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パンドラの箱・20
どうすればいいか。そんなことはとっくの昔に分かっていた。
仲間たちに、後輩に迷惑をかけずとも、監督に問いかけずとも、答えは出ていたのだ。
公平なプレイができないと悩むのならば、その試合だけ、抜けるべきだ。
ドーピングが己の意志でなくとも行われているのならば、それが分かっているのならばその試合だけを抜ければいい。
その結果、試合に負けたら仕方がない。勝利したら次の試合から参加をすれば良いのだ。
実際のドーピングではまた異なるだろうが、己の「想定外の知識がある」というものであれば、これが適応されるだろう。
その試合だけ明確に分かっている。なら、そこを回避すれば普通の選手としてプレイできる。
事情を話せば、おそらく監督は分かってくれるだろう。そもそも、そんな精神にブレのある状態の選手を出そうとも思われないだろう。信じて花くれないかもしれないが、試合に出さないという選択はしてくれるはずだった。その頃にはキャプテンになっている深津も、理解してくれるだろう。
ただ、仲間を信じて待てばいいのだ。

だが――俺にそれができなかった。
いや、まだその段階に移っていないのだから実際はわからない。だが、悩んでいる間、その選択をとることができるとは絶対に思えなかった。
俺の知識は、ドービングではない。言うなれば未来視だ。結果が分かっている。俺がいないという違いはあるかもしれないが、それで結果が大きく変わるとは思えなかった。むしろ、監督の考えたチームが崩れてさらに考えたくない結果になる可能性もあった。
そうしたら、何が起こる?
王者山王は敗北し、俺にとって、同級たちにとって――インターハイ後、アメリカへ留学する沢北にとって、山王での最後の試合となる。
国体がある、ウィンターカップがある。それは、そうだ。まだ終わりではない。おそらく、俺たちは皆部活に残るだろう。
けれど、沢北は違う。彼は国体もウィンターカップも待たずに、海の向こう側へ行ってしまう。
山王での最後の戦いが、涙に濡れた記憶で終わってしまう。
それは、嫌だ。
彼が泣いて終わるのは嫌だ。悔しさで溺れる記憶でさよならは嫌だ。
それに、何より。
俺が、そんな最後は嫌だ。
あのメンバーで勝ちたい。もっとバスケをしていたい。あそこで終わりなんて嫌だ。もっとみんなとコートに立ちたい。
皆を信じている。信じている、けれど。

自分が、こんなにガキだとは知らなかった。
不条理を受け入れられず、今ももがき苦しんで。
どうして、なぜ思い出したんだ。
なぜこんな、身勝手なやつにこんな記憶があるんだ。

あいつらが好きだ。
だから、負けたくない。
絶対に。
絶対に。

なのに、俺は。


一人、夜練も終わった後に監督から体育館の使用許可をもらった。
無理だと言われたら許可をくれるまで粘ろうと思っていたが、意外とすんなりと許可をもらえて拍子抜けした。
なんでも「日頃の行い」だそうで、真面目にやっているとこういう時に大目に見てもらえるのだと今まで真面目にやってきてよかったと心底思った。同時に、信頼して鍵を渡してくれた堂本監督への罪悪感も。
体育館の鍵を借り、誰もいないフロアへと入る。電気をつけて、体育倉庫から重ねられていたマットを四枚、フロアの中央あたりに敷く。天井が一番高いのが中央あたりだったのだ。
そしてカゴに入っていたバスケットボールの中から、空気がしっかりと入っていてハリのあるボールを選別し、これだ、というのを一つ取り出す。
何度かフロアでドリブルをして、軽く体のストレッチをする。特に首は重点的に。
そしてマットの中央あたりに立つ。バスケットボールを、シュートをするときのように上に向けてもった。
これ、側から見たら相当間抜けな光景なんだろうなぁ。
そう漠然と思いながらも、真上に向かってボールを投げる。一メートルほど投げられたボールは、当然真下に戻ってきた。
――いや、実際にしようとしていることも相当間抜けなことか。

だが、そうであっても、俺はこれを選んだ。
だから、実行する。ただそれだけだ。

何回か、腕の力を調整してボールを投げる。
疲れてしまても、腕力が落ちてしまう。それでは意味がない。
投げたボールを手にして、おおよそ把握できた感覚のまま、最後のテストをする。
真上、一直線。思い切りボールを投げて、高く宙を舞ったボールが戻ってくるのを見上げて待つ。
室内で当然風もなく、真っ直ぐに落下してくるそれを手に取ろうとして――。

「何してるベシ」

フロアに響いた声に、思わずボールを取りこぼすところだった。
強い衝撃と共にどうにかキャッチできたボールを抱えながら、声が聞こえた方向を見る。
そこには、その接尾語の通り――深津がいた。

「……お前こそどうしてここに?」
「体育館に電気がついてたから、気になってきてみたら松本がいたベシ」
「なるほどな。俺は、まぁ、自主練だよ」

体育館の入り口付近は、自分がいる位置からは遠かったが、それでも深津が訝しげな顔をしているのが分かって苦笑いがこぼれそうになった。
そりゃあ、マットを敷いて、真上にボールを投げる自主練ってなんだよって話だ。
深津が入り口の扉を閉めて、こちらへ歩いてきた。素直に帰ってはくれないか。

「何してるベシ」

マットの手前までやってきた深津に、真っ直ぐに見つめられながら問われる。
それを見返して、随分気がしっかりしたな、と思う。やはりインターハイでの二度目の優勝経験は、彼に相応の重圧と、そしてそれを乗り越えるだけのメンタルを身につけさせたように思う。深津に限らず、彼らは光の速さで成長していく。それが眩しくて、そして少し羨ましかった。
同時に、彼は自分が納得するまでこの場を去らないだろうな、というのが分かった。
深津から目を逸らし、手にしていたボールを見る。ボールをとった手は、少し赤くなっていた。視線を深津へ戻し、ボールを投げる。
至近距離から、それなりの強さで投げられたボールを、当然のように受け取った深津は、表情を変えずにどういう意味だと問うていて、口に出さない姿も、言われずとも理解できる付き合いの長さにも思わず笑ってしまった。
そのまま、ボールもないのに立っていても仕方がないと理由を無理やり作って、その場に胡座をかく。

「頭にさ、ぶつけようと思って」
「……は?」
「バスケットボール」

深津を見上げながら言えば、彼は心底理解不能、といった珍しい顔をしていて、思わず再び笑い声がこぼれた。俺と深津しかいないフロアに自分の楽しげな笑い声が反響する。すぐに笑いを引っ込めても、延々と反響しているようで、続いた沈黙に頬を掻いた。

「まぁ、座れよ」
「……」

黙っている深津に座るように進めて、自分は座り位置を少しずらしてゴロリと仰向けになった。
眩しい体育館のライトが太陽のように目に入り、目を眇める。しばらく光を眺めていると、動く音がして、深津が座ったのが分かった。けれど、どうやらマットの上ではないらしかった。
またしばらく沈黙が続き、なんと口火を切ろうかと考えているうちに、深津の声が聞こえてきた。

「お前がおかしいのと、関係あるベシ?」

視線だけで深津を見てみれば、彼は黒い瞳でこちらを見ていた。なんでもお見通しに思えるそれに、感嘆しながら答える。

「さすが。分かるんだな」
「それ以外がないベシ。普通に振る舞ってるつもりかベシ」
「一応そのつもりだったんだけどな」

一応どころか、以前のように気を遣われることも無くなったから、振る舞いは元に戻せていると思っていたのだが。
しかし深津には分かってしまうらしい。さすが、部員をよく見ている。
じゃあ、これから言うことも分かっているかもしれないな。
目を焼くライトをから、手庇を作って光から目を覆う。

「思い出さなくていいことを思い出しちまったんだ。だから、それを忘れたい」
「思い出したベシ?」

そう、思い出した。

「ああ。あのボールで」

少しの沈黙。なんのことを言っているか、思案しているのかもしれない。
あのボール――頭に当たったあのボールで、思い出さなくていいことが蘇った。だから、それを忘れる。
それが、俺の選択だった。ガキみたいな、考えの及ばぬ答え。

「……思い出したことと同じことをすれば忘れると思ってるベシ? そんなうまくいかないベシ」
「かもな。けど、他に思いつくのは、それ以前にバスケ自体ができなくなりそうだったし」

深津の言うことはただただ正論だ。保証など全くなく、無駄な行為になるだけ。
それでも、記憶に影響を与えそうな他の手段は、残念ながらそもそも体を壊す危険性がボールよりももっと高かった。
だから、消去法でこれになった。これしか縋るものが俺にはもうない。

「そもそも、それで忘れられなかったらどうするつもりベシ」

今後は俺が黙る番だった。
これで、記憶を忘れられなかったらどうするか。
「さぁなぁ」と口にして、答えを誤魔化した。わざわざ口に出す必要はないように感じられた。

「ただ、今は――こうでもしないと、ここでバスケが出来なさそうなんだ」

深津は何も言わない。彼が止めると言うのなら、俺は何もできずに終わるだろう。
それだけは避けたかった。何もせずに、諦めるのだけは。

「俺はまだここでやっていきたい。お前たちと一緒にバスケがしたい」

この山王バスケ部で、皆と一緒にバスケをやる権利が欲しい。
共にコートを駆けていきたい。ボールを追いかけたい。一緒に、勝つために戦いたい。

「だから、許してほしい」

俺がこれからすることを。

深津から答えはなかった。手庇を作るのをやめ、そっと視線を深津へ移す。
そこには、わずかに眉を寄せ、目を眇めている姿があった。なかなか見られない顔だった。答えを出せない、苦悩の表情だ。
それが、これまでの自分に重なる。答えを出さなければならないのに、答えが出せない。

首を動かして、深津を見上げる。なぁ、と声を出した。

「それとも――お前がやってくれるか?」

彼が目を見開く。やはりそれも、新鮮な表情だった。

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