢いよく殴られ蹴られ、頭突きをされている最中だった。体躯の小さい坊主頭の下駄少年は、多勢に無勢などお構いなしに拳を振るっていた。喧嘩慣れしているな、と思った。
目の前にいた子供が恐怖で縮み上がるのを視界から消しつつ、ズカズカとその四人へと歩み寄った。

「ヤス!」
「ッ、陽の兄貴!」

頭から血を流して、瞼を膨らませていた少年がハッとした表情で振り返る。そこには安堵がありありと浮かんでいて、やはり子供だな、と感ずる。
背後の坊主が顔を鬼にして下駄を振りかざそうとしているのが見えんのだろうか。
ダッとその場から走り出して、ヤスと呼んだ少年の元へ行く。そしてその下駄が頭にクリティカルヒットする前に、その顎を拳で撃ち抜いた。
「げぐッ!」とおかしな発音をしてその場に倒れ込む少年に、ピタリと他三人の動きが止まった。
生まれ持って体躯のいい俺は、七歳という歳の割にはがっしりとした骨格で背も高い。十歳といってもいいぐらいで、いざこざの時は年上の少年もぶちのめしたことがある。残念ながら、この島で喧嘩が強いということはイコール正義に繋がることが多い。

「テメェ! ガキが俺に助けを求めてきたぞ! 死んじまうから助けてくれと俺を呼ばれて恥ずかしくねぇのか!」
「……ぅ……うぅ……」

呻き声しか上げないヤスに見切りをつけて、別の顔が腫れた子供に話しかける。

「どっちが先に手ぇ出した」
「っ、あ、アイツだ! あの『悪童』が……!」

一対五で一が先に手を出すわけがあるか。そんな言葉は喉元で抑えつつ、指を指された坊主頭を見遣る。
名前は道すがらすでに思い出していた。俺よりも頭ひとつ分以上小さな体。こちらも無傷とは流石に行かなかったらしく、口もとが切れて血が流れていたし、腕や足には殴られたあとが多く残っていた。それでも顔に大きな傷がないところを見ると、喧嘩のセンスはやはり良さそうだった。
下から睨みつけるボロボロの着物の子供は、特徴的な低い鼻をしていて、その今にも襲いかかってきそうな目つきも相待って小鬼のように映る。

「おい小僧。名前はなんてぇんだ」
「……」
「俺は『太崎陽彦』だ。太崎でも陽彦でもハルでもひぃ兄でも陽の兄貴でも、好きに呼べ」

口が縫い付けられているかのような子供に、とりあえずペラペラと名前を語る。
するとギッと寄っていた眉が、少しばかり動いた。

「喧嘩しにきたんでねえのか」
「仲裁しに来たんだ。アイツがヤス……この寝転がってるのが死んじまうってよ」
「……」
「それで、名前。まさか名前がねぇなんてこたぁないだろう」

まだ立っている二人から、ギャアギャアと文句が聞こえてくるが、それを睨みつけて黙らせる。
再び坊主頭に目をやると、こちらを射抜いてくる瞳が太陽の光に晒されて、深緑色に映るのが見えた。

「月島基」
「なんて呼べばいい」
「は?」
「俺は太崎でも陽彦でもハルでもひぃ兄でも陽の兄貴でもなんでもいいが、そうじゃない奴もいる。お前はどうだ」

後に引かないように、こざっぱりと尋ねる。少年は数秒押し黙った後に、ポツリと呟いた。

「はじめ」

ようやっと見えた年相応さに、自身の中にあった緊張の糸が切れるのがわかった。

「おし、基だな」
「……おれはもう行く」
「おう」

下駄を手から離し、本来の使い方に戻した少年が背を向けて去っていく。
それを黙って眺め、やはりうるさい傷だらけの子供二人を軽くどついた。
意外と話が通じる子供だった。警戒心が大きくて、きっと馬鹿にしたやつは口が聞けなくなるまで殴るというのは本当なのだろう。けれどそれの何が悪い。悪童と言われ、人殺しの息子と呼ばれて手を出さずにいたら、いつまで立っても彼は表を歩けない。
寝転がって動けないでいるヤスを引っ張り起こして背中におぶる。
去っていく子供の背中を、茜色に染まり始めた太陽が照らしていた。

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