沢北が監督に呼ばれた理由は簡単だった。練習に集中できていない。今日のミニゲーム中もプレイに身が入っておらず、パスミスを起こした。
インターハイも近づき、身を引き締めなければならない時期だ。監督から注意も受けるのも当然であったし、沢北もその自覚はあった。
それでも、集中できないものは仕方がない。そもそも、自分は悪くないのだ。
「話を聞いてるのか、沢北」
「……はい」
ワンテンポ遅れての受け答えに、堂本が一つ息を吐く。
「今日はもう行っていい」
「え、はい」
長引くと思っていた話は意外にも早く終わりを告げた。
本当に帰っていいものだろうか、と沢北が動けずにいると、堂本が静かにいう。
「深津や河田に相手をしてもらえ。もうすぐインターハイだ。気を引き締めなさい」
「……分かりました」
沢北は一つお辞儀をして部室を後にする。扉を閉めたあとに、ガシガシと頭をかいた。
堂本が口にした名の中に、彼がいない。それが沢北の集中力を削る原因だった。
数週間前からだ。自分を可愛がっていた先輩が、距離を取ってくるようになったのは。
最初は気づかなかった。挨拶をすれば変わらず返事が返ってきて、笑みが向けられる。
部活中は休憩中にも休まずに個人練をしていて、なんだか集中しているようだったから声をかけずに他の先輩のところへ行った。
部活終わりの夜練に相手をしてもらおうとしたら、いつの間にか体育館にいなかった。そんなことが続いて、他の部員に聞いてみれば外周に行っているとのことだった。
その頃には話す機会がぱったりとなくなっていて、別になんでもいいから話がしたくて外周に一緒に行こうと思っても、全く捕まらない。
この時から沢北はおかしいと思うようになった。
いくらなんでも、こんなにすれ違うことがあるだろうか。いや、そもそも自分から声をかけずともこれまでならば、相手から声をかけてくれていたはずなのに。
さすがだな、よくやった、シャンとしろよ、水分ちゃんと取れ、調子が良さそうだな、なぁ、ワンオンワンやろうぜ。
部活に入ってから、何度も聞いたそれらが、全てなくなって、シンと静まり返っていた。
どうして、なんで? 沢北はようやくそれらに気づいて背筋に悪寒が走るような心地になった。どうしてそんな気分になったかはわからない。ただどうにかしなくてはと焦りが生まれた。
それからは前にも増して声をかけるようになった。挨拶は当然欠かさずしたし、姿を見つけたら駆け寄って、寮で顔を見合わせたら話をふった。
だっていうのにその先輩は、挨拶には笑みで返してくれるのに、その後にいつも用事があるみたいに顔を逸らして背を向けてしまうし、駆け寄ったら他の先輩を嘘みたいに自然に呼んでいつの間にか話の輪から消えているし、寮で顔を合わせたら猫のようにするりと話題を切り上げて去ってしまう。
その腕を掴む間もないぐらい、風が通り過ぎるように沢北の前からいなくなってしまう。
物理的にそこにいるのだから、掴もうとすれば掴めたのかもしれない。けれど沢北は怖くてできなかった。掴んだ手が、振り解かれてしまうんじゃないかと思ってしまって。
距離をすぐに縮めることはできないと悟って、沢北はようやく頭を動かし始めた。
先輩はいつから自分のことを避けるようになったのだろうか、いつから変わってしまったのだろうか。
そのことは、あまり考えたくなかった。何も思案せず、ただ行動して解決するならそれが一番良かった。
だって、考えてしまったら、嫌な結論に辿り着く気がしていたから。
その先輩が首を痛めて入院することになって、戻ってきた時はいつも通りだった。
首を痛めてしまって、首に白い固定具を巻いていて痛々しかった。けれど痛みなんてないように笑って、早くみんなとバスケしてぇな、なんて笑っていたからホッとしたのを覚えている。
首から白が取り除かれて、先輩が部活に戻ってきた。とても嬉しかったのを覚えている。
けれど、少しして――話す機会がなくなっていったように思う。
そのころは、何があっただろうか。そう記憶を辿って行った先で、ずっと脳裏に存在していた出来事が表立った。
インターハイでの、レギュラーの発表だ。
それぞれにユニホームが渡された。沢北は十三番。その先輩も、ユニホームを受け取っていた。
けれど、スタメンに選ばれたのは沢北で、先輩はベンチだった。
その先輩は、バスケが上手かった。努力に裏付けされた技術と自信があって、見ていて清々しいプレイをする人だった。
入った当初は、エースと呼ばれていた気がする。だが、最近はその言葉は聞かなくなった。
いや、耳にはしている。しかし、それは先輩を示してではない。
先輩の代わりに、沢北がそう呼ばれるようになった。先輩はバスケの上手い人ではあったが、沢北には敵わなかった。
先輩は、部活の休憩時間の間も個人練をするようになって、夜練も一人でずっとしていて。沢北が声をかけても避けていて。
そんなはずはない。と沢北は信じたかった。
そんな、スタメンに入れなかったぐらいで、自分を遠ざけるような人じゃないと信じたかった。
けれど確証は持てずに、本人に聞くわけにもいかず、そもそも話もできなくて、沢北は他の先輩に尋ねた。
最初は包み隠さず、思ったことをそのまま口にしたら「『スタメンに入れなかったぐらいで』って言うのは、俺以外には絶対に言うなベシ」と釘を刺されながら「松本の様子がおかしいことは気づいてるベシ。俺もスタメンだけが理由だとは思ってないが、理由はわからないベシ。松本は周りが見えてないベシ。こっちでどうにかするから、お前は気にせずバスケをするベシ」と言われた。
気にするなと言われても、気になってしまってバスケに集中なんてできない。
他の先輩にも助言を求めて、一つ前の助言を参考にスタメンのことは濁して話をした。
「松本がおめに構わねのは、おめのせいでね」
「俺にも最近冷たいから、同じ」
「ちょっとほっといてやろう。代わりに俺が構ってやるよ」
みんな優しかった。いつもは厳しいことを言う先輩も、少し困った表情をして、慰めの言葉を口にする。
それが、逆にあの人が俺を避けているんだと分かって、今すぐにその人に飛びかかって、真偽を問い詰めたい気持ちになった。
けど、そんなことはできない。傷なんてないのに、殴られたみたいに体が痛くて、苦しくなって――。
部室から体育館への道のりを歩いていく。沢北が窓を見ると、雨がガラスを強く叩いていて、風で木々がザワザワと揺れていた。
彼はこんな日でも外に出て行ってしまったのだろうか。カッパを着込み、坊主頭をビニールに隠して、一人で黙々と走っているのだろうか。
沢北の足がどんよりと重くなる。中学で、先輩に殴られた時もこんな気分にはならなかった。
そう頭を掠めて、いっそ殴られたいと思った。彼が手を上げて、そして元に戻ってくれるのならばそれぐらいの痛みを受けてもいい気がしてきていた。暴力を振るったことを謝って、また一緒にバスケをしてくれて、その視界に自分を映して、ちゃんと笑ってくれるのならば。
けれど、それが敵わないことを知っている。沢北の知る彼は、決して人を殴るような男ではなかった。
フロアをゴムが引っ掻く音と、ボールが跳ねる音。それらが近づき、扉を潜ると耳にダイレクトに聞こえてくる。
顔を上げたその先に、見慣れぬ姿を見つけて目を見開いた。
部活後は必ず外周に出ていた先輩が、そこにいた。体育館の隅の方でドリブル練をしていて、深く集中しているようだった。
だが、沢北にとってはそんなことはどうでも良かった。今までずっと自分の前にいなかった先輩が、今日に限ってここにいる!
今日しかない。今しかない! その気持ちでいっぱいだった。焦燥感と期待に煽られるまま、カゴに入っていたバスケットボールを手に取って、フロアを駆ける。背後で声をかけられた気がしたが、沢北には目線の先しか見えていなかったし、彼のドリブル音しか聞こえていなかった。
短くも遠い距離を駆け抜けて、そして精一杯の大声で呼びかける。
「まつもっさん!!」
すぐに目線を向けたその人は、汗が滲んだのか、目を細めながら沢北を見ていた。