- ナノ -

パンドラの箱・19
「沢北、ワンオンワンしよう」
「……」

沢北が人目も憚らず体育館で泣いた日の翌日――そして松本が彼を泣かせた次の日の部活練習後。
松本は涼しげな笑みを浮かべて、休憩中だった沢北に声をかけた。しかしそれに彼は返事をせずに、わずかに目を眇め、眉を寄せて警戒と戸惑いをにじませて松本に視線を向ける。その小動物のような姿に、入学した頃に戻ったみたいだな。と松本は内心で呟きながら手にしていたボールを彼へと投げる。
ほぼ反射のように受け取った沢北に、彼がそれ以外の反応を示す前に一気に距離を詰めてボールを弾きにいく。
するとパッと身をひいてドリブルを始めた姿に、松本は満足げに笑みを浮かべた。

「やっぱ、楽しいな。誰かとやんの」

荒い息をしながら、松本は床に座って首にかけたタオルで顔の汗を拭いた。
ワンオンワンが白熱し、どちらとも譲らない展開に長い間ボールを奪い奪われてのやりとりを行なっていた。
そうした後の嘘偽りのない言葉に、同じように息を整えていた沢北がようやく言葉を返す。

「……みんなに、謝って回ってんすか」
「ん? あぁ……なんだ、見てたのか?」
「ちょっと、聞こえただけっす」

沢北の確信のある内容に、特に否定せずに視線を合わせる。
沢北の言う通りで、松本は昨日のちょっとした騒ぎになってしまった沢北とのやりとりの後、特に迷惑をかけたと自覚していた相手に謝罪をして回っていた。小さく笑って、少し茶化すように言葉を返す。

「迷惑かけたしな。お前の世話も任せちまったし」
「……なんすかそれ」

拗ねたようにわずかに突き出た唇に、自然と頬が緩む。
松本は謝罪をして回ったが、彼の言葉を素直に受け取る相手は少なかった。「何のことかさっぱり」などという相手や「助けになれなくてごめん」と逆に謝られることもあった。気を遣わせていたと思うし、嫌な態度も取っていたことだろう。しかし彼らは松本へそのことは口にせず、ただ本当に大丈夫なのか。と言う目線をくれた。
それに対して、松本は何も言えなかった。沢北のおかげ――というと、彼に申し訳なかったが――で、吹っ切れた部分もある。だが、それは全てではなかった。今でにしこりとして残り続けている。だが、それに対しての向き合い方が変わった。
そして、今までの向き合い方が周囲を傷つける――特に後輩の彼――ものだとようやく気づけた。

「……本当にごめん。お前のせいじゃないのに、八つ当たりみたいになっちまった」

色々な相手に謝って、最後の相手が彼だった。
しっかり目を見つめながら謝れば、沢北が座っていた身を少し縮めて、棘のある声を出す。

「八つ当たりじゃないみたいな言い方するんすね」
「嫌な態度をとりたかったわけじゃないんだ。ただ、自分のことでいっぱいになっちまって……。信じられないだろうけど」

ただただ、本心だった。
沢北を傷つけたかったわけではない。だが、彼を見ているとどうしても『先』のことで頭が埋め尽くされて、苦しさに息ができなかった。
悩むにしても、彼が目の前にいると、彼と対峙していると、彼とプレイしていると、胸が痛んでそれどころではなくなってしまう。
だが、そんなことは沢北は知らない。松本の行動は彼にとって、酷いものだっただろう。
だからこそ、信じてもらおうとは思わなかった。ただ、自分がこの可愛い後輩を嫌っているという認識だけは否定したかった。
沢北は体育座りにして、膝の上で組んでいた腕をぎゅうと握りしめる。

「……にしても、俺だけ酷かったっす。他の先輩とかは、話とかはしてたのに、俺だけ」
「うん。ごめんな。それは本当にそうだったと思う。でも、お前のことが嫌だとかそう言うのじゃ本当にないんだ」

その奥の真実は、もっとシンプルだった。

「むしろ、お前のことはホント……気に入ってる」

だから、彼の顔を見ているのが辛かった。
確定された敗北が、理解せざる得ない先が、それでも選択せざるを得ない現実が、見ていられなかった。
かろうじて笑みを浮かべて口にした松本に、その表情をつぶさに見つめていた沢北が、探るように問いかける。

「……可愛いだけだと思ってたやつにスタメン取られたから怒ってたんじゃないんすか」
「はは、言うなぁ。違うよ。お前がスタメンに入るのは当然だと思ってる。逆に俺が入ってたら、監督に抗議してたさ」

それもまた事実だった。互いのポジション、チームの連携、己と彼の実力。それらを鑑みて、チームに必要なのは沢北であるというのは松本の本心であった。そして、松本がもしスタメンになっていたら、言葉通り監督に抗議、とまではいかずともいつかの夜に監督を訪ねたように、話し合いに行っていただろう。
世間話でもするようにそう返した松本に、沢北がますます探るように、目を眇めた。

「なら、なんで」

なぜ――それは、言葉にせずとも分かる。
なぜ沢北にあのような態度を取ったのか。あのような態度を取ることになったのか。その明確な理由。それを、沢北は欲している。それも、松本は最初からわかっていた。わかっていて、この話題を降った。だが、返答は存在しなかった。してはならなかった。
少し息を吸って、しかし口を閉ざした松本に、沢北が唇を噛む。それは泣き出す前の子供のようで、胸が痛んだ。

「……教えてくれないんすか。あんなに酷い目にあったのに」

その通りだ。沢北は松本の勝手な葛藤によって振り回されてきた。真実を知る権利は、十分にあるように思えた。
それでも。

「それは……すまん。けど……これを、話すのは……」

喉が枯れるような感覚に陥る。声が出てこない気がするのに、次の瞬間には全て吐き出してしまいそうな、そんな不安定さ。
そんな己に歯噛みしつつ、一つ目を閉じて、視線を向ける。

「俺の、エゴになる。お前に……ぶつけていいもんじゃない」

真っ直ぐに向けられた視線に、沢北が顔を歪める。
それから、ぷいと顔を逸らして明らかに拗ねた声色で松本をなじる。

「なんすか、それ。やっぱ、俺に嫉妬してたんだ」
「だから違うって……」
「違くないでしょ」
「違うって」
「違くない」
「だから――」

それからは、違う違くないの応酬で、だからと言ってどちらもムキになることもなく。
途中で松本が彼の頬を軽く突っついて、やり返すように沢北が松本の頬を引っ張り、吹き出すように笑い合った。
決着はワンオンワンでつけようと、どちらともなく言い出し、結局はどちらが正しいなど曖昧になって二人で思う存分ワンオンワンをして夜練は終わった。

いつも通りに戻った松本が戻り、部内の雰囲気も元に戻った。
時間は有限であり、そして長くも短い。ただ身をぶつけるようにバスケと向き合い、練習を重ね、インターハイの時期が訪れた。
松本はベンチから、そして沢北、河田、深津はスタメンとして、全国の舞台で活躍する彼らを見つめ、時折交代し、全力でプレイをして、そうして――インターハイを優勝する山王工業高校バスケ部を見届けた。

その光景を目に焼き付けながら、決断の時がやってきたと松本は理解した。

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bkm