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パンドラの箱・15
部員の個々のメンタル管理は、残念ながら監督が全て担える訳では無い。
マネージャーやキャプテン、副キャプテン、先輩、仲間たちからのフォローで持ち直すことが大抵だ。
つまり、監督の元へ届くのはよっぽどの時だ。そして何より、監督自身もその異変を感じとっている時。

マネージャーから伝えられた松本の異変には堂本も勘づいていた。
不調などではない。練習は誰よりも真面目に取り組み、休憩時間も自主練に充てている。
部活終了後も外周を走っていたりと、一人で黙々と練習しているのを確認していた。
シュートの精度も上がり、パスを行う判断も的確だ。今年はベンチメンバーだが、確実に来年には山王に必要な戦力として表に出てくるであろう、そう堂本が思うほどの正確さを得つつあった。
だが同時に彼の周囲に活気が失われた。いや、彼が生み出していた活気というべきだろうか。
騒がしいタイプではない松本だが、人と関わるのが好きな性格であると堂本は見ていた。期待を背負いやってきたものの、尖っていた沢北に最初に声をかけたのも松本であったし、同級生や後輩を一番気にかけているのも松本であった。
余裕があるというよりも、どうしても意識が向いてしまうのだろう。後輩の指導をしていて、自らの練習時間を取れていないような場面も見たことがある。試合に勝つことよりもスタメンに入ることが難しいと言われている山王バスケ部において、ある種特殊な行動であった。
だが自身の勝負を捨てているわけでもない。冷静に、そして熱くスタメンを狙う気迫はプレイを見ていれば伝わってくる。沢北との実力差を理解しながらも、同じポジションとして食らいつく姿勢は沢北にもいい影響を与えていただろう。
二律背反する思考を持ちながらも、それでなおどちらも是とする器用な選手。そういった部員が学年に一人いると、その年は随分と監督やキャプテンたちが楽になる。本来気を回さなくてはならないところが、先にカバーされているからだ。
だからこそ、その選手の違和感には上は気づきやすい。全体に歪みのような違和感が流れるからだ。
本人としてはうまく隠しているつもりなのだろう。それが松本でなかったのなら、マネージャーも気づかなかったかもしれない。
良くも悪くも、彼はバスケ部において存在感のある部員だった。

「松本、少しいいか」
「はい」

終わりの号令が体育館に響き渡った後。部活終わりに個人練をしようとしていたのだろう、外へ向かおうとしていた松本に声をかける。
いつもと変わりのない声色で、松本が返事をする。まだ少し息が荒かった。
松本の背後で、少し遠くから深津が様子を伺っているのが視界に入った。周囲をよく見るという点においては、深津も群を抜いている。
その視線を避けるように体育館の隅へと松本を誘導する。黙ってついてきた松本は、振り向いた堂本の視線をまっすぐに受け止めた。

「単刀直入に聞こう」
「はい」
「何か不満があるのか」

ほぼ断定として訪ねたそれに、松本の顔はピクリとも動かなかった。
選手が様子が変わるのは、プレイの不調、人間関係の不和など様々な要因が挙げられるが、松本の場合に当てはまるものはスタメン落ちのショックであった。イップスの兆しはなく、むしろ実力を伸ばしている。人間関係においては、練習に熱を入れ過ぎるがあまり離れているだけだと堂本は判断していた。
真顔のまま、松本はハッキリと告げた。

「ありません」

虚勢の色は見えなかった。しかし感情の起伏の薄いそれに、彼の抱えるものが何かしらあることがハッキリと知れた。
それならば、堂本は角度を変えて問いかける。

「なら、何か不安があるのか」

わずかに口元が引き締められた顔を見て、彼を苛んでいるものが不安であることが察せられた。
しかし堂本が理解していることは表には出していない。松本は少し顎を引いて、横にぶら下げていた腕をそっと後ろで組んだ。
張られた壁に気づいた堂本が、無意識に目を細めかけ、それを自力で止めた。

「何かあるなら教えてくれないか。松本の意見は参考になる」

その言葉は堂本の本心だった。松本の意見に救われたこともある。
去年の夏、彼は堂本へ意見を告げにきた。冷静に、理性的に、順序立てて伝えてきた。それらは堂本が思案していたことにも被っており、早かれ遅かれ行うことではあったかもしれないが、現場からの意見と言うことで練習内容変更をすぐに行い、大型扇風機の導入もスムーズに行うことができた。
今回もそのような内容であるのならば、むしろ堂本は話を聞きたかった。だが同時に、そうであるならば彼がこれまで何も言わないわけはないだろうとも考えていた。
松本は少し驚いたように目をゆっくりと瞬かせ、それから凛々しい眉をわずかに歪めた。
社会人然とした顔に、高校生の姿が覗く。

「ご心配おかけしてすみません。個人的なことなので、気にしないでください」

だがその内容はまるで企業にいる人間のようだ。少し言葉が砕けてはいるが、意図してやっているのではないかと疑うほどに流暢だった。
明確に引いた他人との線に、しかし一歩進んだと確信する。先ほどまでの、不安という感情を隠そうとしていたところからすれば。

「個人的な内容だからと言って、聞く耳を持たないことはない。場所を変えるか」

拭われていなかった汗が、松本の額を滑っていく。目元を辿ったそれが、眇めたときにできたシワに沿って流れた。
いよいよ、その顔は不安を割れ目から覗かせる。抑えようとしても、一度表に出てきたそれはなかなか仕舞えない。
それは不安が大きければ大きいほどそうだろう。そのことを知りながら、堂本は続けた。

「他言をすることはない。安心しなさい」

どれほど大人びていようとも、彼はまだ十六歳だ。空気を和らげるために笑みを浮かべた堂本に、松本の顔に大きくヒビが入る。
それに、堂本の笑みが掻き消えた。瞠目した瞳に映ったのは、不安というよりも――苦痛を耐える表情だったからだ。
しかし何秒もしないうちに、松本の顔が伏せられる。それに焦ったのは堂本だった。彼がこの場で、泣き出すのではないかと思ったからだ。
松本は後ろ手に組んだ腕を、ギチリ、と音が出るほどに強く握りしめた。それから、「ふーーー……」と長い吐息の音が堂本の耳に入った。
また数秒後、顔を上げた松本の顔には苦痛の姿は消えていた。その代わり、澱んだ目の色に堂本は眉を寄せる。

「一つ、聞きたいことがあります」
「……言ってみなさい」

予想とは別方向へ動き出す会話だったが、止めるのが最善であるのかは堂本には判断がつかなかった。
だが、ここで彼が会話を打ち止めして理解が遠のくよりも、何かしら言葉を引き出せた方がまだいいかもしれない。
許可を出した堂本に、松本がハッキリとした口調で問いかけた。

「フェアな勝負ができないと分かっていたら、監督ならどうしますか」

フェア――また、曖昧な意味合いの問いだと内心で呟く。
勝負、というのはバスケのことだろうというのは想像に難くない。
だが、フェアとは。勝負をバスケと仮定するとしても、その範囲は広い。
体の不調がある相手とのバスケ勝負はフェアではないだろう。試合と考えるのならば、試合に多く出ている分映像資料が多く残っている山王は他校に解析されやすい。逆に強力なOBとの繋がりがあり、他校との練習試合を滅多に組まず、高校バスケ以上のレベルと戦える山王もまた他校から見れば恵まれた環境であることは確かだろう。
そもそも完璧にフェアな勝負など存在しない。選手にはそれぞれコンディションがあり、各校には特色がある。それらを挙げていってはキリがないだろう。
だが、彼が言いたいことがそのようなことではなく――もっと分かりやすいものだとしたら。
どう思考が及んだかはわからないが、例えば――ドーピングのような、明らかな不正が行われたと仮定するならば。
そんなものは考えるまでもない。相手が行ったのならば即失格。己であったのならば――。

「おかしなことを聞いてすみません。やはり、なんでもありません」
「……まだ答えは言っていないぞ」
「はい。答えは、自分で見つけます」

濁っていた瞳は、今はガラス窓のように堂本の固い顔を反射していた。おそらく、今堂本の意見を口にしたとて、彼の心には響かないだろう。
いつか、マネージャーが口にしていたことを思い出す。――松本は、意外と頑固なタイプですよ。
その言葉が一番あっては欲しくないところで実感出来てしまった。
松本は感情を削ぎ落としたような顔をして、真っ直ぐに堂本を見つめ、突き放す。

「ご心配をおかけして申し訳ありません。ご迷惑はおかけしないようにいたします」
「……いつでも相談に乗るから、話したくなったら話しに来なさい」
「はい。ありがとうございます」

後ろ手に回したまま、深々と頭を下げた松本は頭を上げた一瞬だけ堂本を視界に入れると、流れるように視線を逸らし、踵を返した。
去っていく背中から、ようやく組まれていた手が解かれる。その握られていた手首が赤く痕になっているのを見てとって、堂本は音もなく深々とため息をついて頸に手を当てた。

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