- ナノ -

パンドラの箱・16
体育館の空気がじわりと湿っていて、鼻に外から滲んだ土の香りが漂ってくる。
雨粒の音がバッシュの音やボールが床を叩く音に紛れて鼓膜に届く。本当は、外周に行こうと思っていた。朝からどんよりとした黒い雲が空を覆っていて、部活の終盤までは堪えていたのに、終わった瞬間にざあっと粒が降ってきた。
小雨なら頭にタオルでも被って行こうかとも思ったが、残念ながら今まで耐えてきた分を降らせたようなそれなりの雨で、体を冷やしてまで外に行くのは意味がないと室内での練習を選んだ。
いや、本当はカッパを持っているから、体が冷えてもその分体を動かせばいいと外に出ようとも思った。だが――彼がいなかったから、今日は室内でもいいかと考え直したのだ。
背を低くして、ボールをひたすらドリブルし、パウンド、フロント、レッグスルーと順番を決め、時にはランダムに、ドリブルの種類を変えながら永遠と続ける。
ドリブルは基礎中の基礎だ。いくらやっても足りないぐらいに。
皆こうやって、日々練習に励んでいる。山王のバスケ部員たちも――湘北のメンバーも。

(くそ、なんで頭に浮かぶんだ)

そう一人で零しても、誰も聞き取りはしない。当然だ。脳内で喋っているだけだ。
部活中は思考に入り込む隙がない。けれど、こうして一人で練習していると、頭の隅に滑り込んでくる。
もう少しで、インターハイの予選が始まる。山王はきっと順調に勝ち進めるだろう。そして本戦では幾多の強豪校を蹴散らして、王座に輝く。
それは誇らしく、喜ばしいことだ。知っていても、その活躍に心が躍ってしまうほどに。
深津、河田、そして沢北。三人のバスケがチームを優勝に導く一助になる。彼らの活躍が楽しみでないわけがない。
だが、こうしているうちにも時間はすぎる。予選、本戦、そしてインターハイ優勝。
そしてその先に、国体、ウィンターカップが待っている。さらに次は――。
考えるだけで吐き気がする。頭を抱えて蹲ってしまいたい。

――ああ、馬鹿だな、と思う。

なぜ、俺はこんなに思い悩んでいるのだろう。
ただの空想、絵空事の嘘っぱちかもしれない漫画の知識なんかに振り回されて。
そうして一人で練習にのめり込んで、深津たちに気を遣われて、監督にまで気に掛けられた。
自分では、隠していたつもりだった。けれど、やはり一年ともにしていた彼らには伝わってしまったらしい。
考えてみれば、彼らと交流していた時間も練習に費やしていたのだから、変に思われて当然かもしれない。同室の一之倉には早々に気づかれて、踏み込まれたくなくて彼と顔を合わせないように部屋にいないことも増えた。
申し訳なかった。何もかも。
深津からの脱走の提案は、ひどく魅力的だった。なんとか断ったが、その魅力に傾きそうになる程自分が自分を追い詰めていたのだと、その時初めて気づいた。監督から差し伸べられた手が、暖かくて優しくて何もかもぶちまけてしまいそうになって無理やり息を詰めたのも、自分自身に驚いた。

阿呆みたいだ。自分自身で己を追い詰めて、答えが出せなくて袋小路に陥っている。

時間は有限だ。そしてずっと迷っていられるほど高校の時間は長くは無い。
あれはこれはと考えて、浮かんでいる答えを見て見ぬふりをしている。本当は分かっているんだ。何をするのが正解なんて。

結果のわかっている試合などフェアじゃない。答案用紙を盗み見て試験に望むようなものだ。いくら相手選手が生きている人間だとしても、未来視なんて馬鹿な真似をされたら試合自体がただのお遊びになる。
その通りになるとは限らない、予想外のことが起こるかもしれない――それがなんだと言うのだろうか。俺が持っていてはならない知識を持っている、その事実は変わらない。
勝とうとすれば勝てるだろう。主人公に怪我もさせずに済むかもしれない。
だがそんな勝手なことが許されるのか? なら、知らぬ存ぜぬで何もしないか。
そんな器用なことが俺に出来るか? ただ負ける試合を眺めていろというのか? 俺たちは努力した、きっと誰よりも。他の強豪校や湘北よりも。その自負がある。
高校最後のインターハイ。スーパーエースの日本での最後の晴れ舞台。そんな場面で、俺は負けを受け入れることが出来るか?
――嫌だ。
俺は、仲間たちと一緒に勝利を勝ち取りたい。
だがきっと――彼らはアンフェアな勝負は望むまい。
試合の展開を、どうなるかを全て知った裏切り者がいる試合で勝って、彼らが喜ぶだろうか。
口に出さなければいい、俺が口を閉ざしていれば、皆は知ることは無いだろう。
皆で勝利を勝ち取って、優勝まで駆け上がる。
裏切り者を一人引き連れて、彼らの青春を汚して、自分のエゴのために勝利に導いた不届き者を知らぬまま、山王は三度目の栄冠を手に入れる。

もし、
もし、他の誰かが、未来の試合を知っているのだと口にしたら、俺はなんて言うだろう。

答えは分かりきっている。
きっと、堂本監督が口にしようとしていた答えと同じ。

故意でないとしても、フェアに勝負ができないのならば。


「まつもっさん!!」

――雨の音を切り裂いて、威勢の良い声がフロアに響く。
咄嗟にそちらを振り向くと、沢北が笑みを浮かべて駆け寄ってきていた。
どうしてここにいるのだろう。さっき監督に呼ばれていて、夜練には顔を出さないと踏んでいたのに。
眩しい笑顔で目が眩む。ああ、頭が焼き切れそうだ。

prev next
bkm