- ナノ -

パンドラの箱・18
「松本さん、今日は夜練ここでしてたんスね!」
「ああ。外、雨降ってたしな。雨脚も強かったからさ」
「そっすよ! 風も強そうだったし、正解です!」

沢北は松本の意見に同意して、判断を褒め称える。その様子に目を瞬かせた後に、そうかもな。と松本は笑った。
会話が続いた、久しぶりに! 沢北は内心で高揚しながら、自分よりも少しだけ背の小さな先輩を見つめる。
熱心に練習をしていたためか、額からいくつも汗が流れている。シャツを持ち上げて汗を拭っている様子に、汗を拭い切る前にと口を動かした。

「あの、久しぶりにワンオンワンしましょうよ!」

そのセリフを松本に伝えることが、本当に久しぶりで、沢北はボールを持っていた両手に力が篭った。
練習中は近寄り難い雰囲気で、夜練には体育館にいない。ワンオンワンをそもそも誘う機会さえなかった。
けれど今こうして真正面から話せている。その事実に、胸の奥が膨れるような感覚がして戸惑ったが、今はそれどころではなかった。
ボールを小脇に抱え、汗を拭っていた松本が、ゆるりと顔を上げる。
しかし、その視線が沢北を捉えることはなかった。

「あー、すまん。もう少し個人で練習したいから、またな」

膨らんでいたものが一気に縮んで、その奥でドク、と嫌な鼓動が聞こえた。
ドク、ドク、と振動を感じながら、彼の言葉を咀嚼する。
もう少し個人練をしたいから――そんなの、今までずっとやってたじゃないですか。そう口から飛び出しそうになるのを必死で抑え込む。同級の先輩さえ誘わずに、一人で黙々と練習をし続けていた。なのに、もう少し? もう少しとは、いつまでなのか。それが、沢北には手に取るようにわかった。夜練が終わるまで、ずっと一人で練習をし続けるのだ。沢北とワンオンワンをやる隙なんて作らないように。
手に持ったボールを取りこぼしそうな予感がして、ボールを腹に押し当ててパッと笑みを作った。

「ええーもう十分やってるじゃないですか! 深津さんたちもやりすぎって言ってましたよ」
「そうかな。まぁやらないよりはいいだろ。もっと実力つけないとな」

やりすぎ、と口にしているところは聞いたことはなかったが、ただ練習風景を見ている沢北でもオーバーワークなのではと思っていた。
けど、自分が思っていると口にしても聞く耳を持たないんじゃないかとヒヨって先輩の名前を使ってしまった。それでも、話を聞いてくれるならそれでいいと思った。きっと先輩も許してくれる。
だって言うのに、松本はサラリとその言葉を躱したどころか、もっと練習をしなければと言った。
『実力』をつけるために。
ボールが滑り落ちそうになって、沢北はどうにかボールを掬うように抱えた。
なんでもないように言われた言葉で、背中に汗が流れる。

――実力って、もしかして、
――俺、嫌味言われてる……?

元エースを差し置いて、エースと呼ばれるようになったから。
先輩を差し置いて、スタメンになったから。
そんなことにも気づかないで、いつも通り接していたから?

胸の内で首を強く振る。そんなはずがない、そんなこと、考える人じゃない。
だがそれは、ただ沢北が望んだ松本の姿だった。
それでも、それでも諦めたくなくて、沢北は必死で声を絞り出した。

「……じゃあ、明日やりましょうよ。明日ならいいですよね?」

そう、沢北が懇願するように見つめながら告げた先。
明日か、と小さく呟く松本の視線は、沢北を見ていなかった。
いや、そもそも。
沢北が誘ってから、一度も彼は沢北を見てなどいなかった。

ぷつり、と何か細いものが切れる音がした。

「いやですか」

声量の小さな、静かな声だった。
聞き取りづらかったのか、松本は少し間を置いてから、パッと沢北に視線を向けた。

「……え? あ、そうじゃな――」
「嫌なら嫌って言えばいいじゃないですか」

次はすぐに聞き取れる音量だった。むしろ、近くにおらずとも耳に入ってくる。
人の目を惹きつけるような、冷たく、固い、怒りの声色だった。
松本はようやく向けた目線の先、目尻を上げる沢北の姿を捉えた。

「……沢北?」
「いいですよ隠さなくても。俺のこと嫌いになったんでしょ」
「は? なんでそういうことに――」

松本が言葉を続けようとした瞬間、沢北がスゥ、と息を吸って、吐いた。

「だってそうでしょ!! 俺のこと避けるようになって、声かけても用事があるからってスルーして、さっきだってワンオンワン誘ったのに下手な理由つけて断ったし! あからさまに嫌そうな顔しておいて、何言ってんすか!!」

フロアに響く怒声は切迫していて、湿気に澱んだ空気を熱で切り裂くようだった。
練習をしていた部員たちが驚き、視線が沢北へと向かう。
怒声を目の前で受けた松本は、瞠目して口を閉ざしていた。その姿に、吐き出したはずの怒りがさらに噴き出した。
眉が吊り上がって、形のいいアーモンド型の瞳が憤怒に歪む。噛み締めた口元からは、歯が軋む音がした。
もう止められなかった。不安も寂しさも怒りもやるせなさも、なんの感情かもわからずに一緒くたになって口から吐き出されていく。

「スタメンに俺が選ばれたからですよね、二年のエースだった松本さん差し置いて、世話をしてたのに恩を仇で返されたって思ったんすよね。だから嫌いになったんだ俺のこと。なんなんすか、あんなに優しくしておいてッ、なら最初から、声なんか掛けんなよッ!!」

怒声がどんどん震えていって、憤怒に歪んでいた鋭い瞳は、白眼が赤くなってついに涙が溢れ出していた。
入学した時、またあれが繰り返されるんだと辟易としていた。下手な上級生たちから妬まれて呼び出されて、意味の無い暴力を振るわれる。
退屈で仕方がないバスケ。レベルが違いすぎる環境。馬鹿みたいな妬みの視線。
父親に勧められて親元から離れてやってきた先で、しかし沢北は期待が出来なかった。それほど中学バスケは退屈だったし、試合も全国だったら少しは楽しめたが、それだけだ。
けれど、期待も何もせずにやってきた先で、坊主頭の先輩のうちの一人が、笑みを浮かべて話しかけてきたのだ。
上手いな君、どこ出身なんだ? ポジションは? 俺も他県出身なんだ、練習キツイよな、友達は出来たか? なぁ、一緒に自主練しようぜ。
初対面なのに、どこからそんなに話題が出てくるのか、会う度に謎だった。
あれやこれやと話しかけられて、しかし無視することも出来ずにポツポツと答えれば、嘘みたいに嬉しげに笑う。
何だこの人、変な人。そう思っていた。
その先輩は他の後輩にも話しかけていて、やっぱり楽しそうにしていた。おそらく、後輩という生き物が好きなのだろう、と思った。でないとあんなに楽しそうなのはおかしい。
けれど、その後輩という生物の中でも、殊更先輩は沢北に話しかけてきた。
バスケの実力も驚くほど高かった。しかし慣れれば抜けないことは無い。けれど、負けてもその先輩は笑っていた。やっぱ上手いな、なんて言って。
ある時、移動教室の時に廊下ですれ違った。先輩は他の友人と共に居て、沢北は気付かないふりをするか悩んだが、なんとなくあまり大きくない声で挨拶をした。
すれ違いざまの挨拶が耳に入ったのか、パッと振り返ったその先輩は目を丸くして、そのあととびきり嬉しそうに笑って、足を止めた。
驚いて同じように足が止まった沢北の坊主頭に手を置いたと思ったら、そんなにすることあるか? っていうぐらい撫で回された。
「ありがとな」
そう最後に言って、先輩は手を振りながらその場を去った。
それが、どうしたって忘れられなくて、どうしたって向けられたことの無い愛情に感じて。
その人の厚意を疑うことをやめたのだ。

その人から話しかけられれば出来るだけ答えて、笑みを向けられたら自然と笑みが返せた。バスケ以外の話題でも興味がそそられて、真面目そうな顔をしているのに意外と茶目っ気のある先輩に驚いて、いつも間にかよく隣にいるようになった。
なんとなくどこにいるのか気になって、楽しそうにしていたらなんの話をしているのか知りたくなって話しかけて。
気づけば同級生とも普通に話すようになり、その人がきっかけを作ってくれて他の先輩とも距離が縮まった。
バスケに対しても、自分よりも上手い人や上手いプレイがあると教えられて、目から鱗が取れるようだった。狭い世界から、広い場所へと手を引いてくれた人。

だから、信じたくなかった。
他のくだらない奴らと同じ人間だなんて思いたくなかった。
それでもやっぱり彼は沢北に目を向けず、遠ざかろうとして行く。
失望する気持ちと、やっぱり行かないで欲しいという懇願と、どうにかしてよなんていう無茶苦茶な気持ちと、怒りと、悔しさと、悲しみと。
一緒くたになって、視界が揺れて、熱い涙が頬を伝った。

それを見て、その人は呆然と沢北を見つめていた。

「沢北……」
「嫌いになるんだったら、最初から、嫌ってろよ……ッ」

信じていたのに、信じることがこんなにも胸躍ることなのだと感じられたのに。裏切られて苦しむのは、殴られるよりも痛くて辛い。こんなものを感じるぐらいだったなら、あんなものを押し付けないで欲しかった。
優しくて、柔らかくて、抱きしめられているようなあれを壊したなんて、思いたくなかった。

沢北の慟哭が消え、誰も口を開くことが出来ない体育館に、雨音だけが響いていた。
いつの間にか沢北の手からボールはこぼれ落ちていて、松本が転がったボールを見つめた後に、自身の持っていたボールをそっと床に置いた。

「嫌いになんてなってない」

正面から聞こえてきた、感情の乏しい声に腹でとぐろを巻く感情がぶわりと広がり、口からまろびでる。

「ッ、なんすか! 今更優しいふりっすか! もういいよ、そういうの……!!」

そう沢北が涙も拭わぬまま詰る。けれど、目の前の男はただ静かに沢北を見つめていた。
睨みつける沢北の視線を、ただ受け止めていた松本が、すぅ、と息を吸ったかと思うと、肺から全て息を吐き出すようなため息を零した。
その息に呆れが篭っているようで、沢北はビクリと肩を揺らした。
息を吐く音が消えたあと、顔をふせながら松本は力なく頭を左右に揺らした。

「嫌いじゃないよ」

ヘトヘトになって、力が抜けて、汗を流しながら、それでもなお、同じようにへばっている沢北に気遣って話しかけて来る時の声に似ていた。
少し呂律が甘くて、いつものキビキビとした発声とは違い、どこか柔らかくも聞こえるその声色。
あげた顔が、その声みたいに眉が下がって、力なく笑みを浮かべていて、ほんの、ほんの一瞬だけ怒りが霧散した。

「本当に、可愛い後輩だよ、お前は」
「な、んすか、それ」
「素直で、元気が良くて、バスケがうまくてさ。……嫌いになる要素なんて何もないよ」

今更だ。そんな、嘘ばかり。
冷たくしていて、その後輩から逆ギレされたから取り繕っているんだ。この場だけを切り抜けようとしている、また逃げようとしているんだ。狡い人なんだ、こんなのも、本当は気遣いが出来なくて、うるさくて、実力が自分より上の後輩が妬ましいっていう意味だ。
そう思う。本気でそう思う。でないと、今までの行動に辻褄が合わない。騙されてはいけない。そうなのに、反論しようとする言葉が喉で詰まる。

それを知ってか知らずか、松本の手が伸びた。そっと頬に触れようとした手を、咄嗟に払い落とす。しかし逆に、その手を掴まれて、強引に涙でべしょべしょに濡れた頬を拭われる。
独り言のように、ポツリと「なんでこんなに可愛いんだろうな」などという言葉が彼の口から零れた。

「、なに」
「もうちょっとムカつくやつだったらなぁ」

彼はそう、何故か喉にものが詰まったような顔をする。
目を傷つけないように柔く目元を押して、まつ毛を辿るように指の腹で拭われて、恨み言を吐くための口が、別のことを零した。

「……河田さんには、よく言われる」

不貞腐れた子供のような口調になって、なんだか絆されているようで口を結んで睨みつけようとすれば、パチリと目を開いた彼が突然吹き出した。
笑ってる。先輩が、俺の目の前で。
綺麗なマネキンみたいな笑い方じゃなくて、ちゃんと笑っている。

「ぷ、はは! あー……そうだったな。でも、俺には可愛い後輩ってだけだし、多分河田もそうだよ」

他のみんなもな。
そう、当然のように言われて、どの口が、と思う前に懐かしさのようなもので胸を押しつぶされる。そうだ、この人はこうやって、人の心にズカズカと入り込む。
沢北は酷く懐かしく感じるそれに、ぎゅっと目を眇める。

「……先輩たちは、気にするなとか、お前のせいじゃないとか、自分にも冷たいとか、代わりに構ってやるって、言ってくれました」
「……ん、そうか」

先輩たちはいつも以上に気遣って、優しかった。それが尚更、松本からの態度が異常なのだと伝わり沢北は辛かった。
松本は静かに受け止めて、そっと目を伏せた。沢北の手を掴んでいた力が弱まる。

「ごめんな……」

発せられたその言葉は、望んでいたようで、望んでいなかった言葉だった。
謝ってほしい訳ではなかった。確かに憤りもあり、失望もあった。だが、そうではなくて、ただ沢北はいつもの松本に戻ってほしいだけだった。
そして、ちょっと調子が悪かっただけだとか、そんなことを言って自分のせいでああなった訳ではないと証明して欲しい。何もなかったように、元の松本に帰ってきて欲しい。ただそれだけだった。
だから、謝罪などなんの意味もない。けれど、その声はか細くて、暗い色を灯していて、重い暗がりに沈みこんでしまいそうだと沢北は漠然と思った。
力の弱まった手が、完全に力を失い沢北の手から離れる。
それを咄嗟に握りしめた。崖から落ちるような感覚に、離してはならないと色が白くなるほど強く握りしめる。
顔を隠すように伏せた面持ちが、のろりと上がる。
いつも沢北を見つめてくれていたキラキラと輝く双眸はモヤに包まれたように曇り、どこを見ているか分からないぐらいだった。
その瞳に、彼を強く見つめる沢北の姿が映る。
暗雲の中に涙に濡れた、星のような双眸が光る。松本は目を眇め、酷く顔を歪ませた。

「……ってくれ、」
「松本さん……?」

途切れそうなほど細い声は、意味が理解できるほど明瞭ではなかった。沢北が彼の名を呼ぶと、松本は喉から絞り出すように、震える声をあげた。

「勝って、くれ……勝って欲しいんだ。勝って欲しい……お前の泣き顔は、見たくない……」

恐れるような、引きつった声で吐き出された言葉は勝利を望む声だった。そうして、負けたから泣くだろうと信じきって、泣き顔が見たくないという無責任な言葉。
その後に言葉は続かなかった。そもそも無かったのか、それとも顔を覆った手のひらの中で掻き消えたのか。
勝って欲しい、なんて、自惚れた言葉だ。山王は勝つだろう。深津や河田、沢北もいる。今の山王はあまりにも強い。
負けるわけが無い。そんなことで悩んで、そんなに苦しでいるのだろうか。沢北には、何も理解できなかった。
けれど、一つだけ分かることはあった。
溜まった雫が、耐えきれずに頬へこぼれ落ちる。今、こんなに悲しいのは、苦しいのは、

「俺を泣かせてんの、あんたじゃん……」

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